待ての出来ない悪い犬

 熱病の時の体温と同じ空気がまとわりつくナゴヤの夏。
 獄は連日の暑さで倒れる参拝客が続出し、特に気温が高い時間帯に打ち水をすることになった空厳寺に労いと物見遊山も兼ねて訪れた。
 こういう企画は空却だろうな、と、直近でやっていた墓場肝試しを思い出す。
 門のところに大きく目立つポスターで『該当時間で打ち水をするため濡れることがあります』と注意書きがされていて、空却は寺をアミューズメント施設にしようとしているのではないかと疑ってしまう。
 もっとも昨今は墓仕舞いも多く苦しい寺も多いという。空厳寺は大きく歴史もあるが、影響は少なからず受けているはずだ。寺に求められる役割が変わってきている現在、空却という次世代の新しい発想は必要なのかもしれない。
 ひとりごちながら門をくぐると、ぴしゃ、と上から水が滴った。
 肩を濡らす感触に、何の気なしに見上げた途端——
「隙あり!」
「ぐあっ!」
 びしゃぁ! と心臓を狙った一撃に軽くのけ反り、服が濡れる。
 打ち水なのにまさか、と思ったが、空却の考える打ち水が手桶に柄杓なんてわけがなかった。
 えらくゴツい銃火器を模した水鉄砲を構えてヒャハハと笑うのは、間違いなく獄の恋人で、この寺の一人息子だ。
 獄自身を含めて濡れてもいい服装の、比較的年齢層の低い人々の中で目立ちたくはなかったが仕方ない。空却が最初に叫んだあたりからスマホを構えているヤツもいた。
 一言二言叱ってからやり返すと決めて、とっくに大人のはずの悪ガキに向き直る。
「このクソガ、キ……」
 頭を抱えながらも職務を全うする空却の兄弟弟子、ちらちらとこちらを伺う他の参拝客、そして——
「よぉ獄!」
「よぉ、じゃねえ! なんだその格好は!」
 なぜか、なぜか一人、上半身裸の空却が水飛沫できらきらと輝きながら駆け寄ってきた。

「なんだって……あっちぃだろ」
「お前な……周り見ろ、皆さん作務衣着てんだろ!」
「しょーがねーだろ、汗と水で張りついて気持ち悪ぃんだよ」
「それくらい考えて企画しろ」
 ともかくなんでもいいから上を着ろ、みっともない、と居住区域まで引きずっていく。
 いつから着ていないかわからないが、ネットに写真が出回る——出回っていることを考えて憂鬱になる。自分の服がびしょ濡れなのも気にならないほどに。
「……服が脱げないようにしてやればよかった……」
 最近は会えていなかった。正しくは、夜に『そういうことをする』のに会えていなかった。
 だから今の空却の身体は逞しく鍛えられたまばゆいばかりの肌艶をしているのだが、かすかに香る色気は獄が愛でた結果であるから大盤振る舞いなど全く許せない。
 直視したらきっとこの身体を、この肌を、と苛立ってしまうから、掴んだ手首を引いてずんずんと進んでいた。
 そう遠くはない道の果て、勝手知ったる扉を開けて中に入ると、手を振り払われた。
「……服、着れなくしたクセに……」
 それきり眉間にシワを寄せ、むっつりと口を閉ざし、こちらを睨めつける空却は、あからさまに不機嫌ではあるものの、耳や頬の赤みには羞恥がある。
「着れなく……?」
 しかし言っていることがわからない。
 むしろいつも服を着るよう着るように促している。夏はこういうことがあるから余計にだ。
「……汗とか、水で張りつくと……くっついたまま擦れて……いつもより、こそばゆいんだよ……」
「……へえ……」
 普通に擦れるのと違う、と見える肌を全部赤くしながら続けられて、返事をした時の自分の声のあまりの低さに獄はほんの少しだけ反省した。
 さっきから獄が見ないようにして、空却も言葉にしない、もの。
 獄の視線がつい、とそこへと流れるのを見透かしたように、空却が背を向けた。
「すぐ戻る」
 皆待ってるし、とわざわざつけ足したのは牽制だ。
 服を着ろと言いながら着れなくした獄へ、そしてこのままどこにも行けなくしてしまいそうな獄への。

2025/8/23


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