おいかけっこ
それはまだ秀麗が貴妃として後宮にいた頃の話。劉輝が政事をしよう。と言って半月が経った頃だった。
琳麗は、女官にあるまじき行動をとっていた。裾を持ち上げ庭院を走っていた。
時間は少し遡る事、半刻ほど前、琳麗は剣を突き付けられていた。
「さあ、琳麗! 今日という今日は逃がさんぞ!!」
「あ、あの……私はこれから用事が……」
琳麗はじりじりと後ずさった。だが、彼はそれを許すことはなかった。
「あーっ! あそこに賊がっ!」
「阿保かっ! こんな内朝まで入って来んわっ!! いい加減覚悟を決めんか、琳麗」
「そ、宋太傅……申し訳ございません!」
持っていた簪を投げ付け、その隙に琳麗はその場から逃げ出した。
簪はギリギリ当たらなかったものの、宋太傅はそれを手で取ったせいで、ちょっとした隙が出来た上に琳麗が逃げた為に激怒して追い掛けて来た。
「待たんか――琳麗―!!」
「待ちません〜〜!」
そんな調子で逃げていたのだ。
「…っは……もうお年なのに…あの体力はなっに……」
息を乱し、木陰に隠れていたがそのままいるのは危険だった。琳麗は、どうしようどうしようとキョロキョロして近くに府庫があるのが見えた。
「……父様に匿ってもらいましょう!」
ぽんっ!と手を合わせ、宋太傅の気配がないのを確認してこそこそと窓が開いている下へと走った。
「……たぶん、表側に宋太傅がいそうだから窓から入るしかないかしら?」
『どこにいったー!! 琳麗っ!』
ちょっと遠くから聞こえてくる怒鳴り声に、びくっとして急がなければと窓枠へと手を伸ばした。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
府庫では恒例となった絳攸による勉強会が行われていた。劉輝は首を傾げながら、傍らの秀麗に話しかけた。
「……なにやら外が騒がしくないか?」
「そういえばそうね。何かあったのかしら――――っ!?」
「ど、どうしたのだ!? 秀麗ぃぃぃ〜〜!?」
「どうなさったのですかっ? 二人共」
この国の王とその妃(仮)は政事を教えてくれる師の後ろを見て驚いていた。
絳攸はさっぱり解らず、二人の様子に驚いていた。
「こ、絳攸様っ…」
「う、後ろ……」
「はあ? 後ろ……ってどあぁぁ――っ!?」
振り返れば、窓の桟に手があったのだ。さすがの絳攸もそれに驚き大声を上げてしまい、隣室にいたのか楸瑛と静蘭が慌ててやってきた。
「どうしたんだい?」
「何かあったのですかっ?」
二人が見たのは窓の桟に身を乗り出し、脚を掛け中に入ろうとする琳麗の姿だった。
「あ、静蘭、藍将軍…」
「り、琳麗様っ!?」
「琳麗殿?」
裾を捲くって窓から入って来た女官にさすがの二人も驚いていた。
走り回ったせいか髪が乱れていたので、最初は気付かなかった秀麗も声で分かったらしく目をぱちくりしていた。
「ちょっ……ねぇ…じゃなかった! 琳麗!? な、なんで窓から入ってくるのっ!?」
完全に中に入るが琳麗はそこで窓際に身を潜めた。
「いいですかっ! 私はここにはいませんからね!!」
「な、何言って……」
口許に人差し指を立てている琳麗に、秀麗たちは訳が分からない様子だった。だが、遠くでまだ諦めていない宋太傅の声が聞こえていた。まだここに隠れていたほうがいいようだ。
しゃがんでいた琳麗は、目の前に並ぶ秀麗たちを見て少し苦笑してしまった。一番最初に我に返ったのは秀麗だった。
「え…と、どうかしたの?」
「う、うん……ちょっと追われてて……」
「何かしたのっ?」
「ううん、多分させられるから逃げてたのよ」
乱れた髪をいったん下ろし、琳麗は簡単に結い上げていく。その様子に男性たちは顔を見合わせた。
「させられるとは何をだい?」
「そうです、一体何を?」
「女官がそう易々と仕事を放棄するのはどうかと思うぞ」
「えっと……(剣の)宋太傅のお相手?」
次の瞬間、静蘭、楸瑛、絳攸はピシリッと固まった。
「……それは逃げるべきですよ!」
「いや、でも…宋太傅もまだ……やるんだね…」
「何を考えているんだっ! 宋太傅はっ!!」
「でしょう! 逃げるべきよね!!」
一見、会話が成り立っているが琳麗と彼らたちの認識はずいぶんと格差がある事を誰も気付かなかった。
秀麗は、訳が分からずポカンとしていた。劉輝も無論、静蘭たちと同じ考えてだったらしくしみじみと呟いていた。
「宋太傅も男なんだな〜」
それには琳麗は首を傾げた。見れば男性陣たちは、皆、微妙な顔をしている。
秀麗もまた分からないといった顔をして、姉である琳麗に問い掛けた。
「そんなに大変なの? 朝廷三師たちとお茶をするのって」
普段、彼らの下らないやり取りを話していただけに秀麗には『お茶』だと考えていたらしい。
確かにお茶をするのも意外に大変なのだ。やれあっちの饅頭がでかいだの、梅饅頭がよかっただの…
しまいには互いに「くそじじい」と暴言を吐く始末なのだ。琳麗は苦笑した。
「そうね〜 それも大変なのよね」
二人の会話を聞いていた彼らは、自分たちの勝手な勘違いに恥ずかしくなったのか、咳ばらいをしたり、苦笑していた。
「…お、お茶ですか」
「そう…だよね……あの宋太傅に限ってね……」
「そ、そうだな! お茶、お茶だろう!!」
「……」
琳麗と秀麗は顔を見合わせ、不思議そうにそんな彼らを眺めていた。なんとも不可解な行動だ。四人揃って、妙な笑いをしてお茶を飲んでいる。
「? でも宋太傅は、お茶の相手ではないのよ」
「えっ?」
「「「「ぶ――――っ!!」」」」
琳麗の言葉によって、お茶を飲んでいた男性たちは一気に噴き出された。
「ぎゃっ! 何してるのよ、劉輝」
「ど、どうなさいました? 皆様」
あわてふためく二人をよそに静蘭たちは顔を引き攣らせていた。しかし、空気の読めない王、劉輝は口に出していた。
「その……そなたは――――」
宋太傅とどういう関係なのだ?と聞こうとした時、琳麗はハッと窓の外を見た。
窓から顔を出し、キョロキョロと辺りを見渡すとおもむろに女官服の裾をたくしあげた。
「ちょっ、ちょっと!? 何してっ…」
「申し訳ございません! 紅貴妃様、行かねばなりませんので」
ぎょっとする秀麗をよそに琳麗は桟に足をかけ、入って来た窓から出て行った。軽やかに地面に足を降ろし秀麗を見上げた。
「勉強の邪魔してごめんなさいね。秀麗、頑張って!」
「え、ううん。大丈夫……ってそうじゃなくて!」
「宋太傅が来たら知らないって言ってね! じゃあ…」
口早に小声で伝えると琳麗は、逃げるように走って行ったのだった。
ポカン…としていた秀麗たちだったが、わずかな沈黙の後に劉輝がボソッと呟いた。
「あの女官は何者なのだ?」
「えっ、私付きの女官で……」
「朝廷三師のお付き女官でもあられるそうですよ」
いまだ琳麗の正体を知らない劉輝に、秀麗は“姉”というのを話そうと思ったが、楸瑛がそれを遮り、答えたのだった。劉輝は、そうか。と呟いたのち
「……しかし、あの女官はいい脚をしていたな……」
「劉輝っ! ね…琳麗を変な目で見ないでくれないっ!!」
ギラッとした目つきで見られ劉輝はびくっとしていた。しかし、その発言には楸瑛も顎に手をやりながら頷いていた。
「でも、ま、確かに、主上の言う通りいい脚を――」
「何かおっしゃいましたか? 藍将軍」
にこやかな笑みを浮かべつつ、なぜか剣に手をかけている静蘭に楸瑛は咳ばらいをした。
「……いや、なんでもないよ」
絳攸は楸瑛に「……常春頭が」とぼやいていたが、静蘭の殺気に背中に冷たいものが流れた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
しばらくすると、バタバタとした足音に入口を見ると、宋太傅が立っていた。
「そ、宋太傅っ!」
「これは秀麗殿……琳麗が来ませんでしたかな?」
はぁ、はぁ……と息を乱し宋太傅はキョロキョロと室内を見た。
「いえ、あの……」
「ちっ! 逃げよったか……」
どんっ!と柱を叩き、宋太傅は走って行こうとしたが室内から感じる視線に目をやった。
「……なんじゃ、おぬしら」
見れば皆が不審な目で宋太傅を見ていた。
「あ、あの……宋太傅」
「なんですかな? 秀麗殿」
「どう、して……琳麗をお探しなのですか?」
恐る恐る尋ねる秀麗に宋太傅は言ってのけた。
「奴がわしの(剣の)誘いを断るからだ! 今日こそはっ!!」
そう叫ぶとまたドタドタと府庫から飛び出していった。
秀麗は何の事かが分からなかったが、静蘭、楸瑛、絳攸、劉輝は思いきり誤解していたのは言うまでもなかった。
ちなみに別室にいた邵可は、やれやれといった風に読みかけの書物に目をやった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
琳麗は、府庫から離れると一気に朝廷三師の室へと逃げた。
「どうなさったのかな、琳麗殿」
「しょ、霄太師……助けて下さいっ……」
室には霄太師だけがおり、梅茶を味わっていたようだった。息をやや乱し、琳麗は霄太師にすがるしかなかった。
こうなったら、宋太傅を止められるのは彼ら以外いないではないか。そんな事を考えていると入って来た扉がバタンッ!と勢いよく開いた。
「ここにおったか! ちょこまか逃げおって!!」
「で、ですから……私は……」
「やれやれ、宋よ。いい年寄りが女子を怒鳴るとは何事だ」
琳麗は、霄太師の後ろに隠れると霄太師はため息をついた。しかし、宋太傅とて黙ってはいなかった。
「お前は黙っとれ! 梅茶、梅饅頭じじいがっ!」
「なんじゃとぉぉ〜梅茶梅饅頭を馬鹿にするでない! この筋肉馬鹿じじいがっ!!」
またしても勃発した二人の言い合いに、琳麗は額を覆った。今回ばかりは自分のせいなのだ。
どうしようかと考えていると室に茶太保が入ってきた。
「さ、茶太保」
「……琳麗殿、こやつらの事は放っておきなさい」
オロオロしている琳麗と、言い争いをする二人を見て茶太保はため息混じり言い切った。だが、そうはいかない。
「いえ、あの、今回ばかりは私が原因で……」
今日のいきさつを全て話すと、茶太保はやれやれと二人を見た。
「琳麗殿、気にかける事はありゃせんよ。それよりお茶を頂けるかのう?」
「は、はい」
琳麗は、お茶を用意する為に一旦室を出て行った。それを確認してから、まだ言い合いする二人の間に入った。
「いい加減にせんかっ! くそじじい共!!」
「「鴛洵っ!!」」
「そうそう、英姫から書翰が届いておった。おぬしらにじゃ」
その名前に霄太師と宋太傅は顔を引き攣らせた。
「……な、なんの用だ?」
「英姫がわしらに書翰じゃと……」
「ふむ、琳麗殿の事じゃろう。あれは琳麗殿を気に入っておったらしいからの」
霄太師と宋太傅は顔を見合わせ、盛大にため息をついた。
「「すまん、あまり琳麗(殿)には迷惑をかけぬようにしよう」」
――恐いからな。と素直に謝ったのだった。
茶太保は、ほっほっほっと笑い珍しく謝る二人の姿を堪能したのであった。
お茶とお茶請けを運んできた琳麗は、大人しくなっている二人をみて微笑んだ。
「やはり、茶太保は頼りになりますわ」
そう言って花茶とお饅頭を差し出したのだった。そんなある日の午後でした。
END
あとがき
あれ?なんかラストが変わってしまいました。
実は英姫様と夢主ちゃんは会った事があるんです(薔薇姫経由で)
相変わらず、夢らしくなくて申し訳ございません!!
この感想頂けたら幸いです。
2007/02/11
- 1 -