MISTY HEARTBREAK

名探偵コナン

閉じた扉を再び開けたい衝動に駆られながらも、ぐっと拳を握りしめた。
先ほど、二人を抱きしめた感触が胸に広がる。
愛しいと思えるこの感情をどうしたら良いのかと思い、見ないでいようと考えていたにも関わらず、窓の向こうが視界に入り、唇を噛みしめた。
塀から見えたのは茶髪と赤みかがった茶髪に、薄茶髪だが二人は分かる。つい先ほどまでこの部屋にいたのだから。
もう一つの頭は大学の友人である一人であるのは理解していた。
女々しく思いながらもあの二人が、志保と愛莉が幸せであるならば構わないと思ったのだ。
不意にリビングにメロディが流れる。
テーブルに置かれているスマホの画面には『 蘭 』という文字が表示されていた。

「もしもし?」

『あ、新一?』

「あぁ、どうしたんだよ?」

蘭の声を聞きながら、テーブルに置かれたマグカップを手にした。すっかり温くなったコーヒーを、宮野が淹れてくれたコーヒーを一口飲み込んだ。
やはり、美味い。

『今日、帰ってくるんだよね?』

「………あぁ、仕事が終わったら帰るよ」

『そう、なら食事用意しておくね。ハンバーグでいいかな?』

「……ああ、サンキュ…。じゃあ、後三時間くらいは掛かると思うけど」

『じゃあ、それに合わせて作っておくね』

「疲れてたら先に休んでていいからな」

『大丈夫よ、体力には自信があるんだから!』

「ははっ、流石鬼コーチだな」

『ちょっと、誰が鬼コーチよ!』

「わりぃ、わりぃ。帝丹高校の美人教諭だったか」

『それ止めてよ。全く園子ったら』

ぶつくさと電話の向こうで話す蘭の声を聞きながら、新一は苦笑いをするしかなかった。

「じゃあ、わりぃけどまだやることがあるんだ」

『分かった。じゃあ 待ってるからね』

「あぁ」

プツリと切れたスマホをテーブルに放り、新一はドサッとソファーに身を沈めた。
仕事なんて今日は全てキャンセルか受け付けてなんかいない。やるべきことは午前中、愛莉が学校に行っている間に全て終わらせたのだから。

すらりと伸びた手足に母親譲りである美貌、セーラー服を纏う彼女はどこかアンバランスな美しさを携えていた。
こんなのが、また中学生かと思うと末恐ろしい─。
確かに宮野も──灰原哀であった頃も可愛いというよりは美しい─小学生には似つかわしくない容姿をしていた。
組織から逃げていたからこそ周囲を警戒し、注意を払っていたから大したこともなかったが、普通の、組織なんて関係がない世界だったならば彼女は違う意味で危険だったかもしれない。
所謂、幼女趣味などの輩がいたならば。
そうしたら、俺は彼女を守っていたのだろうか、そんなもしもの話を考えながら新一は苦笑した。
組織がなかったならば、宮野とは会うこともなかっただろうに。出会うのが何故、江戸川コナンと灰原哀としてなんだと嗤った。
新一はソファーに凭れると両腕で顔を覆った。
ため息と共に、先ほどの時間を思い出しては胸がざわつく。色々な感情が溢れそうになる。
もしも──それを思い浮かべれば、次々と頭の中で幻想が沸き上がる。
黒髪ではない、赤みかがった茶髪の妻が呆れたようにコーヒーを淹れてくれて、彼女に似た娘が学校で何があったのかを話し出す。
時には自分の両親が加わり、特に母親が孫娘を構っては、父親が実に楽しそうに眺め、隣人でありながらも妻の父親である彼も可愛い孫に発明品を見せている。それを眩しそうに幸せそうに微笑む彼女に俺も笑う── そんな光景が頭に浮かんでは消えていく。
もしも──もしも、あの時、彼女の真意を、あの娘の正体に気づいていたならば、あり得た未来があったのかもしれない。

「…………夢物語だ…」

自分は昔から蘭を大切にしていたし、彼女が止めるのを聞かずに蘭の元へ走っていったではないか。
それでも、彼女がいなくなってから順調だと勝手に思っていた蘭との関係は何一つ変わってはいなかったし、それで蘭を何年も不安にさせていた。
ずっとそばにいたというのに、周りが、世良も園子も服部たちも結婚していく中で、彼女をひたすら待たせたのだ。
多分、蘭は気づいていたのだ、俺の心に誰かがいたことを。それでもひたすら待ち続けたのだろう。
健気な態度でずっとそばにいてくれた気持ちに、自然と、服部と和葉の家に出掛けた帰り道で「俺らも結婚すっか」と口にした。
戻れなかったあの頃は、格好良く決めたくて、両親の験を担きたくて、ロマンチックな彼女の為に展望レストランで告白しようと思っていた自分が、ただの帰り道で提案するように言ったのだ。
もう二十代後半になり、残されていく蘭の姿に申し訳なくなったのだ。彼女を今更放り出す訳にはいかないと思えた。自分のせいなのだと、思った。
どうせなら見限ってくれてもいいと思っていた。その方が幸せになれるだろうと。
しかし、蘭は泣きながら「やっと、言ってくれた……」と呟き、抱きついてきた。そっと、背中に手を回し、「遅くなってわりぃ」と謝った。
蘭の事は、好きだった。それは昔から変わらない気持ちなのに、何故だろう、何年か前に宮野に口づけをした時よりも熱くならなかった。なれなかった。

蘭と結婚してから四年──気持ちがないわけではない。彼女の事は好きだし、大切にしている。
十代の頃に持ち合わせていた熱情はないとしても、傍にいるのは当たり前で、守ってやらなければならない、泣かせたくない。
『江戸川コナン』だった時のように、家族として蘭を大事にしている、いや、あの頃はまだ愛情はあった。それよりも落ち着き、恋人、夫婦──よりも穏やかな家族として今を過ごしている。

──普通なら、離婚されても仕方ないのかもしれない…

子供がいない、というのも原因は己のせいだろう。
夫婦としての営みがありながらも、一向に兆しが現れない。蘭が婦人科に通い、調べたが特に問題はない。ならば俺に問題があるのだろう。
宮野に連絡しても良かったのだが、もし、あの"薬"が原因だったとしたら、彼女にまた重い枷を負わせることになる。
彼女にもう重荷を背負わせるなんて出来なかった。
試作品の解毒剤から、きちんとした解毒剤を文字通り寝る間を惜しんで生成してくれたのだ。
元はと言えば自分の好奇心が起こした出来事だというのに。
誰にも、蘭にも言わずに、病院で検査を受けた。彼女が作ったという薬は毒の検出は出ない為か検査もなにも問題はなかった。しかし、聞かされた言葉で自分には子供が作れないのだと理解した。
医師に『おたふく風邪などになりましたか?』と聞かれ『幼い頃に…』と返答すれば首を傾げられた。
無精子症──精子の数が少ない乏精子症だと医師は話していた。きっとあの耐えがたい苦しみを自ら望んで行ってきた代償だと思った。
だから、蘭に伝えた。
『お前が望む子供を与えてやることは出来ない。離婚したかったならそれで構わない』と。
子供を欲しがっていた蘭にとってはショックが大きかったらしく、何日か塞ぎこんでいた。
結婚して、三年になる頃だった。
それでも意地なのか、彼女は離婚しようとはしなかった。
『新一が苦しんでいるのに、離れるなんて出来ないよ』
救われそうな言葉であったが、むしろ離れてくれても構わなかった。つくづく自分が嫌になる。
蘭をまた苦しめるのかと思えば思うほどに。だけど、彼女が元に戻して、与えてくれた『幸せ』を手放す訳にはいかなかったからだ。
しきりに自分が望んでいたのだから、彼女の前で。

博士や黒羽から宮野が白馬の子を産んでいると聞いた時は、良かったと思えた。彼女には何も問題はなかったのだと同時に、あの『愛莉』の存在が気になった。
博士に写真を見せてもらい、幼い子供とは別に灰原哀にそっくりな少女を見つめた。
白馬の子供である幼い子たちには白馬の面影があった。『愛莉』だけが宮野を生き写しにしたようだった。
ふと、眸の色を見つめた時に、どくんと鼓動が鳴った。バサバサと昔の、コナンでも新一でもどちらでも構わなかったが手近にあったのはコナンの写真で見比べたのだ。

──同じ、眸………

何故、え、は?
混乱したのは言うまでもない。宮野とそんな行為などした覚えは何一つないのだから。
それに、アイツはイギリスに行ってから身籠ったと聞いた気がする。──それらが嘘だったとしたら?
いくら記憶を掘り起こそうとしても、何も浮かばない。それなのに、どこかで、この娘は俺の子なんじゃないかと思えた。

頻りに愛莉の"父親"を誰にも言わないのは、それが、誰かを傷つけると彼女は思ったはすだ。
しかし、彼女は遠いアメリカで研究所に勤めていると聞いていたし、連絡先すらも知らない。
否、今更訊いてどうするのだと考える。
仕事で日本各地はもちろん、要請があれば機関を通じて世界の国々でも事件を解決していく。そうして、考えないようにと月日が経っていた。

博士に用があり、いつものように阿笠邸へと訪れた。生憎、博士は留守で、フサエさんが対応した。
蘭がいた事に驚いたが、ソファーに座る人物に目を瞠った。

「…………はい、ばら……?」

口から出た言葉に"灰原哀"にそっくりの彼女は首を傾げていた。
しかし、すぐに違うのだと分かった。

「…………あ、いや、なんでもない。確か、白馬んトコの……」

「はい、白馬 愛莉です」

「だよな。覚えているか、俺の事?」

覚えているかと不安になりながら話しかけると、彼女は頷いた。

「真純ちゃんの結婚式で会った人ですよね」

「覚えてるもんだなー」

感心したように応えたが、内心は嬉しかった。
たった一度しか会った事がないにも関わらず、覚えていてくれた事に、微笑んでしまった。
彼女は、元気なのだろうか。

「白馬と、宮野、元気か?」

「はい、元気です」

「……そっか」

ようやく帰国したという彼女は白馬と暮らしている。当たり前だ、彼らは夫婦なのだから。
帰る間際に、ついつい名刺をフサエさんに託してしまった。繋がりを断ちたくなかったのか、彼女は本当に俺の子なんだろうか、と。
内緒にして欲しいと頼み、プライベートの電話番号とメアドを記した。連絡が来るだろうか、と少しだけ期待をして。
それでも連絡が来なくてガッカリしていれば、黒羽から飲みに誘われた。
白馬の家にほぼ毎日通っているというヤツの話を聞くと、相変わらず宮野は美しいと称賛していて、こっちは世良の結婚式以来一度も会っていないというのに、ずりぃだろ、と酒を煽った。
そこで彼女の娘─愛莉が俺に会いたがっているという話を聞かされたのだ。
そして自分も博士の家で偶然会った事を話した。

「何故かは知らないけど、連絡先を渡してしまってさ……そんなことをする必要なんてないのに、な」

「べつにいんじゃねーの? 愛莉ちゃんだってお前に会いたがっていたんだしさ。なんの用事かは知らないけどさー、気になるんだろ?」

向けられる眸は何年か前のような鋭い眸だった。

「………あぁ…」

「工藤は探偵だしね、気になるならちゃんと真実と向き合わないとダメかもな……」

「………黒羽…」

「気づいてないとでも? あの娘の父親は誰も知らない重要事項なんだぜ? もしも、それを確かめられるとすればお前しかいないんだよ、きっと…」

「だけど、宮野は…」

「志保ちゃんだってなにか考えがあったんだろう。まぁ、想像はつくけどさ」

「……………」

「でも まぁ もし志保ちゃんと愛莉ちゃんを傷つけるようなことをすれば、工藤は色んな人を敵に回すぜ? どれだけの人が彼女たちを見守ってきたか分かるだろ?」

「………あぁ、そうだな…」

グラスに注がれた酒を飲み、もしかしたらという思いが過る。しかし、違っていたらただの馬鹿だ。
ため息を吐き、それでも彼女は自分の娘だと願いたかったのかもしれない。
そして、今日、真実を知る事が出来た。
己の浅はかさと今の今まで知らずにいた自分が情けなくて、悲しくて、悔やむしかなかった。
それでも、あの娘から『お父さん』と呼ばれた事に幸せと切なさが自分を覆う。
何故、話してくれなかったのか、話してくれていたら自分は責任を取った、だろう。
しかし、彼女はそれさえも拒んだ。

──責任なんてとってもらおうだなんて、1ミリも思ってなんかいなかったわ!
──気づいた時にはもうギリギリで、堕ろすなんて出来なくて、それに、欲しかったの、私の、私だけの家族を

私だけの家族を欲しいと願っていた彼女を責めることなんて出来なかった。
元に戻るんだろ?と気軽に言った自分には、帰るべき場所が、待ってくれている幼なじみや両親がいた。
彼女には幼なじみも恋人も、肉親すらいなかったのだ。博士がいるだろ、そう言った言葉に嘘はなかった。灰原の家族は博士で間違いはなかったのだから。
ならば、宮野志保は? 宮野志保には待っている家族がいるのか──いない、既にいないのだ。
それなのに、彼女は俺を責めることなどしなかった。
あの時も、今も幸せだと微笑む彼女は本当に美しかった。
縋るように彼女の腰に腕を回したが、拒まれる事はなく、細いのに柔らかいお腹に顔を埋めた。

「………俺は、お前と」

一緒にいたかった、──そう、ずっと傍にいたかった、いて欲しかったのだ。
言葉に出来ない想いが胸に広がる。不意に優しく頭を撫でられる。それが嬉しいのか、哀しいのか分からなくて強くしがみついた。子供のように。
出来るならば、ずっとそうしていたかった。

「………宮野、ごめん」

顔を離して呟けば、困ったように笑い、まるで小さな子供ね、と笑われてしまった。
それすらも綺麗だと思えてしまう。口から出た言葉は真だった。

「───お前は綺麗だよ、誰よりも、俺の中では」

「………貴方には蘭さんがいるでしょう」

「ん、あぁ。オメーがくれた"幸せ"だな」

そう、彼女がくれた"幸せ"だ。

「あなたが幸せなら良かったわ…」

──あぁ、本当に綺麗だと思える。
触れたくて、でも赦されないのは知っていたから、十年前と同じように頬に口づけた。やはり鼓動が速くなった。

新一は己の唇に手を当てた。
彼女の、宮野の感触を思い出すように、二度と触れる事は出来ないのだから。
愛しさが溢れようと、彼女は自分の隣に戻ることはないのだから。

愛莉とはまた会うことは出来るだろう、父と娘として。この家の中だけならばと言ってくれたのだ。それだけで満足すべきなのだ。
決して触れることは出来ない筈だったのだから。
新一は立ち上がると、リビングの電気を消した。

彼女たちの笑顔を守る為に、自分は何が出来るのだろうか……。陰ながら見守ることしか出来ないが、彼女たちの未来がずっと幸せである事を願う。
それでも、時々でいいから逢いたいと思う。

「………帰るか、家に…」

彼女が戻してくれた『工藤新一』の帰るべき場所に。




END

2017/08/09


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