ひとりになったボク

名探偵コナン

灰原の言葉に博士が後退りをしたのが視界に入る。
おじさん、って何を言っているんだ。そう言ってやろうとしたが、言葉が出てこない。
いや、何を話したらいいのか分からずに、口を開けたり閉じたりしている。
それに気づいたのだろう、灰原はこちらを向いてから、博士を見やる。そして、申し訳なさそうな顔をして俯いた。

「……ごめんなさい……私、あなた達を傷つけたのね」

「そ、そうじゃないんじゃよ、哀くん」

直ぐ様 博士が否定すれば、灰原は顔を上げた。

「……あい? 私の名前は志保ではないの…?」

志保、だと?
自分の名前を覚えているのか、と驚いていると、彼女の傍にいるメアリーさんか灰原の肩に手を置いた。
こうしてみると、やはり似ているのは彼女たちが血縁関係があるからなんだろう。

「お前の名前は志保で間違いはないぞ」

「……そうよね、」


安堵するように息を吐く彼女の背後からメアリーさんがこちらを見ている。余計な事は言うなよと云わんばかりに。

「志保、疲れているだろう? まだ休んでるといい」

「……ありがとう、メアリー伯母さん」

灰原は頭を撫でられるとくすぐったそうに眸を瞑り、ベッドに横になるのを見届けてから、メアリーさんは立ち上がると母──有希子に「真純を呼んでくれ」と頼み、暫くすると世良がやって来て、入れ替わるように俺たちは部屋から出された。


【ひとりになったボク】



「見てわかったと思うが志保は記憶がない上に、元の姿には戻れなかった」

別室に移動し、きっぱりと言い放つメアリーさんに誰もが呆気に取られる。
父──優作はもちろん、降谷さんもだ。ジョディ先生もあまりの出来事に戸惑っているのが分かるし、博士はショックを受けたからか、がっくりと肩を落として俯いたままだ。

「も、元に戻れない可能性を知っていたのか、赤井ぃぃ!!」

どこか冷静でいた赤井さんに降谷さんが突っ掛かる。世良も、メアリーさんも、何故だろうか、やたら落ち着いていたような気がする。

「………前に、志保から可能性の話を聞いていただけだ」

「なんだと?」

「といっても、20%程度の確率だったのだが……」

「予測を見誤ったようだな、事前に聞いていたかはそこは見逃して貰おうか、公安の」

きっぱりと言い放つメアリーさんに降谷さんがギッと睨むが、動じないあたりは流石 赤井さんの母親といったところだろうか。

「メアリーさん、貴女たちが落ち着いている訳を教えて貰えるかね?」

父さんが問いかけると、メアリーさんは頷き話し始めた。

「志保から聞いていただけだ。元に戻れる可能性は70%、残り30%のうち10%は命の危険があると言っていたし、20%は副作用として何かあるかもしれないと言っていた」

「……そん、な……」

ならば、70%の可能性で俺は戻れたというのに、灰原は残り30%で元に戻れなかっただけでなく、副作用で記憶を喪くしたというのか。
茫然としていると、またメアリーさんが口を開いた。

「解毒剤を飲む以前に聞いていたのだが、志保の姿に戻った暁には彼女をイギリスへ連れていく約束をしていた」

突然の話に眼を瞠る。一体、何の話をしているんだ?
意味が分からずに聞いていると、母さんが声を上げた。

「まって! 今は哀ちゃんの姿なんだし、彼女は私たちが……」

「ま、待ってくれ! 哀くんはこのままワシの家で…」

博士も懇願するように声を上げた。
そうだ、灰原哀のままならばこのまま博士の家で、俺だって面倒は見るし、母さんもその気でいたのだ。
彼女が、宮野志保に戻れた暁には面倒を見ようと。
しかしそれを振り切るようにメアリーさんは、頭を振った。

「志保……あなた達には哀かもしれないが、彼女は私が面倒を見る」

「な、」

「彼女は私の妹であるエレーナの忘れ形見だ。私が引き取る事にに何の問題はあるまい」

きっぱりと告げる彼女に、博士も母さんも、俺も何も言えずにいた。
確かに血縁関係である以上、メアリーさんが灰原を引き取る事に問題などなくむしろそれが普通の事だろう。
しかし、博士と灰原には疑似とはいえ父娘関係が築かれていたのだ。

「わ、ワシが引き取る!哀くんを娘同様に思っておるんじゃ!」

博士の訴えに新一も頷いた。
灰原は博士の発明や食べ過ぎに呆れてはいたものの、それはそれで楽しそうに今まで暮らして来たのだ。

「……悪いが、彼女からの意志でもあるのだ」

「……な、」

思いがけない言葉に博士も俺も驚愕するしかない。
意志?彼女の?灰原の意志、だと?

「もしもの時、阿笠博士 あなたにこれ以上迷惑は掛けられないのだと言っていた」

「そ、そんなワシは迷惑だなんて」

「あなたの志保──哀への思いやり、感謝している。彼女とてあなたと離れる事に戸惑っていたのだ。しかし、それでも此処にはいられないのだと聞いている」

その原因は阿笠博士の隣で信じられないとばかりに顔を歪ませている彼だと気づくものがいたとすれば、僅かである。無論、彼本人に気づくことはない。

「だ、だけど、灰原は」

「……彼女は"灰原哀"であったことは勿論、宮野志保としての記憶はないのだ。幸い、知能レベルは前と変わらないようではあるが、そんな記憶がない状態のあの子に周りはよくとも本人が辛くなるだろう。日本はギフデットに対しては残念ならがまだまだ対応していない。……彼女の為でもあるのだ」

「…………でも、灰原は俺の相棒で…」

「それは"江戸川コナン"であった時であろう? 工藤新一とは面識がないに等しいのではないか?」

「俺が守るって…」

「それには感謝している。だが、君は高校生だ。進学などやる事がたくさんあるだろう? 真純らから聞いたが待たせている恋人もいるそうじゃないか」

「…………」

「幼い子供ではなく、平和になったのだ。君はその恋人を守ればいい。志保は我々が守るのでな」

「…………」

新一は何も返せなかった。
元の姿に戻れた今、自分は高校生として前のように日常に戻らなくてはならない。
そこにいると思っていた宮野志保の姿はないのは当たり前で、"江戸川コナン"と"灰原哀"はいなくなるはずだったのに、"工藤新一"と"灰原哀"は一緒にいられるはずもない。

「阿笠博士、」

メアリーさんは博士に話しかけていた。

「な、なんじゃ……」

「そう気構えなくてもらいたい。我々はあなたから志保を取り上げる気はない。あなたは宮野厚司を知っているらしいが」

「あ、あぁ……と言っても学会で何度かあった事があるくらいじゃが…」

「あなたは父親の知り合いまたは遠縁としておけばあの子との繋がりは消えない──いつでも彼女に会いに来てくれて構わないのだ」

「……ほ、本当か?」

「ああ、一年もないとはいえ、あの子を助けてくれたのはあなただ。肉親として礼を言いたい、ありがとうございます。感謝している」

「いや、なんの…」

「それで、哀くん……志保さんはいつからイギリスへ?」

呆然としている間に会話は続いていて、父さんがメアリーさんに話しかけていた。

「そうだな、早いうちにと思っている。見た目が"灰原哀"である以上は、あまり留まっている訳にはいかないだろう」

「彼女を"宮野志保"として育てるつもりなんですか?」

「"灰原哀"として育てるべきだとは分かっているが、"志保"という名はあの子の両親があの子に授けた最初のギフトだ。それを尊重したいと思ったのだが」

「……そうですね、それ以外もう残ってはいない」

呟かれたそれに一瞬意味が分からなかったが、そうだ、彼女は記憶を失ったのだ。両親の事は生まれて直ぐに亡くなったと聞いていたが、それを伝えてきた"宮野明美"さんと繋がりさえ、記憶は消えてしまっているのだ。"宮野志保"として、生きているのは彼女自身であり、"志保"という名を継がせるしか繋がりが皆無になってしまう。


新一はただ、その成り行きを眺めているしか出来なかった。
いつも見ていたはずの目線とは大きく異なり、ずっと見上げていた大人たちと同じ目線であるはずなのに、なぜだろうか、薄いガラスが目の前にあり、まるでテレビを見ているような気分でしかならなかった。
ただ、分かったことは、"灰原哀"は元に戻れず、"宮野志保"として遠くで暮らすのだという事である。

それでいいのか──消えていったはずの眼鏡を掛けた小さな少年が心に語りかけていたが、新一は頭の中で仕方ねぇだろ、と答えるだけだった。




END
2017/11/08


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