落花流水のように惹かれていた

名探偵コナン

「───ルパン、少し外してくれないかしら」

涙を流しながらも、その昏い眸にルパンは眉を顰める。自分で仕掛けておきながら、吉と出るか凶と出るか、分からなくなる。

「分かったよ、志保ちゃん。隣にいるぜ?」

「……盗聴機の類いは持っていってね」

「はいはい………じゃーな、探偵坊主。正念場だ、愛莉ちゃんの為にも健闘を祈るぜ?」

ルパンは新一に小声で呟くと肩を叩き、書斎の真ん中に置かれていた机の引き出しから、機械を手にすると部屋から出ていく。
階段を降り、玄関のドアが閉まる音を聞くまで、二人は無言だった。
しん、と静まる室内で新一は何から話せばいいのか、分からずにいた。
一度に色々な事が起きて、少しばかりキャパオーバーになりそうになる。
そもそも探していた宮野志保がいきなり現れたのだ。しかも子供を連れて。
無意識の無自覚でずっと彼女を求めていただけに、好きだという想いは果てようもなく、まして彼女の産んだ子供は己の血を引いている。焦るなという方が難しい。
しかし、ルパンにも言われたが、新一自身 どうして志保とそのような関係になったのかすら分からない。あるとすれば彼女が渡英する前日に二人で酒を飲んだ時だ。
世界で唯一、自分と同じ稀なる経験をした相手。
仲間で、運命共同体で、相棒で。
別れは悲しいが、彼女はすぐに、すぐに自分の隣に戻ってくると確信していたし、そうなるのが当然だと思っていた。
運命共同体で相棒なのは、江戸川コナンと灰原哀であって、工藤新一と宮野志保は違うとは考えてもみなかった。元の姿に戻ってもそのままトレースするように、二人の関係は変わらないのだと信じていた。
彼女がいなくなるまでは──。
いなくなったと聞いた時、自分には蘭がいたにも関わらず焦ってしまっていた。自分の半身をどこかに持っていかれたような喪失感に怖くなった。
早く早く彼女を見つけなければと蘭が忙しいのを言い訳に自分は彼女を探した。
それほど、彼女を求めていたことに気づかずにいたのだ。本当に鈍感である。

「……志保…」

「…………」



名前を呼ばれ、志保は新一を見つめた。
先程の彼の言葉に頑なに拒んでいる自分がいることは分かっている。
いっそ、清々しく彼の胸に飛び込んでいけたらいいのにと自分で自分に嘲笑してしまう。
それが出来るならば、こんなに苦しまずにすむだろうに。
だが、どうしても忘れられないのだ彼のあの一言が。

「志保、あの…」

「………名前で呼んでいいなんて言った覚えはないんだけど?」

「へ? あ、べ、別にいいじゃねぇか! 黒羽や世良だって志保って呼んでるし、ルパンたちだって………」

俺だって好きな女の名前くらい呼びてぇよ、なんて拗ねる彼に思わず目を瞠る。いったい、何を言っているのだろうか。

「だ、だいたい、俺以外はみんな志保って呼ぶじゃねーか」

「………それは、そうだけど…」

苗字で呼んでくるのは確かに新一くらいなものだが、それは組織と戦った仲間内だけである。

「………だからって あなたがそう呼ぶ必要はないわ…」

「なんで? 怒ってるのか? だからオメー1人に何もかも押しつけてて悪かったよ!でも、お前だって、なんで言ってくれなかったんだよ!」

「……な、にも覚えてない人に言ったって意味なんてないでしょう」

「…そ、そりゃ、そうかもしれねぇけど………」

「「……………………」」





長い沈黙に二人は黙ってしまう。
カチコチと書斎に置かれている時計が時を刻む。
何か言わなくては、と互いに思うものの何を言葉にすればいいのか分からない。
ふと志保は工藤邸に入ったのはあの時以来だと気付き、嗤った。
ああ、思い出したくなんかなかったのに、真夜中で彼と二人きりだからだろうか……。
ちらりと視線を送れば彼もまたこちらを向いていた。
深い海のような蒼い眸はあの時のようにどこか揺れているように見える。動揺しているのだろうか。

「………志保…」

名前を呟かれた。──違う。
あの時の彼は不意に抱きしめて、口づけをしてきた。抵抗出来ずにいたのは私の弱い心のせいだった。
酔った勢いでも良かった、"私"を抱いてくれるなら。

『……ん、らん…』

蕩けるような甘さを帯びた声は、私ではなく彼女の名を呼んでいただけだった。
悲しく泣きながら抱かれる私を、彼は優しく慰めてくれたけれども、それも彼女へ向けての優しさで、私の心を粉々に砕くには充分過ぎた。
初めてて、まして酔いが廻りすぎていたのか彼は直ぐ様寝てしまった。
身に纏うものもなく、散らばった己を服をかき集めて急いで立ち上がると太ももに伝う生温い白濁に嗤うしかなかった。

「────気持ち悪い」

何故、己はいつもこうなのだろう。
愛する者は、愛してくれた者は次々と自分から離れていく運命なんだろうか──。
私が何をしたというのだろうか。

「………そうね、人殺しよね……私は」

そのまま浴室へ行き、頭から冷水を浴びた。
シャワーから降り注ぐ水すら冷たいと感じることはないのに、太ももを伝う液体だけがやたらリアルだった。
一頻り泣いた後、泣いたって何もならない、誰も助けてくれやしない事なんて経験上身を持って知っていたからか、身体を洗い、彼をどうにかしてベッドに運ぶとリビングを片付けた。
彼が目を覚ますまで、寝室の前の廊下に座り込んでいた。
涙は枯れてしまったのか、ただ呆然としていたような気がする。もうすぐ自分は母親の祖国へと旅立つのだ。
もう、彼とは二度と会うことはない。まだ違和感の残る身体を抱きしめて目を閉じた。
翌朝、何もなかったかのように記憶がない彼に良かったと思うべきなかのか、覚えていないのかと落胆すべきだったのか、未だに分からない。
ただ、なかったことになっただけなのだと思うと"私"という存在はなんなのだと思う。
あれほどに粉々に砕けたというのに、彼と話すのはこれきりだと思えば穏やかな気持ちになれた。
憎みたくなんかない、彼は、彼には救われてばかりだったのだ。憎むことが出来ない。
空港で泣く博士を宥め、彼を見つめた。
『じゃあ、またな。風邪ひくなよ』
軽く言われた言葉には別離に関して感傷などなく、明るく言われた。
二度と会わない──そう決めたのは私で彼は知らないのだから仕方がないとはいえ、もう少し別れを惜しんでくれてもいいのではないかと、思ったがこれでいいと思えた。

だが、罪は罪なのだと現実を叩きつけられた。
お腹の子が誰のだなんて分かりきっていた。
彼とはもう縁もないというの、どうして繋がりが出来るのだろうか。
バレてはいけないと身を隠した。たまたま不二子やルパンに会い、彼らの助けを得て、レベッカたちの協力も与えられて、充分だと思っていた。
大切な宝物である愛莉に父を与えることは出来ないけれど、自分が愛していけば良いと思っていた。
愛莉に父親の事を訊かれて、思った事を口に述べた。

『ママはパパが好きだった?』

『───今でも、愛してるわ。あなたの次にね』

『愛莉もママ大好き』

──そう、あんなことがあっても憎むことなんて出来なかった。会えて、姿を見て、情けないくらいに彼に心を奪われたままだと知ってしまった。
あんな、"自分"ではない"彼女"だと思って抱いた彼を未だに想い続ける自分が愚かでならない。

「………志保…」

彼から紡がれる己の名前がこんなに響くなんて誰が思っただろうか──。
手を伸ばされ、肩に触れてくる手を振り払おうとしたが強い力で掴まれた。
ドンッと本棚に身体を押しつけられる。

「……工藤、くん」

「教えてくれ、俺……お前に、そんな酷いことしたのか…」

不安そうに揺れる眸に、好きだけでは、愛してるだけでも許せることと許せないことがあると眸を閉じた。

「………そう、ね…」

「酔った勢いだというのは確かに最低だと分かってる。だけど…」

息がかかるくらいに彼の顔が目の前にあった。
──聞きたくなんかない、そんな心にもない言葉なんてものは。

「──お前だったから……」

「違う。それはないわ」

「なんで! そんなの、お前に分かる訳「分かるわ!」……」

「分かるのよ」

はっきりと伝えれば、彼の端正な顔が歪んだ。
なんで、どうして、と訴える眸に志保はなにも言わない。言いたくなんかない。聞きたくもない。

「────あの時は、確かに蘭が好きだった」

「──知っているわ」

「でも、俺が 今、好きなのは、愛してるのはお前なんだ!!」

「…な、に……!?」

強い力でそのまま抱きしめられた。
ドクドクは早まる心臓の音を耳にしながら、好きだ、好きだと呟かれる。

(………なにを、なんで……)

奥底に宝物のようにしまっていたはずの想いが込み上げる。それは過去のモノのはずなのに、彼は容赦なく引き上げる。

「お前が俺を好きじゃなくても、それでも俺はお前が好きだし、傍にいたい!傍にいて欲しいんだ!」

「…………」

「あの子、愛莉の事だって、初めて聞いた時は誰の子供だって嫉妬したし、相手をぶん殴ってやりたいと思った。お前に触れた奴が憎たらしかった………でも、違うよな。愛莉は俺の子で、お前に触れたのは俺で……身勝手だけど、俺の子を産んでくれていたことが嬉しくて堪らなかった………」

「…………」

ただ、私は自分だけの家族が欲しかっただけなのよ。───あなたの子供だから、という訳では……。
そう思いながらも、頭の片隅で否定をしている。
違う………報われなくても、彼の子供だったから、好きになった人の子供だから、家族に欲しかった。──あなたの子供だったから。

「好きだ、志保。好きだよ」

熱に浮かされているかのように艶言を繰り返す彼の背にそっと手を回した。
すると彼は少し身体を離すと、頬に手を滑らせてきた。顔を見て欲しくないのに屈んで眸を合わせてくる。
真っ直ぐに見つめてくる深い海のような蒼い眸が捉えて離さない。

「………愛してる、志保」

「──」

口を開く前に言葉は飲み込まれ、熱い唇で塞がれた。




END
2017/08/31


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