第02話
それは遠い記憶。
曾祖父と手を繋ぎ歩いて、ようやく茂みを抜けた時には、一緒にいたはずの曾祖父の姿が見えなくなった。
そのうえ、着ていた服もなぜか変わっていたが、不思議なことに幼かった蝶子はそれを気にしなかった。
キンキンと何かがぶつかっている音が聞こえて、蝶子は小首を傾げながら音のなる方へと歩いて行った。
「――役立たずは必要ないと兄君達に言っておこう」
「…………っ」
聞き覚えのある懐かしい声が聞こえ、蝶子は茂みからひょこっと顔を出した。
見れば、紫色の衣を纏った少年がしゃがんでいる藍色の衣を纏ってる少年に向かって剣を突き付けていた。
「……清苑兄ぃ?」
その呟かれた声に二人の少年は、ハッと振り返った。そこには薄桃色の衣を纏い、肩より少し長い黒髪の少女が立っていた。
キョトンとしたその表情はまだ幼く、じっと彼らを眺めていた。藍色の衣を纏った少年は、眉を寄せた。
(──禁苑に少女?)
現王には公子は六人もいるが、公主はいないはずだ、それに女官でも女童でもないようだ。跪拝もせず、公子の前に立つはずがない。
そんな事を考えていると少女は、自分の元へと歩み寄って来た。ごそごそと袷から手巾を取り出た。
「血ぃ、出てるよ」
頬に手巾を宛てようとしているのに気付き、指で触れると一線がはしっていた。
「……すまない…」
そう呟くと少女は「痛い痛い飛んでけ〜」と不思議な事を言った。差し出された色とりどりの蝶が描かれた手巾が少し紅く染まる。
──蝶が汚れていく。
そんな風に考えていると、目の前の公子は、向けていた剣を鞘に戻し少女を見つめて声を上げた。
「……蝶子、」
それに応えるように蝶子と呼ばれた少女は、振り返り満面の笑みを浮かべた。まるで花が咲いたような笑みだった。
見とれている藍色の衣を着ている少年──藍家直系の四男である藍 楸瑛を横目で一瞥した後、公子は口を開いた。
「貴様には用がない。さっさと退け」
「……御意」
少年は頭を垂れ、その場から離れた。
少年──楸瑛は、先程の少女から渡された手巾を見た。色々な蝶が美しい。自分の血で汚れてしまった。
後で新しい手巾を渡そうと思ったのだった。
去っていく藍家の少年を視線だけで見た後、清苑と呼ばれた少年は少女の元へと歩み寄った。
「……一年ぶりだな、蝶子」
「清苑兄ぃだぁ〜」
小さい身体がぽすっと清苑に飛びつく。清苑は滅多に見せることのない微笑を浮かべ、蝶子を抱き上げた。
「劉輝には会ったかい?」
「ううん、今来たの。ひいじいもどこかに行っちゃった」
清苑はこの少女がいう「ひいじい」とは未だに誰の事なのか把握出来ずにいた。余程の高官であっても身内、しかも少女を王宮に連れて来れるはずもない。
後宮で行儀見習いでもさせるにしてもどこか違うのだ。
もっとも一年前に初めて会った時は驚いた。
暗闇の中、他の異母兄弟に庭院に置き去りにされた末の弟を探してみると、一緒にこの少女がいたのだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「劉輝っ!」
「清苑兄上っ!」
「大丈夫かい?」
「はい。蝶子がいっしょにいてくれました」
「蝶子……?」
見れば、弟がいた場所の横に薄桃色の衣を羽織った幼い少女がうつらうつらと舟を漕いでいた。見たことのない少女に清苑は劉輝を後ろにして、剣を抜いた。
「あ、兄上っ! なにを…」
剣先で顔にかかっていた髪を払うとゆっくりと少女は目を醒ました。
まるで剣が入っていないのか清苑の後ろから顔を出している劉輝をみ、清苑を見てからまた視線を戻すとにっこりと笑った。
「お兄ちゃん、きてくれたんだね。劉輝、よかったねぇ」
その無垢な笑顔に清苑は驚き、劉輝を見た。劉輝も嬉しそうに笑いながら頷いた。
「うん。蝶子のいったとおり、兄上がきてくれたのだ」
「…………劉輝、この子は」
「蝶子はその、友達……なのです」
「そう! 蝶子、劉輝のお友達になったの」
公子相手に敬語を使わないのはいくらなんでもおかしかった。このくらいの歳ならば、貴族であれば作法は厳しく躾られているはず。
後宮にいれば尚のこと、こんな状態では来れるはずもない。
「お前はどこの者だ。どうやってここに入り込んだ!?」
未だ戻していない剣先を向け尋ねれば、泣きそうな顔をした。
「ふぇっ……こあい……」
「蝶子っ! あ、兄上、やめてください」
小さい手が剣の柄に触れたのを感じ、横にいる劉輝を見ればふるふると首を振っていた。
「…………わかったよ、劉輝」
頭を撫で、剣を戻すと清苑は微笑した。だが、それでも蝶子を見る目は冷ややかだった。
「しかし、どうやって入ったのかは知らないとな」
「あ、あのね……蝶子、ひいじいに連れて来られたの……だから…えと……」
清苑の問いに答えようと必死なのだが、まだよく言葉を上手に伝えられず、どうしようもなく困惑しているのがわかった。
横を見れば、劉輝が頑張れ!と応援しているのか、なんとも微笑ましい。と思った。
その時、なんとなく笑っているのに気付き、劉輝と出会って以来二度目のほんわかとした気持ちになった。
「分かった。もういい。無理をしなくていいぞ」
「…………ありがとう、お兄ちゃん。私は蝶子って言うの。ちょうちょの『蝶』なんだって」
清苑がやや笑い、声が和らいだことにホッとしたのか蝶子は笑った。
「蝶子か。私は紫 清苑だ。分かっている通り劉輝の兄だ」
「いいな〜、劉輝はお兄ちゃんいて。蝶子もお兄ちゃん欲しかったな。ようちえんのお友達もお兄ちゃんいる人がうらやましいの」
「ようちえん?」
「うん、お友達たくさんいるのっ! もちろん劉輝もお友達!」
「……うん。蝶子は私のはじめての友達だ!」
きゃっきゃっと話す二人に、なんだかおいてきぼりをくらったような気がしたが、清苑は笑っていた。劉輝の嬉しそうな笑顔が見れて、友人が出来てよかったと思ったのだった。
それからしばらくの間、清苑が用事で会えない時も、劉輝と蝶子はずっと一緒にいたらしい。
異母兄弟たちが劉輝を虐めようとしたらしいが、その前に蝶子が一緒に逃げては隠れていたようだった。だが、楽しかった時間はあっけなく終わりを迎えた。
清苑の宮に先に遊びに来ていた劉輝は、蝶子が来ないことを気にしていた。
「兄上、蝶子は今日どうしたのでしょうか……」
「そうだな、いつもなら来る頃なのに」
いつも一緒にいた少女がいないだけで、どこか物足りなかった。清苑ですらそう感じるのだから、劉輝はもっとだろう。
カタン、と扉が開き、清苑と劉輝はそちらを向いた。そこには蝶の模様が描かれた着物を着ている蝶子がいた。
「蝶子、待っていたのだ!」
トトト…と走り寄る劉輝に蝶子は少し俯いていた。
「蝶子? どうかしたのか?」
様子がおかしいと清苑も近づいてみれば、拗ねているような、ふてくされている様だ。
「ひいじいがね、もう帰らなきゃいけないから、さよならして来なさいって…」
「「えっ……」」
急な別離の言葉に清苑も劉輝も言葉を失った。
「蝶子、どこかに行ってしまうのか…」
「んとね、お家に帰るんだって。夏休みしかいないって言われてたから」
どこか淋しげに話す蝶子に、劉輝も哀しそうな顔をしていた。清苑といえば、蝶子の言葉に違和感があった。
「夏休み」とはなんだ?──そんなことを考えていながら、二人を見守っていた。
「でもね、また来年。夏になったら会えるよってひいじいが言ってたの!だから、夏が来たら遊ぼうね。劉輝、清苑兄ぃ」
口唇を少し噛みながら話す蝶子に、清苑はポンッと頭に手をおいた。
彼女も離れるのが嫌なんだと気付く。だからといって王宮にいることは無理だろう。
「もちろんだ。来年の夏、待っているぞ。な、劉輝」
「……はい。蝶子、また一緒に遊ぶのだ」
「うんっ! 絶対、会いに来るから。じゃあ、またね!」
そう言うと蝶子は、パタパタと走っていってしまった。見送ろうと思っていたのに、あっという間に、まるで蝶のように行ってしまった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
あれから、一年。
本当に彼女は現れた。ここが王宮だというのにも臆することもなく公子である自分たちを同じ位置で見る少女。
清苑は、蝶子と手を繋ぎ自分の腰の位の少女を見た。
去年より、少し背が伸び、髪も伸びていた。ただ、結わないのはなぜなのだろうか。そっと手を伸ばし、艶やかな黒髪に触れるとサラっと靡いた。
「清苑兄ぃ? どうかしたの?」
「いや、髪は結わないのかい?」
「うぅ……来る途中でぐちゃぐちゃになったから……」
「そうか、だったら後で結んであげるよ。さ、劉輝を迎えに行こう」
「うんっ!」
握っていた手をぎゅっと繋ぎ、二人は劉輝の室へと迎えにいったのだった。
「劉輝」
「清苑兄上、それに……蝶子…?」
「うん、蝶子だよ。劉輝、久しぶりだね〜」
庭院にいる劉輝に声をかければ、振り向いて走り寄って来た。そして、一年ぶりに再会した少女に満面の笑みを浮かべた。
だが、幸せな夏はこれっきりになってしまったのだった。
夏が過ぎる頃、また蝶子は帰ってしまった。
季節は巡り、彩雲国では、その年明けに清苑は流罪にされたのだった。そして、蝶子が生きる世界では別荘の主である曾祖父が永眠したのだった。
以後、蝶子は相続の年までその別荘に行くことはなかった。
To be Continued