知らないヒト

名探偵コナン

真純の後ろから聞き覚えのある懐かしい声音が聞こえてくる。

「は「志保!どうしたんだい?」」

灰原と名を呼ぼうとしたが、真純が驚いて先程まで出さずにいた名を呼んだ。
聞き慣れない、その名前は彼女の本名のはずなのに工藤新一にとっては違っていた。

「アポロは?」

「アポロなら少し遅れるって連絡が着たわ、お姉ちゃんが遅いから戻ってきたの…………お姉ちゃんの知り合い?」

ちらりとこちらを見てくる翡翠色の眸にドキンと胸が鳴ったと同時に苦しくなったのは何故か。
会えて嬉しいのに、胸が締め付けられる。
ショックなのだ、彼女が記憶がないことを、俺を忘れてしまったことを、覚えていないことを。
共に同じ境遇で、運命共同体で、相棒で、灰原哀は誰よりも江戸川コナンを、工藤新一を知っていたはずなのに、彼女は、目の前にいる宮野志保は江戸川コナンも工藤新一すらも知らないという哀しさ、淋しさ、辛さ、あのねじ曲がった時間、工藤新一が小学生を演じることもなく自然体でいられた唯一の在処だったのに、それはもう永遠に喪われてしまったという事実を目の当たりにした。
服部はどういうことだとばかりに隣の新一を見れば、彼は茫然とした顔で『灰原哀』であるはずの少女を見ている。

「初めまして、俺は黒羽快斗!」

少し気まずい空気を壊すように、黒羽がポンッという音と共にピンクの煙の中からピンク色の薔薇を出した。
それに驚いたように眸を大きくさせた志保は差し出された薔薇を素直に受け取った。

「…あ、ありがとう…」

少しはにかむように微笑む彼女に新一は再び驚きを隠せないし、彼女を知る服部も同じことだ。
黒羽も怪盗キッド時代に彼女を知っていたからか、素直な彼女に驚いたものの、そこは笑顔でやり過ごした。

「君の名前は?」

黒羽は笑みを浮かべたまま問いかければ、彼女はその薄紅の唇を震わせた。

「宮野志保よ、黒羽さん」

ふふ、と笑い方は変わらないはずなのに、知らない。『灰原哀』の姿なのに『宮野志保』と名乗る彼女なんて、俺は知らない。
茫然とする新一と、訳が分からないと戸惑う服部は真純や新一、志保へぐるぐると視線を向ける。
そんな事は知らない白馬も名前を名乗っていた。

「私は白馬探と言います」

「そう、よろしくね」

まただ……。違う、違うんだ。
笑顔を向ける彼女に違和感しか感じないのは、彼女が昔とは違っていたからだ。
それを眺めていると、翡翠色の眸がこちらを向いた。彼女の眸が俺を見ていると思うとドクドクと心臓が煩く感じるのは何故なのか。
しかし、それはふいと逸らされると横にいる服部へと向けられる。

「……あなたは?」

「……お、俺は服部平次や……ちゅーか、ちっさいねーちゃん「その呼び方止めてくれないかしら?
私、そんな小さくないけど?」せ、せやな……」

どういうことや、と見てくる服部がいたが、彼女がこちらを向いてくれないことに焦る。

「あ、あの………俺は 工藤新一、です」

「………前に会ったことあったかしら?」

「え、」

覚えているのか、と驚きへと変わる。
彼女と会ったのは彼女が記憶をなくしていると知らされた時以来だが、もしかしてという期待が高まる。

「……あなたと、前に会ったこと……」

こめかみを指で圧しながら彼女が呟く。
もしかして、記憶が、記憶を取り戻せるのではないかと思ってしまう。

「Shiho!」

彼女を掴もうとした両手が空中で止まる。
灰原を呼ぶ声が横から聞こえたからだ。
名を呼ばれて彼女はそちらを向いて見た事もない笑みを浮かべた。
慌てて彼女が向いた方を見れば、そこには少年と青年の狭間、成長期の男がいた。
親しそうに灰原を「志保」だなんて呼んでいる。

「I'm sorry to be late……この人たちは?」

「……お姉ちゃんの知り合いみたい」

「マスミの? 誰が恋人なの?」

「アポロ、どの口が言ってるんだ?」

「Ouch, sorry, sorry……いやいや、マスミだってシホに似て美人なんだからさ」

「志保に似てってなんだよ、ボクたちは従姉妹同士なんだぞ!」

「ごめん、ごめん」

いきなりの出来事に唖然としてしまうくらい、ポンポンと繰り出される会話に口を挟めずにいた。
というか、どこかで見覚えがある少年に新一はじっと見つめてしまう。
相手も気づいたのか、「あ!」と声をあげた。

「どうしたの? アポロ」

「ホームズの弟子!」

「───え、」

思いがけない言葉に唖然としてしまう。
新一が反応しなかったからか、灰原──宮野志保が傍らの彼を見ながら訊いている。

「なぁに、それ?」

「あれ? 話したことなかったっけ? 何年か前にお姉ちゃんの事件を解決してくれた日本人の子がいたんだよ、」

その言葉に初めてロンドンに来た時の事を思い出す。あれは、ウィンブルドンの決勝の時の事だ。
じゃあ、この子はあの時のグラスの弟だ。
すっかり大きくなった彼は灰原と変わらないはずだ、こんなに背が伸びるものなのかと驚きもあるが、新一は慌ててしまう。

「日本人? ホームズの弟子?」

事情を察したのか、世良がアポロを止めようとしたが名前が出てしまった。

「ああ、江戸川コナンっていうんだ。シホは日本から来たんだろ、知らないかい?」

「………江戸川、コナン……?」

彼女の口から懐かしい名が呟かれる。
ああ、もし、"江戸川コナン"で何かを思い出してくれたらと思ってしまう。
そうだ、俺たちには誰にもない繋がりがあったはずだ。

「江戸川コナンくんというと、確か君や毛利探偵といた慧眼な子ですよね?」

話を聞いていた白馬が確かめるように服部に訊ねた。

「あ、あぁ……そうや…」

「いつの頃からか聞かなくなりましたよね、」

「…あ、アイツは…海外の親んとこに行ったんや、な、なぁ、工藤…」

嘘が苦手なのか服部がこっちに投げてきた。
灰原の様子も気になるが、白馬やアポロに向かって答えた。

「あ、あぁ。今は両親の所にいるみたいだ」

「そうだったんですか」

「そうなんだ、」

話の流れをただ見守っていた真純や黒羽は哀──志保を見つめた。
戸惑ったような、でもどこか変わらない様子に彼女の記憶が戻って欲しいような、そのままでいてもらいたいような気持ちになる。
否、彼女を思えば記憶なんて戻らなくてもいいのかもしれない。今更……どうするというのか。

「シホ、どうかした?」

「──え?」

「具合でも悪いの?」

「平気よ。少し、不思議な気がしただけよ」

そう呟く彼女が新一を見たのはたまたまなのか、意味があるのかそれは彼らには分からない。
だが、新一はどこか期待したのかもしれない。

「……い、今からどっかに行くのか?」

不意にもたらされた問いに志保とアポロは新一を見る。

「今からミネルバの所に行くんだ、赤ちゃん生まれたからさ」

「お祝いに行くのよ」

二人が顔を合わせて笑い合う姿に新一は胸が苦しくなる。彼女が笑っている。楽しそうに、微笑んでいる。

──なんで、笑ってんだよ

さっき、"江戸川コナン"の話題には首を傾げるだけで、忘れたままで、思い出してくれやしない"相棒に焦燥感が募る。

「……へぇ…」

「?」

何か言いたそうな雰囲気を察したのか、首を傾げるアポロとは違い、志保は怪訝そうな顔をした。

「──何か、言いたげだけどなにかしら?」

「べ、別に、他意はないよ」

そう、とそれでも不審気にこちらをみる眼差しはどこか懐かしいのは何故だろうか。
根本的に彼女は彼女のままなのだが、新一にとっては物足りなかった。

「志保、アポロ、そろそろ行った方が良いんじゃないか?」

プレゼント買うんだろ、と促す真純に志保とアポロは顔を見合わせた。
ちらり、と新一たちを見たがいつまでも留まっていても意味はないと判断したのだろう。
志保にとって新一たちは真純の知り合いである。ならば自分たちには関係はないのだ。

「お姉ちゃんはどうする?」

「ボクは彼らと話があるから、ミネルバにはまたの機会にするさ」

「そう、分かったわ。それじゃ、」

「ミネルバによろしくな、アポロ」

「OK!」

二人が新一たちに会釈をして去ろうとしたのを止めようとしたが、それは真純によって遮られた。

「………とりあえず、どこかカフェでも入ろうじゃないか」

苦笑いを浮かべながら、真純に促され新一は頷くしかなく、他の三人も同意するしかなかった。
新一は志保の背中をただ眺めていたのだった。


【知らないヒト】


END
2018/01/14


-5-

パンドラの匣 / top