恋は根尽く、恋は曲者
「志保っ!」
バンッ!と扉が開くと同時に、研究所の主を呼ぶ声が室内に響き渡った。
「また来たの?」
カタカタとキーボードを打ちながら、パソコン画面を見つめたまま宮野志保は呆れたように返事をした。
「そんな顔するなよ、せっかく美人なのにさ」
「大きなお世話よ。で、今回は何の用?」
「俺の用事はいつだって1つだけだぜ?」
「……………」
「愛莉は?」
「ルパンたちと出掛けてるわ」
はぁ、とため息を吐くとパソコンの電源を切り、立ち上がった。
新一が現れた時点で仕事は出来ないと判断し、データを保存したのを確認した上でである。
「………仲良すぎじゃねぇ?」
「当たり前でしょ? 彼らは愛莉が物心つく前から面倒を見ているのよ、愛莉が懐かない訳ないじゃない」
新一を通りすぎ、簡易キッチンに足を向けるとコーヒーを淹れる為にマグカップを取り出した。
志保の後を追うと、新一は戸棚に置かれている青いマグカップを手にした。
「ほら」
「…………はぁ」
笑顔を向けて、志保へ渡せば盛大にため息を吐かれたが、マグカップを受けとると己にも淹れてくれるのを新一は知っていた。
後ろからそっと細い肩を抱きしめると「ちょっと!」と声高に諌められるがそれでも振り払われることはない。
「……志保、会いたかった…」
ふわふわの赤み掛かった茶髪に口づけを落とせば、控えめなシャンプーの香りが鼻腔を擽る。
ぎゅっ、と抱きしめる力を込めると流石にやめてと冷たく言われるので仕方なく新一は志保から離れた。
それでも、頬に口づけをするのは欠かさない。
呆られているのを承知で新一は志保へ触れるのだ。
三人で初めて寝たあの夜から既に数ヶ月経過し、季節も巡りつつある。
「大学を卒業したら、結婚して欲しい」
新一はすかさず志保にプロポーズしたものの、志保の答えはノーであった。
「なんで!」と騒ぐ新一に志保は頭が痛くなるしかない。
「そんな、はい いいです。なんて言える訳ないでしょう」
「はぁ? なんでだよ」
「なんでもよ、それに 私 あなたを許した訳じゃないもの」
きっぱり言われてしまい、新一はグサリと矢に射たれた気持ちになった。
別に志保は酔っぱらって行為に至った経緯については怒ってはいないらしい。
それよりも志保の心を傷つけたことがあるらしく、それが分からない以上、意味もなく謝る事は出来ない。そんな事をすれば彼女はすぐさま自分を叩き出すかもしれない。
しかし、新一としては愛する人──志保と、なにより二人の愛の結晶たる愛莉と一緒に過ごしたいのである。
愛の結晶と言ったら、志保からたまたま出来ただけよとあっさり言われてしまったが、不二子から「ボクとの子供だから生んだに決まってるでしょ」と楽しげに話していたから、そちらを信用した。
両親、取り分け母 有希子からは「女が子供を産むって決意がいるのよ!それが分からないとか、仕方なくとかだと思ってたら、志保ちゃんに絶対結婚してもらえないからね!!」と激怒され「早く志保ちゃんに許可もらいなさいよ!愛莉ちゃんに会いたいわ!」と騒いでいた。
そう、未だに両親は志保にも愛莉にも会えずにいる。理由は父 優作が提案したのだ。
愛莉の存在を知った有希子が突撃しない訳がないにも関わらず現れないのは、会ったら志保が抱く罪悪感の為に両親を立てて結婚の承諾をしてしまう可能性があるからだ。
確かに罪悪感で結婚して欲しい訳ではない。
いや、傍にいれるならばどんなこともしてやりたいが、気持ちがないのは流石にイヤだった。
だからこそ、こうして月に一度会いに来ているのだが、彼女はなかなか手強い。分かってはいたが、気持ちを伝えて、プロポーズをしてから既に半年以上になろうとしていた。
「はい、どうぞ」
マグカップを渡されれば、ブラックが並々と入っていた。志保もマグカップに注ぐと、テーブルの方へ向かうので、後を着いていった。
流石、セレブが出資した秘密の研究所だけあって、ソファー類も高級志向なのか、それとも志保の趣味なのか、後者であろうソファーは座り心地は抜群だった。
新一はマグカップを掲げて「サンキューな」と礼を述べてから口をつける。やはり彼女が淹れるコーヒーは美味い。
「………どういたしまして」
無表情だが、冷たい訳ではない志保の横に腰を下ろせば、照れているのか呆れているのかチラリと一瞥するだけで何も言わない。
そんな彼女の優しさにつけ入ってしまう。
本当にイヤなのであれば、そもそもこの場所に入る事は許されないだろうし、彼女は会ってもくれないはずだ。
「そういえば、」
「うん?」
「あなた 毎月来るけど、大学の方は大丈夫なの?」
「今更かよ、もう単位も取ってあるし、後は卒業するだけだよ。就活も、探偵事務所を立ち上げるだけだしな……」
「だけだしって、それが一番大変な事じゃないの?」
「あー、もう目ぼしいテナントは見つけてて仮契約は済ませてあるし、そもそも今までは事務所なんてなくても請け負ってきたしな…」
「へぇ…」
くすり と笑い、カップに口をあてる所作が美し過ぎて見惚れてしまう。
「……なに?」
じーっと見ていたせいか、こちらに視線を向ける志保が可愛くて新一は微笑んだ。
「んー、オメーが綺麗だなって、見惚れてた」
「……っ? な、なに言ってるのよ」
少し動揺させることが出来て、新一は嬉しくなる。
こんな、やり取りをずっとしたかったのだ、時間を巻き戻した時のような、不自然なのにどこか居心地がいいこの空気がとても楽しくて。
「………志保…」
「く、工藤くん…」
いつもは流されてくれないクールな彼女が、見せる姿が可愛くて、堪らなくなる。
ああ、このまま日本へ連れて帰れたらどんなにいいんだろうか…。
唇を重ねようとしたが、まだ許されていないのだからと頬に口づけをすれば、彼女の息が少しだけ首に掛かる。
ぞくっ、と粟立つ肌にこのまま組み敷いてやりたくなるのを我慢する。
「…………驚いた…」
「……なにが」
「あなたの事だから、押し倒してくるんじゃないかと思って……」
「お望みなら応えてやるけど?」
至近距離のまま会話をすれば、志保の睫毛が揺らぐのが分かった。
「そんなことしたら、再起不能にしてやるわ」
暗に蹴っ飛ばしてやると言われ、それは勘弁だと告げるとふふっと笑うのが分かった。
嫌われてはいないのが分かり、ホッする。こうして触れても厭がられないだけマシなのだろう。
再会した時は取り次ぐシマすらなかったのだから。
「────志保、俺の傍にいて……結婚して下さい…」
抱きしめて、呟けば、いつものように「ダメよ」と告げられてしまう。
まだ、ダメか……と思っていると名前を呼ばれた。
「……どうして、そんなに結婚に拘るの?」
「そりゃ、志保と愛莉を守りたいからだよ」
「たかだか、紙一枚の契約で?」
「紙一枚って……そりゃそうだけど、認められたいんだ、俺は志保の夫で、愛莉の父親だってさ」
「………勝手に鑑定に出しておいて?」
「悪かったよ……でも証拠にはなるだろ」
「…………はぁ…」
盛大にため息を吐かれた。呆れているのかなんなのか。
「………工藤くん…」
「なんだ?」
「これから言うことを認めてくれるなら、結婚してもいいわよ?」
思いがけない言葉に腕に収めていた志保を離して、顔を見つめる。どこか愉しそうに見えるのは試しているのだろうか。
「マジ?」
「えぇ、でもあなたが良いのならだけど?」
「いいなら、結婚してくれるのか?」
「えぇ、そうね…」
ふふっと笑う顔は何かを企んでいそうだが……新一はゴクリと息を飲んだ。
「私ね、研究を止めるつもりはないの」
「……あぁ、それは別にいいんじゃねーか? オメーの頭脳を家に閉じ込めておくつもりはねーよ」
「そう? それは感謝するわ、ただね、研究はこのまま此処でしたいし、時々、恩師たちの呼び出しでイギリスやアメリカに渡らなくてはならないの」
「………それって…」
「ええ、日本にはいられないわね。結婚してても別居婚になるけど、構わなくて? 無論、私がいないからといって浮気とか考えてたりするなら、即離婚だし、愛莉にだって会わせないわ」
どう?呑める?と訊いてくる志保に新一は唖然とする。
結婚してもいいが、別居婚?
イタリアを中心にイギリスやアメリカに行く?
え?え?え?え?え?
疑問符が頭の中でぐるぐると回る。
そんなの、結婚してるという意味があるのか?
浮気は勿論する気はないが、え、傍にはいられない?
「無理ならもうここには来ないでね」
肩から新一の腕を外し、離れる志保に最終通告をされ、新一は固まったのは言うまでもない。
「──っ、志保!」
立ち上がった志保に声を掛けると「なによ」とこちらを見てくる。
さらりと揺れる髪は出会った時と同じように肩口でそろえられているが、細い身体にも関わらず出てるところは出て、括れているところは括れているのが分かる。
「………本当に、それを呑んだら結婚してくれるのか?」
「……えぇ、そうね」
「じゃあ、構わないぜ」
「────は?」
「は?ってなんだよ、オメーが言ったんだろ?」
「だって、あなた、事務所はどうするのよ? 探偵を続けるんでしょう?」
「探偵は続けるよ。でも、なにも日本じゃなくたっていいんだよ、事務所はまだ仮契約だし、平気だろ」
そう、日本でなくても探偵という仕事はどこでも出来る。それに日本では有名になりすぎてさえいるのだ。
「それに、」
「それに?」
ゆっくりと志保へ近づいて抱き寄せた。
「言っただろ、オメー……志保と愛莉を守りたいって。傍にいたいんだ……。俺がオメーに対して酷いことをしたのはなんなのか、分かんねぇけど、今 好きなのはオメーだから」
「…………工藤、くん…」
「これが 返事でいいか……?」
顔を覗きこんでくる新一に志保は呆れるしかなかった。まさか、そこまでするとは思えなかった。
事務所も仮とはいえ契約しているのだから、無理だと思っていたのに、彼はいつだってそれを乗り越えてくる。
志保はくすっと笑みを浮かべると、口を開いた。
「ねぇ、今日 どうして愛莉が出掛けているか知ってる?」
「え、あ…え? いや、なんで……?」
何故、今 それを訊くのかと新一は戸惑った。
志保は楽しげに笑っているのが気になる。
「愛莉の誕生日が近くてね。ルパンたちが愛莉になんでも買ってあげるっていって出掛けているのよ」
「………は?」
「パパとして、他人に遅れをとっていいのかしら?」
初めて、新一に対して"パパ"という言葉を使う志保の気持ちが分かり、嬉しくて抱きしめた!
「志保っ!」
「ちょ、ちょっと…」
「────愛してるよ、」
耳元で囁けば、真っ赤に染まる耳が見える。
そして、聞き取れないような小さな声で言葉を紡がれた。
新一は涙が溢れそうになるのを我慢して、志保を抱きしめたのだった。
END
2017/10/06