犬這
夏の夜空を彩る光の響宴——花火大会が各地で開催されはじめると、当然ナゴヤディビジョンでもいくつかの催しが企画された。
空厳寺では以前から『お寺で花火を見る会』を告知して、不法侵入などの無作法を防ごうという試みをしている。はじめは一部の檀家に開放していたものの、不法侵入——特に墓場——が頻発し、事前にルールを設けて全体開放することにしたのだ。
ちなみに「そんなに墓場に入りてぇなら堂々と入らせてやる」と檀家承諾の元で墓場での肝試しも予定されている。
花火大会当日。寺へと招かれていた獄は、くるくると忙しそうに飛び回る恋人と花火を交互に見ながら出店で買ったかき氷を啜っていた。
酷暑は夜まで暑い。昼日中に比べれば涼しいが、べたつく湿り気がうっとおしく、我慢ならぬと水分補給と見た目の爽やかさでブルーハワイ味を注文していた。空ちゃんの彼氏にゃサービスしないと、と一回り大きなものを渡された上、お代は結構、と追い払われた。
さすがに多すぎるそれをゆっくりと崩しながら、ゆっくりと口に運ぶ。獄の我慢ならないものには、うっかり突いて散らばるかき氷と、焦ってかき込んでなるアイスクリーム頭痛がある。自分がなるのはもちろん、他人がなるのも我慢ならないのに、獄の恋人はなぜかあえてキン、と痛むのをやりたがる。
冷え冷えとした真っ青のシロップと反対に燃え盛る赤色の髪の主は、かき氷が半分まで消えたあたりでようやく獄の元へとやってきた。浴衣ではないがいつもの黒い作務衣はそれらそれで趣がある。
「お、いいもん食ってんじゃねーか」
「食うか?」
「食う!」
寺主導の企画は体力があって身軽な空却が活躍する。人波の整理誘導、迷子や喧嘩といったトラブルまで。観光客もいるがほとんどは地元民と檀家だから、空却が顔を出せばそれだけで丸くおさまることもある。
あっちこっちを行った成果である菓子だの飲み物がごっちゃに詰まったビニール袋は、空ちゃん、あるいは空却くんへの差し入れだ。まるで手をつけられていないそれらを肘からぶら下げたまま、しゃくしゃくとかき氷に食らいつく姿にほのかな優越感がわく。
「はぁー……頭いってぇ……」
「急いで食うからだ」
「このキィーンってするのがいいんだろ」
「俺はごめんだね」
花火と、今度は隣にいる恋人を交互に見ながら、隣の花の方が綺麗だな、などと馬鹿な惚気が口から漏れぬように押し黙る。汗だくでぼろぼろでも、否、だからこそ空却はいい。
ところがその、獄が好ましく、正しくは愛おしく思う凛とした金色が、ふ、と歪んだ。
「い、」
「どうした?」
「ぃ、た……」
急に苦しげに呻いた恋人はすっかり空っぽになったかき氷の器を持って俯いている。おそらく、熱い体に一気に冷たいものを流し込んで腹が驚いたのだろう。大袈裟にならないていどに身体を支えながら、寺に設けられた来客用手洗いへと向かう。
が。
「見事に混んでるな……」
「そらなぁ……」
眉間の皺を不快そうに深めながらぼやく恋人は、いつもの口の騒がしさの代わりに足下がそわそわと忙しい。まだ限界ではないらしいが、居住区内まで耐えられるようには思えなかった。
「大丈夫、じゃあないと思うが……」
「……あー……」
「まあ、最悪……色はそう……目立たないと思うが」
「人が漏らす前提で話すんじゃねぇ……」
長蛇の列を前に最悪のパターンを考えるも、意を決した恋人がずんずんと居住区へと歩き出す。たしかに、漏らすにしても会期中は侵入禁止が徹底されている居住区内、もしくは付近の方がマシだ。
さも用事があるような体で後を着いていくと、周囲もああ休憩時間にイチャつくのか、という視線を向けるだけで声をかけはしてこない。関係を公表すると良い事もある。実際は成人をとうに過ぎた恋人の沽券に関わるのだが。
見慣れた灯りに照らされた家屋と扉に、ほ、としたのは恋人もだったのか、突然、腹を抱えて崩れ落ちる。見れば顔色もたいそう悪く、意地と根性でここまで取り繕ってきたのだ。
ふぅふぅと苦しげな恋人は戸には向かわず、よろよろとした足取りで玄関前の植え込みへと身を屈める。危なっかしい動きでかちゃかちゃとベルトを外し、下着ごとパンツを下ろした。熱と虫で病んだ花を抜いたばかりと言っていたそこは、ふかふかとした黒土しかない。
何をするのか、などと問うまでもない。ただ、近寄っていいのか、何かしてやったらいいのかがわからない。
人が出払っている家側と、誰が来るかわからない通路側。どちらに顔を、尻を向けるのが正解かなど誰もわからないのと同じだ。恐らく恋人のように俯けばいくらか隠せる顔を通路側に向ける人が大半な気もするが、人が何にどう羞恥するかなどわからない。
つまるところこの状況、全てがわからなかった。
「こっち見んな……っ」
しぼり出すような声は決壊寸前の腹を締めつけていることがありありと伝わるもので、次いで聞くな、嗅ぐな、とも言われた。言われたとおりにするとひどく間抜けたことになるが出来る限り聞いてやる。たとえ後始末に付き合って何もかもつまびらかになってしまうとしても、過程からと結果だけでは印象が違う。
運良く持ち合わせていたワイヤレスイヤホンを突っ込んで、聞き途中だったオーディオブックを流す。依頼主の著作だという本の内容はまるで頭に入って来ないが、こちらが耳を塞いだとわかった恋人がいっそう俯き、丸くなり、ぐ、と身体に力を込めた。
そこから先は見ていないし、聞いていない。ただ、暗闇の中、見知らぬ男の声で『選ばれる人間の五箇条』が唱えられるのを聞きながら、掌で覆っただけの鼻先に独特の臭気がかすかに流れ込むのを感じていた。
「……もういいか?」
「……いい……」
先ほどよりは大きい声で返事があって、オーディオブックを止めてイヤホンを外す。目を開くとほんのりとした灯りすら眩しい。鼻は慣れてしまったのと、思ったより、ひどい臭いがしなかった。
恋人はもうすっかりいつもどおりで、立ち上がってバツが悪そうに視線を彷徨わせている。黒土の上は先ほどより湿って見えたが、それ以上は見ないようにした。
「尻は」
「ティッシュ持ってた」
「いつも持ってねえのに?」
「さっきもらった」
時間にして数分。そんなに長くも短くもない間に起きて終わったトラブルの残骸を片付けようと恋人が動き出す。
家の鍵を開け、ビニール袋の中身を玄関の上り框あたりに広げて戻ると、植え込み近くにあったスコップを取り、黒土の一部を掬ってビニール袋へと入れ始めた。
さすがにもういいだろう、と恋人の方へと歩き出し、気休めに持っていた虫除けスプレーを吹いてやる。無香料だと思っていたら甘めのミントの香りがついていたのだが、いささか強烈なその匂いが今はちょうどいい。
「まあ……災難だったな」
「本当になァ。もっと便所の数増やすか?」
はは、と曖昧に笑っていると、スコップの上に載った土が玄関灯りに照り返された。黒くしっとりとした土にひとすじ、とろりとした白濁が浮いて見える。
何かわからないわけがない。だからこそ何も言わず、見なかったふりをして後片付けを見守った。
まだ花火は続いている。もう戻らない。
2025/8/1
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