きよらなるきみのひよ

 恐ろしく早い梅雨明けと猛暑——滝行にもってこいの季節だ、と意気揚々と山へと通う空却は、ほとんど毎日滝に打たれているのに一向に生臭坊主のまま変わらない。
 もしや『滝行に通う』ということが欲望としてカウントされているのではないか? と思ったが、水に打たれたくらいで人間はそう変わらないものだろう。
 なんにせよ、いってきますとただいまを言う背を見送るだけだったのだ。

「あの馬鹿……!」
 ぜえはあ、と突き刺さる日差しの下、汗みどろになりながら真昼の山道を登るのはえらくしんどい。
 トレッキングは嫌いではないが、完璧なプランニングをし、コンディションを整えた上でするから良いのだ。父親泣かせの野生動物じみた悪僧のように着の身着のままで登るなどしたくもない。
 それでも重い荷物を寺に預け、最低限の備えだけをして、仕事着のたま酷暑の山登りに臨んだのは『家族』への情だ。
 なんでも今日、依頼人に渡す予定の書が仕上がっていないのに、山、と言って出ていってしまったのだと言う。
 大変お忙しい身の上の方で、今日の夜にも帰国するから、その前に『空却から直接』受け取りたいとのご依頼を、本人は「拙僧の字が気に入ったのはお目が高ぇけど、なんで拙僧から受け取りてぇんだよ」と鼻をほじってぼやいていたそうだ。
 そして今である。せめて書を仕上げておいてくれれば、という住職の嘆きに痛いほど首を振った。
 寺を空けるわけにもいかず、かといって探さないわけにもいかず——すでに何人かが向かったものの、気分で行く先が変わるから見れていないところもある、と頭を抱えるのを見過ごせるわけもない。
 空却が以前にいたく気に入っていたスイカを差し入れに来ただけだったのに、と思わなくもないが、このトラブルが大きなものになったら尻拭いするのは百で自分だ。
 ならば可能性を潰しておきたい。上手いこといったら空却自身に代償を支払わせる。そう決めた。

 腹を括っても日差しが弱まることもなければ気温が下がることもない。むしろ日が頂点を極める真っ最中は、さらなる過酷さへの序章でしかない。
 貰った地図と近づく涼やかな気配からすると目的地は近いが、いてもいなくても同じ道をまた戻ると思うと憂鬱だ。
 出来ることならいてほしい。
 そうしたら心置きなく罵倒して、荷物を持たせ、帰り道延々説教してやれる。
 急な山登りと酷暑で重い足を上げ、下ろす。一歩踏み出すごとに音と匂いが水の存在を伝え、汗をかいて干上がった体が期待にふるえる。
 長く伸びた草をかき分け、開けた視界の先——山を流れる川の終点にちょこんと出来た小さな滝と、人影があった。
 足場になる岩に囲まれた浅い滝壺は何度か連れられた内の一つで、ここは穴場で人よりも獣の方が多いと笑われたのを思い出しながら目をこらす。人影の頭のあたりを注視して、存外に激しい水流に打たれているのが見慣れた赤毛と同じ色なのを確認した。
 もはや今さら、と濡れるのをかまわず足場を進み、滝へと近づく。普段ならばとっくに気配に敏感な悪僧がこちらに声をかけてくるところだが、修行中やDRB中の集中力はちょっとやそっとでは揺らがない。間近に迫るといっそうすさまじい流水音にかき消されるのに負けじと叫ぶ。
「空却!」
 疲労困憊しているとはいえ、腹の底から渾身の一声放ったつもりだったが、滝行に勤しむ悪僧はすました顔のままぴくりともしない。髪も服も濡れて張りつき、まぶたとくちびるは固く閉じられたまま、声が届いているとしても満足するまでは決して動かないだろう。
「……はあ……」
 一体いつからはじめたのか、くちびるの色がいつもより薄い。顔色も決してよくはない。
 先ほどから全身に滝の飛沫がかかっているが、うだった体にちょうどいいくらい冷たいのだ。
 それをずっと浴びているなんて——だからこそ修行になるのだとしても——とても真似出来ない。
 今は夏だからまだいい。冬なんて想像したくもないが、こいつはやるから恐ろしい。
「……空却、寺にスイカがある。帰ったら食おう」
 集中した空却の気は生半可な事では引けないなんて、誰よりもわかっている。だから休憩も兼ねて近くの大きな岩に座り込んで、大きめの独り言を呟くことにした。
 聞こえていてもいなくても満足すれば終わるし、くちびるが紫にでもなったら無理矢理にでも連れて帰る。
 まだ午後になったばかり。日が暮れる前には帰れるだろう。

「……うるせぇんだよ……」
「お、意外に早かったな」
「滝の音に紛れてわかんねぇと思ってんだろ。逆なんだよ」
「集中してる分、鋭敏になるってことか?」
「そゆこと」
 益体のない独り言をはじめて数分、滝から人の動く気配がして、へたった赤毛と水を吸って重たく張りついた行衣を引きずりながら空却があらわれた。歩くたびにぼたぼたと水たまりを作り、弱いシャワーのような状態のまま、隣にどかりと座り込む。
「灼空さんが困ってたぞ、依頼品の仕上げもしないでって」
「だってよぉ、気色悪いんだぜ? 君の字はドラゴンの化身だ〜とか言ってベタベタ触ってきやがるから」
「……聞いてないが?」
「言ったらキレるから黙ってたんだよ。……親父の知り合いの知り合いっつーし、あんましつこいから依頼は受けたけど、そんなんだからどうにも筆が乗らなくてよ。当日になってもこの調子だから仕方なく」
「仕方なく、なあ……」
 空却は派手派手しい見た目で忌避されることもあるが、惹かれる者はとことんまで惹かれ、セクハラすれすれ、あるいはセクハラそのものの事案にぶち当たることがある。
 本人の腕が立つから未遂で終わり、気にしない性分だから気づかれず、結果として俺が後始末やら牽制やらに追われるはめになっている。
「で、だ。相手が気色悪いなら、その気色悪さを省みれるような書を書いてやんなきゃいけねぇだろ?」
 滝行は心身の穢れを清める儀式なのだと語るくちびるは、いつもの血色の良さを取り戻し、薄桃色の艶めきが、に、と得意げに弧を描く。
「だからまず、自分自身を省みねぇとな」
 真珠色の犬歯が輝く笑顔は十分に清らかに見えた。
 滝行なんて、必要ないくらいに。
「そこまでするかあ?」
「なんだよ、まぁた遠回しにセクハラだ〜って圧かけるつもりか?」
「当然の権利で義務だ」
「ベンゴシセンセ、怖ぁいの」
 何が面白いのか、ずぶ濡れの空却が立ち上がり、けたけたと凶悪な哄笑と共に歩き出す。邪魔なのか行衣の裾と袖を絞り、壊れた蛇口のように水を垂れ流した。
「さっさと終わらせて、スイカ食おうぜ! ……そんで、ここまでお迎えに来てくれた獄には、心身ともに清らかになった拙僧をご褒美にくれてやる」
「元はと言えばお前がだらだら引き伸ばしたからだろ」
「なんだよ、いらねぇの?」
「いらねえわけがねえだろ」
 こちらの答えに満足したのか、空却は、今日会ってから一番、綺麗な顔で微笑んだ。

2025/7/4


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