豊穣の海
すやすや、というオノマトペがこれほどぴったりハマるのをはじめて見たーと思うくらい、安らかな寝顔だった。
悪鬼羅刹もかくや、という顔ばかりする子供がこんな表情をするなんて。
子供が東京から帰ってきて数ヶ月。
行く前から懐かれていたが、最近は以前よりも訪問頻度が上がっている。
いつも申し訳ない、と親御さんから頭を下げられているが、本人は悪びれるフリすらしない。それどころか第二の我が家かなんかだと思っているフシがある。
今日だって当たり前に波羅夷様がいらしてますよ、と言われる始末だ。
部屋に向かう道すがら、この関係を考える。
考えなくとも弁護士と元依頼人でしかない。友人、なんて気はしない。腐れ縁、が近いのか。
どうしてこんなことをするのか、どうしてそれを許すのか、わからないまま開いた扉の先、綺麗な寝顔があった。
大の字になって転がっていそうなものなのに、ソファの上だからか小さくまるまっている。
近くにいつも履いている靴があったが、きちんと揃えて置かれていた。自然とそうなるように叩き込まれたのが目に浮かぶようで、ク、と笑いがもれる。
そして自らの腕に縋り付くように、作り物みたいな横顔があった。
いつもならこちらを睨みつけるような目が閉じているのが新鮮で、同時に静かすぎて物足りなくもある。
まだうぶげのはえたまろい頬が幼くて、なにともなしに手を伸ばす。
ふに、と想像どおりにやわいそこを無断で触っていることに、ひどいあやまちを犯したような気分になった。
自分の部屋で勝手に寝こけたガキの頬を触るくらい、別に。
そう思うのに胸がざわざわとして、手を離そうとしたとき。
つ、と指先を何かが濡らした。
その子供は泣かない。
表情自体はコロコロとよく変わるけれど、涙を見たことは一度もない。
男は家族と友人が死んだとき以外、泣いてはいけないのだと語る金色が、その痛みで濡れたことがあるのかも知らない。
そのはずだった。
それがこんな音もなく、静かにしたたり落ちるものか。
まろやかな頬をなぞって弧を描く雫は透明で、ほのかにあたたかい。
寝息は乱れることなく、そういう機能がある人形のようだった。
果たして起こしていいものか。
こんな子供に、勝手に押しかけて人の部屋で寝ているクソガキに、何を迷うことがある。
そう思うのに、頬に触れたときのようなおそれで動くこともできない。
指先に雫がたまっていく。
「ん……?」
ばちり、と金色が開かれた。
うるんだままの瞳はぱちくりと数度またたくと、頬の感触を辿るように視線が流れる。
びくりとして、あわてて手を離す。
「……ひとや……?」
きょろきょろと動き回る金色に捕まった。
疑問を隠しもしない、まだ少しだけ寝ぼけた声。
もぞりと起き上がって、真正面から向かい合う。
濡れて滲む、金の水面が二つ。
ゆらゆらとしながらこちらを見つめている。
「男は泣かないんじゃなかったのか?」
「……?」
「泣いてるだろ」
「へ……?んだこれ……」
「寝ながら泣いてたんだよ」
「なんだそりゃ……」
「こっちのセリフだ」
わけがわからない、と乱暴にこするのを止めて、ハンカチで拭ってやると、再びぱちくり、と金色がまたたいた。
軽く腫れたまぶたが少し痛々しい。けれどそれ以上にハンカチに刺さる視線が痛い。
「なんだよ」
「いや、モテんだろうなって」
「はあ?!」
「いや、そんだけ泣かせてきたのか?」
「しとらんわ!」
ケタケタと笑う子供はすっかりいつもの調子で、あげくに親父にドヤされる、と帰ってしまった。
一体全体なんだったのか。
何一つわからない。この関係も、感情も。
涙で湿る指先だけを残したまま。
2021/04/03
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