君がいるだけで
「こちらです」
腕を取られ、引っ張られて来たのは路地裏だった。
掴まれた腕が熱い。
差していた傘なんて意味のないくらい身体は濡れていた。
ドンッと壁に身体を押しつけられる。
背中に当たる壁がひんやりと身体を冷やしたが、前からくる熱い吐息にそんなものはどうでもよくなった。
零距離だったのが離れ、瑠歌は柳生を見上げた。
相変わらず、眸は見えないので表情までは分からない。だが、唇を少し噛んでいるのが分かる。
「柳生くん…?」
「あなたは…私を嫌いですか?」
「え?」
「答えて下さい。偽りなどを一切捨て、本当の、気持ちを」
真っ直ぐ見てくる視線に、瑠歌は身体を震わせた。
寒いとかではなく、彼を少し怖いと感じたからだ。
真摯な眼差しに瑠歌は顔を逸らしたが、ぐいっと顎を持ち上げられた。
眸と眸がぶつかる。否、ハーフミラーコーティングをされているという眼鏡では分からないかもしれないが、分かる。真っ直ぐ見ているのが。
瑠歌は動く両手で、スッと手を伸ばし柳生の眼鏡を外した。
「瑠歌…」
問いかけてくる柳生を見つめる。
切れ長の眸が真っ直ぐ此方を向き、眉間には皺が寄っている。
怖いと感じたのは、きっと彼の眸が見えなかったからだ。だから外した。
きちんと顔を、眸を合わせたかった。
「瑠歌さん?」
再度、名を呼ばれ、瑠歌はハッとした。
この二年の間に馴染んだはずの名が自分ではないと思ったのは。
「柳生くん…」
「はい」
「私は、狡くて、卑怯なんだよ?」
「……」
瑠歌は自嘲しながら、言葉を続ける。
「いつも真面目で紳士的な君には私は似合わない、と思うの」
「そんなことはありません。あなたは「でもね」瑠歌さん?」
何かを言おうとした彼の言葉を遮った。
柳生の手を握りながら、言葉を続けた。
「でもね、君がいなくなると思うと胸が苦しくなるの」
ぽろり、と言葉と共に頬に熱いモノが伝う。
「なんで、かな…私は…独りで、生きていかなきゃならないのに…独りは慣れていたはずなのに……君の傍にいられたら…って思ったの」
「それは……」
「いつか、君がいなくなるならば求めちゃいけないのに」
そうしたら、胸が痛む事も苦しくなる事もない。瑠歌は俯いた。
暫し、沈黙が落ちる。
がそれは掻き消された。
「貴方は、馬鹿ですっ!」
ビリビリと空気を震わすような大声と同時に、強く抱きしめられた。
「何故、そのような事を考えるのです! いつか? 私がいなくなる? そのような事はありえません」
「で、でも…いつか別「別れなどありません!」…!?」
両手で頬をぐいっと持ち上げられ、眸がぶつかる。
真っ直ぐ見つめてくる眼差しに、胸が高鳴り、ぐっとくる。
「別れる、なんて考えないで下さい」
まだ始まってすらいないというのに。
真っ直ぐ見て話す柳生に瑠歌は戸惑う。
彼はまだ若いから知らないだけなんだ。
出逢いと同時に別れは始まる事を。
いくら好き合っても、気持ちの変化はある。事情がある。
それがあるから、人は別れを経験していく。
フルフルと顔を横に振り、瑠歌は目線を逸らす。
「いいんです。私を、あなたの素直な気持ちで、求めて下さい。私はあなたを裏切ったり、独りにはしないです。あなたと共に、いたいのです」
「(なぜ…こんなにまで…)」
瑠歌は両手で顔を覆った。
誰も、こんなこと言ってくれる人はもういなかったからだ。
「……私、多分、柳生くんが、好きなんだと、思う…」
「……多分?」
雨で湿った髪を柳生は梳きながら、少し不満げに繰り返した。
「だって…まだよく分からない。これを好きだというのか。でもね、否定しても否定しても、何処かで君を思っていたのかもしれない」
ポッカリ空いていた心に飛び込まれた。
寂しさを埋めたかっただけなのか、彼以外でも良かったのか?
そうではなく、求めていたのは彼だった。
でも不幸にするだけだと否定した。好きになってはだめなのだと、ブレーキをかけた所で、それは効いてなかった。
「…つまり」
言わせようとしているな、と思いながら瑠歌は困った様に笑った。
意地悪ね、と言えば、それは貴方の方ですと返された。確かにそうかもしれない。
「つまり…柳生の傍にいたいの」
「……傍にいます。貴方が信じてくれるまで、何度でも言います。私は貴方が好きです、傍にいたいです」
互いに微笑し、二人は唇を重ねた。
優しく包み込むような口付けをした。
二人でマンションに戻り、濡れた身体を乾かして、暖めあった。
余韻に浸りながら、瑠歌は口を開いた。
「…………お願いがあるんだけど」
「何ですか? 肩を冷やしやますよ、もう少しこちらに」
グイッと引っ張られて、身体が触れ合う。
「あのね、この名前で、さっきの言葉をもう一度言って欲しいの」
瑠歌は、かつての名を口にした。
柳生は不思議に思いながら、その名を口にする。
「好きです、“ ”」
その名を口にして紡いだ言葉に、瑠歌は嬉しそうに、でも少し寂しげに微笑した。
柳生は彼女にその名がしっくりくる様に感じた。
瑠歌と言う名が似合わない訳ではないが、それでもその名で呼ぶのが自然なような。
「何か、あるのですか?」
訊いてくる柳生に瑠歌は眸を閉じた。
「とても大事な名前なの。前は気にしていなかったけど…とても大切な名前なんだ」
「…でも…やはり、貴方には“瑠歌”と言う名が似合いますよ」
「……ありがとう…」
泣きそうになるのを堪えながら、瑠歌は柳生に手を伸ばし、唇を重ねた。
“瑠歌”と言う名ももう私の名前。
彼が私を好きになってくれた、もう1つの大事な名前。
ありがとう、ともう一度呟いた。
“私”と“彼”の名を…家族になりたかった。
本当の、本物の家族に。
施設では確かに“家族”と言えたかもしれない。でもどこか本物ではなくて…それぞれ距離を置いて生きていた。
ねぇ、だから将来、子供が生まれたら、“彼の名前”と“本当の私の名前”を子供に。
本物の家族になれるんだよ。
君の名前はお母さんにとって、大事な人の名前だから。
だからそう付けたの。今度こそ、愛して、家族になれるように。
でも、お父さんには内緒にしてね、妬かれたくないから。
寝室で、瑠歌は子供を寝かせていた。が彼女自身も一緒に眠っている。
すると一人、ムクッと身を起こした。
開いた窓からはシトシトと静かな雨音が聴こえてくる。
その子は、母と、生まれて数ヶ月の妹を見た。スヤスヤと眠る二人を見る眸はいつもの無邪気さはなく、大人びていた。
「 」
ザァ、とカーテンが風に揺れ、言葉を掻き消した。しかし言葉は続く。
「幸せになってくれて、嬉しい。そして、俺の事を忘れないでいてくれて、ありがとう…… 」
子供は母の髪を撫でる。いつもとは逆だが、その手に拙さはない。
「家族になれて、嬉しい。今度は、お前の名を継いだ妹を守るよ……お母さん」
とても三歳とは思えない口調で話し、またカーテンが揺れる。風が強くなったのかザワザワと木々が揺れる音が聞こえた。
コンコン、と控えめ叩音に子供はドアに顔を向けた。
「おや、起きたのですか?」
「おとうさん、おかあさんとちぃちゃん、まだねんね、だよ」
父親はベッドを覗くと妻と娘がまだ寝ているのを確認した。
「疲れているのでしょうから、もう少し休ませてあげましょう。君は起きますか?」
「うん、おきる〜」
さっきまでの大人びた様子は消え失せ、無邪気に父親に手を伸ばして抱っこをせがんだ。
父親は息子を抱き上げ、開いていた窓を閉めてから部屋を出た。
「さっき、何か言ってませんでしたか?」
父親は何か話し声が聞こえた気がして、寝室に行ったのだ。しかし起きていたのは息子だけ。
子供はキョトンとして、「んーん」と首を振った。
「そうですか、なら気のせいですかね」
「プピーナ」
「…………仁王くんの真似はしないように」
キランと光る眼鏡を見て、子供は素早く謝った。
仁王のおじちゃん、面白いよ。と話す息子に暫くは出入り禁止にしようと考えている父親がいた。
二人が仲良く本を読んでいると、母親は娘を抱っこし、微笑して四人で過ごした。
END
2012/06/16