人間、あるいは亀

 獄と空却が喧嘩するとき、たいていにおいて悪いのは空却なのだが、恋人として、と枕詞がついた瞬間、少しだけ比重が変わる。
 だから十四も、恩人、神、と慕う獄が頬に綺麗な紅葉をこさえて話を聞いてほしい、と呼び出してきたとき、つい言ってしまったのだ。
「獄さん、今度は何言ったんすか?」

「悪気はなかったんだ。売り言葉に買い言葉で、つい……勢い余って……」
 獄の事務所からほど近い、個人経営の喫茶店の奥まった席で、昨晩あったという痴話喧嘩の顛末を聞きながら昼食を食べる。わざわざ人目につきにくく、他よりも離れた席を選んだ理由など考えるまでもない。
 名物というナポリタンに舌鼓を、獄の話に相槌を打ち、口をつけられないままのコーヒーを眺める。どうやらお気に入りの一杯を楽しむ余裕もないらしい。
 頷きが両手足を越えた頃、ようやくいつもどおり家に来た空却と、いつもどおり過ごしていたら、という綺麗な紅葉が咲いた理由の頭が見えてきた。
 なんでもBGMかわりにつけていたテレビのCMで、絶対泣く! という煽り文句の映画の流れたそうな。
「あ、わかったっす」
「まだ肝心のところは話してないんだが」
「獄さんが空却さんに、お前だって観たら泣くね、とか言ったんじゃないすか?」
「早押しクイズじゃないんだよ」
 ただ、大きな否定がないあたり、近いことを言ったのだろう。それも続きを話すのに躊躇い、空却にビンタされるような、非常にセンシティブなことを。
 そもそも空却は手を上げるが頬を張るような痕が残るやり方はしない。父親である灼空さんと同じように拳骨、チョーパン、チョップなど、頭や額への一撃が多い。十四も獄も痛いやら髪のセットが崩れるやらでずいぶん文句を言っている。
「……空却さんが実際にしたことと関係してるっすか?」
「水平思考クイズでもないんだよ」
 頭や額ではなく頬……より口に近いところを狙っているのは黙らせたい、という心理が働いているのではないか?
 イエスともノーとも言われていないが、煙に巻くような物言いで視線を逸らすのはイエスととっていいはずだ。こういうときの獄は、無敗の弁護士の冠が嘘みたいにポンコツなのだから。
「空却さんが、過去に泣いたことを、揶揄った……?」
「揶揄ってはない……!」
 あ、吐いた。
 で、揶揄ってはないかもしれないけれど、皮肉っぽくあの時はこんな風にして泣いたくせに、とかなんとか言ったのだろう。
 よりにもよって家族か友人が死んだ時にしか泣いてはいけない、と掲げる空却に。
「それは獄さんが悪いっすよ! 空却さん本当に全然泣かないんすから、獄さんが泣いてるところを見たことがあるなら、それってすごい信頼されてるってことっすよ?」
 十四は空却の涙を知らない。あくびやら灼空さんに叩かれたやらの生理的に飛び出す雫を何度か見たくらいで、あとはせいぜい腹に力を込めてこらえる姿が限界だ。
 おそらく獄は恋人として、こらえなくともいい、と泣かせてやったりしたのだろう。それは信念に反する行為を共有して、許す、とてつもない信頼で愛のはずだ。
 それを揶揄うなんて、と思わず声を荒げたのを鎮めて、き、と獄に向き直る。恋人同士のいさかいに首を突っ込むのは馬に蹴られて死ぬ無粋かもしれないけれど、自分は二人と家族なのだ。これからも共に歩む二人の不和の芽は摘んでおきたい。
「あ、ああ……」
 反論や叱責も覚悟して放った決意の一言だったのだけれど、思っていた反応と違う。あからさまに気不味い、と顔に書いてあり、先ほどまでとは違う理由で顔色が悪く、汗を垂らしている。
 あんまりわかりやすくて心配になってきた。この人、本当に無敗の弁護士なのだろうか。でもそれだけ、とんでもなくポンコツになるほど空却のことを好きなのだ。きっとそうだ。そうでないと困る。ポンコツすぎて。
 思えば十四は獄とは出会ってから今日まで色々な話をしてきたが、恋愛については話したことがなかった。だって、気がついたら獄は空却と恋人になっていたのだ。
 笑い話か愚痴のように聞かされる獄の過去の恋人の話は、よくある——仕事と私どっちが大事なのよ、なんて——ものばかりで、恋人とどう接して過ごすかなんて話していない。獄と空却が付き合いだしても、二人の雰囲気がさして変わらないままなのを受け入れていた。
 いくら変わらないと思っていても、二人きりのときは少しくらい違う空気になるはず——
「……もしかして、空却さんにとってだけじゃなくて、世間一般でも繊細な話題だったんじゃないですか?」
「……」
 沈黙。
 どう答えてもわかるくらいポンコツ状態の獄に出来る最善と思われたが、ポンコツすぎて黙っていてもわかってしまう。というかもう、だいたいわかってしまった。
 十四にも身に覚えがある。獄は、心を許した相手には割合に甘えたなのだ。そしてその甘えた精神のまま、デリカシーのないことを吐く。
「自分、言いたくないっすけど……言ってもいいっすか……?」
「俺が……」
「あ、言うんすね」
「俺が、最中は、よく、泣く——」
「あ、はい! いいっす! もういいっす! 獄さんがギルティ!! 有罪! 頬ビンタ一発ですんだのは空却さんの慈悲っす!!」
 尻すぼみに小さくなる声はそれでもよく通って、大変に聞きたくない情報を得てしまった。たぶん、本当はもっとえげつなく下品な言葉だったのをマイルドに仕上げてくれた努力は感じたけれど、最中のことを引き合いに出したとわかればそれでよかったのに。実際にどういうことを言ったかまでは求めていなかったのに。ちょっと想像してしまったではないか。
「それから連絡がつかない……」
「当たり前っす。最低っす。ノンデリは嫌われるっすよ!」
 気不味そうにされてもこっちだって気不味い。ノンデリ、という言葉にぐ、と息を詰める獄にしょんぼりとへたれた耳や尾が見えるようで、それがちょっと可愛らしく見えてしまう。空却がどうしてビンタ一発と連絡無視ですませたのかがわかる気がした。
「……とにかく、誠心誠意! 謝るっす!」
「それしかないよな……」
 はあ……と青い顔のまま空却の父親に連絡をとりはじめた獄は、今日の夜にはまた空却と仲良くやっていることだろう。
 ようやく口にしたコーヒーが冷め切っていたのに眉を顰めたものの、己への罰とばかりに一息に飲み下した獄に、十四は、こういうところが好きなんだろうな、と、この場にいない空却を思った。

2025/7/9


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