八月発行の免罪符

 眠くてしょうがないはずなのに、体が妙にもぞもぞして眠れない。
 そういう時こそ修行だと瞑想してみたものの、今回はどうも上手くいかない。

「つうわけで拙僧は眠れねぇ」
「……俺を叩き起こした理由はそれだけか?」

 草木も眠る丑三つ時。
 明日も仕事だからと日付が変わる少し前にはベッドに入っていた。
 それをまあこの太々しいクソガキは。
 肌寒くなってきたのに袖なしの作務衣一丁で来て、連打したインターホン越しに、起きろツラ貸せと大声でがなり立ててうるさいことこの上なく、このまま騒ぎ続ければ警察沙汰だと渋々部屋へと上がらせた。
 水も出さぬのはとっとと帰れという意思表示なのだが、勝手に冷蔵庫を開けて買い置きのコーラを飲みだすガキには通じない。
 仕方なく伝わるように大きなため息をついて要件を聞いたらばこれだ。
「そんだけ」
 全く悪びれずに言うことではない。
 もう少しすまなそうにするであるとか、こんな夜中に押しかけるくらい困っているだとか頼ってくれたなら、こちらだってそれなりの態度を取るというものを。
「なら知るか。そこらへん走ってこい」
「そんなん一通りやったに決まってんだろ! そんでもどーにもなんねぇから来たんだよ」
「……素直に助けてほしいって言えよ」
「あ?」
 天邪鬼というべきか負けん気が強いと言うべきか。呆れを含んだぼやきは届かず落ち、なんぞ聞き捨てならないことを言われたのは察したガキに噛みつかれる。
「ったく……どこがもぞもぞすんだよ。冗談でも股間とか言うなよ」
「ンなとこだったら一人でなんとかしてるっての」
「下品なことを言うなら帰れ」
「先に言ったの獄だろ」
 このガキはどうせ引かぬ。
 とっととベッドに戻るには寝かしつけるのが一番だと腹を括り、コーラを片手にソファに腰掛けるのの横に立って問診してやる。
「で、どこだよ」
「ここだよ、なんつうの……? 腋の下?」
 こちらが観念したのを察してコーラをテーブルに置いたガキが、この奥がじんじんと熱を持って痺れる、と言いながら腕を上げ、空いた手で腋を開いて見せつけた。
 荒行以来、定期的な剃毛で無駄毛の無い身体は腋の下も当然つるりとしている。
 真っ白い肌の奥、血管の密集したそこは赤みを帯びて熱を放っていた。
「ここがむずむず、なあ……」
 下肢がむずむずして眠れない、という症状が実際にある。広く見れば上肢に例がないわけでもない。
 頻発するなら病院にかかった方がいいが、たまさかになっただけならマッサージなりをするのがいいと書いてあったような覚えがある。
 特に他意はなく、す、と手を伸ばして、腋の下をぐ、と押す。本当にそれだけだった。だというのに——
「ん……っ」
 腐れ縁から『家族』に大幅ランクアップしたガキとの付き合いはそれなりに長い。
 お互いにたいがいみっともないところを晒しあってきたと思う。
 それでも聞いたことのない、恐らく聞くこともなかったはずの声音はひどく甘く、色をふくんでいて、思わずパッ、と手を離してしまった。
 セクハラだの言われたらたまったもんじゃない。
 こういう時、何か言いたがりそうなのに黙りこくったままのガキも妙だ。
 もしかしなくとも揶揄われたのか——?
 慌てて反対側へと背けられた顔を覗き込む。
「空、」
 あとたったの二文字が続かなかったのは、上げていない方の手で口元を抑え、大きく開いた目をぱちぱちとまばたきさせながら、じわじわと顔を赤くしているガキがいたからで、決して、目が合った瞬間、羞恥を隠すように睨みつけられたからではない。
 どくどくとうるさく脈打つ心臓に乗せられて、気づけばもう一度、触れていた。
「やめろ、よっ」
「お前が診ろって言ったんだろ……!」
 顔をさらに隠すように反らし、逃げる。
 わずかに覗く耳が赤いから、他だってみんな同じだ。
 下げようとするから掴んだ腕だってもう真っ赤で、腋の下は汗ばんでうるむから粘膜のようですらある。
 散々クソガキ二人に手荒に扱われたソファはぎしぎしぎいぎいと嫌な音を立てて、じたばたと身をよじって暴れるガキを組み敷くような状況と相まって、ひどく悪い想像をしてしまう。
「いやだ……!」
 普段もよくやる、喧嘩じみたじゃれ合いとの境界線が『そうでない』方へと傾いたのはまさしくその一声で、さっき聞いた甘く色づいたものとはまるで違う、心底からの拒絶だった。
 さあ、と引いた血の気と同時に手が冷たくなる。
 言葉などかけられるわけもなく、ぎくしゃくとしながら手を離して距離を取った。
「あー……悪かった……揶揄われたのかと思って……」
「別に、拙僧も変な反応しちまったし……」
 距離を取ると見下ろす形になるガキはいつもより小さく丸まっていて、ぴったりと腋の下を閉じている。
 肌の熱さも赤さもまだ引かず、珍しく恥じらうような姿にこちらまで気恥ずかしくなってしまう。
 ——血迷うな、こいつは『家族』『リーダー』『十六歳下のガキ』——
 念仏よろしく唱えた文言で頭を埋めて、もう一度ガキを見る。
「獄……?」
 こちらの視線に気づいたのか、金色の目に見上げられた。
 それとがっちり絡み合うと、一生懸命に植えつけた言葉なぞ全てが簡単に吹き飛んでしまう。
 それから何と言って『綺麗な男』を口説き落としたのか、まるで記憶がない。

2025/10/24


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