序話

久遠の空

貴陽から遠く離れた、茶州の州都、琥漣の山の中で茶州州牧である男が茶家からの刺客を倒していた。

「……っしつけーんだよっ!」

ドカッと大きな音と共に最後に立っていた男が仲間たちと一緒に横たわった。
やれやれと首を鳴らし、刺客たちを縛り上げ、棍を片手に州城へ戻る途中の池に何かを見つけた。

「……なんだあれ?」

夕日が水面に反射する中に何かを認めた。
疑問に思いながら、近付き、それがなんであるか確信すると男は慌てて傍へ走りより、それを引き揚げた。

「……女じゃねーか…」

白い肌に、茶金色のなびく髪、そして着ている衣は赤朽葉色。
びしょ濡れの女を抱き上げると黄昏れの中、男は城へと走り連れ帰ったのだった。

それが、彼らの出会いだった。


   ◇◇◇◇◇◇◇◇◇


茶州州都、琥漣城の執務室に現茶州府長官である浪 燕青はある荷物を抱えて入ってきた。
もう夜の帳が降りてきた時分であったが、まだまだ仕事が片付いておらず机案には書類の山がある。

「ゆ、ゆゆゆ悠舜っ!」

バタバタという足音と供にバタンっと扉が勢いよく開いた。
溜まった書類が雪崩を起こし兼ねないので静かに開けるようにといつも言っているのだが、この年下の上司はそれをいつも忘れる。

「なんですか、燕青。いつも言っているでし───どうしたんですか?」

思わず悠舜が呆気に取られたのは言うまでもない。なぜなら燕青がびしょ濡れの女人を抱いていたからだ。

「帰る途中で湖の畔に倒れていたんだよ! ほっとく訳にもいかないしさ、連れて来た」

「当たり前です、放っておく気だったならあなたを疑いますよ。まずは着替えをさせなければ」

「誰がすんだ?」

「…………」

二人は神妙な顔をした。此処は州府であり、女人などいないのだ。かといってこのままではこの女人が風邪を引いてしまう。

「あー、凜姫に頼むしかないか」

「そうですね、凜殿が一番かもしれませんね。申し訳ないですが文をやり、来て頂きましょう」

そう言うと急いで文を認め、遣いを飛ばし、燕青は悠舜に言われ毛布だなんだと準備をした。
お湯を沸かし、お茶の支度をする。濡れていた髪を拭いてやり、濡れている衣を脱がせるところまで脱がせた。
濡れた衣は赤朽葉色でかなり上質の布であるのが分かる。
身に付けているのは小指に嵌められている指環で紫の珠があるのに悠舜はやや眉を潜めた。
紫は王家の色であり、王家以外には禁色である。──王家の人間なんだろうか?
そう思案していると、ぴくりと女人が動いた。

「……めん……ご……ん……りゅ……き…」

譫言を呟き、白い頬に一筋の涙が伝った。
呟かれたそれに悠舜は顔を潜める。「りゅ……き」と呟かれた名は「劉輝」だと思うのはこの紫珠のせいだろうか──?
人差し指で涙を拭ってやり、頭を撫でてやった。
いったい、何者なんだろうか?

「おい、悠舜。凜姫が来たみたいだぜ」

「そうですか、通して下さい」

そうして室内に凜姫こと、全商連支部長である柴凜が入って来た。

「どうかなさったのか? 文には急用とあったが、頼まれた物の中に女人の衣などというのは」

「凜姫、頼みがあるんだ! ちょっと女人を拾ったんだけどさー、びしょ濡れで着替えさせる訳にいかなくてさ、頼むよ!」

「女人?」

燕青の言葉に悠舜を目を向けると困ったような顔をしたのち「お願いします」と視線を向けられた。その方向を見れば、衝立があり凜は奥へと進む。
寝台に寝かされていたのはまだ十代か二十歳くらいであろう女人であった。
茶金の髪はまだ濡れているのかしっとりとして、肌は透き通るように白く、線が細く今にも消えてしまいそうな雰囲気であった。

「……これは…」

凜は急いで濡れている衣を脱がし、自分が持ってきた乾いた服を着せていく。そして、やや乾かしたであろう髪を櫛で梳いていく。
蒼白かった顔にやや赤みがさし、熱が出てきたので布団をかけてあげた。
すると、身じろぐようにその女性が動いた。
震えるようにゆっくりと瞼が開いていき、虚空を眺めて呟いた。まるでなにかに話し掛けるように。

「……どう、して……しは……生きたく…ない………なん、で……」

譫言のように呟くけれど、それは意識が戻った訳ではないようだ。
燕青は驚き、起こそうとするが悠舜が止め、柴凜が「今は寝かせよう」と言った。
だが、うなされているのを見ていられなかった燕青は「傍についていてやりたい」と言った。

「……仕方ないありませんね。あなたが見つけたのですから、あなたが看病なさって下さいね」

ただし、仕事はして頂きますよ。とにこりと笑うと、燕青はうっとなりながらも頷いた。
悠舜と柴凜は室から出ていった。

「……いゃ…も……帰し…て…」

か細い声が室内へと消えていった。


   ◇◇◇◇◇◇◇◇◇


どうして──
もう、私を───て──。

白い見知らぬ空間にいた。
パパの泣く声が膝下の境界線から響いてくる。

ああ、私は死んだのね……。

そう思い涙が溢れた。

もっと、きちんと話をすればよかった。
怖がらずにちゃんと……パパとも、劉輝とも……。

「……劉輝…ごめん、ごめんね…」

謝りたかった、傷つけて、逃げて、それなのに私がしたことは──きっと酷い事。
でも、知っていた。謝りたいという思いの意味を。

『生きたいか?』

不意に聞こえた声にハッとする。
雛姫はキョロキョロと周りを見渡したが、どこまでもどこまでも真っ白い空間にいた。
よくよく見ればどこまでが下でどこからが上なのか分からないくらいだった。

『生きたいか、雛姫』

再び声が聞こえ、雛姫は辺りを見回す。だが、この白い空間には人の姿も形もない。
ただ、真っ白な世界だ。
すると、手が光りを帯びてゆらゆらと凪いでいく。いや、手というより、指。嵌めている指環からゆらゆらと何かが出ているように見える。

『もう一度やり直すか、雛姫よ』

目の前に突如として現れた男性に思わずたじろぐ。いや、男性らしきモノというべきだろうか、あやふやな輪郭である。
その言葉になんと言ったらいいのかわからなかった。
やり直す、とはいったいなんだろうか?

『彩雲国で再び生きてみるか』

その問い掛けにぞっとした。──いやだ、もうあんな辛い思いはしたくないのに、

『生きてみろ、雛姫よ』

抗議しようにもぱくぱくと口が動くだけで、言いたいことは言わせてもらえなかった。

いやだ、もう……十分だからっ……

お願い、もう眠らせて……ママと王様に会いたいからっ……

だから、もう……私を、解放……して……


お願いだからっ……

もう、忘れさせて───。


   ◇◇◇◇◇◇◇◇◇


頭がガンガンする。身体が重い。
なんでだろう──そう思いながら瞼を開けた。
目に入るのは眩しい光り、そして、見たことのない……人の寝顔。
分からずに額に手を当てると、動きに反応したのか、眠っていた髭男がこちらを向いた。

「おっ、気付いたのか? 調子はどうだ?」

「……調、子…」

どうなんだろう、状況がよく分からない。
なんで此処にいるのだろう。
此処は何処なんだろう。
この人は誰なんだろう。
そして、私はある事に気付いた。それを思った瞬間、頭の中が真っ白になり、自然に口から零れた。

「私は……誰…?」

それが目を覚ました彼女の第一声だった。



END



あとがき

ちょっと思いつき、という訳ではないですが、書いてみたかった話です。
これの前話という話がありますが、こちらは結末が違うif Storyとなる物です。ちなみに続く予定というのは今の所ないです。

2008/04/25


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