想う数だけ聞こえる音色
トクトクトクと音が聞こえる。
これは、なんの音だろうかと灰原哀は浮上する意識の中で思う。
トクトクトク…。鼓動だ、と思ったのはなぜだろう。前にも聴いた事がある。
ふっ、と意識が上がり目を覚ませば見覚えのある阿笠邸ではないことを思い出した。
むくり、と起き出した哀は自分の心臓に手を当ててみる。トクトクトク…と手に伝わるような鼓動に先程のは自分の心臓だったのかと、思いやった。
しかし、何故か 違う気がしたのだった。
頭を振って、ベッドから降りてカーテンを引くと眩しい光とまるでオモチャ箱を逆さにしたような街並みが眼下に広がる。
赤井に連れてきて貰って早3週間。離れている博士がカロリーをセーブしてきちんと食べているか心配になる。
随分前に工藤くんと外食したという話を聞かされ、連絡していなかった事もあり、注意をする為にLINEをしたことを思い出す。
途中で途切れたトークにどうしたのだろうと思ったが、彼は色々と忙しい身であるのだから、心配はいらないとメッセージを送り、それはそのまま既読はついたもののそのままである。
『彼』にとって、灰原哀とは何者なんだろうか。
臼ぼやけた輪郭が窓ガラスに映る。
本当の自分の姿ではない姿に幻なのではないかと、眸を瞑る。
幼児化した頃は、脳に記憶されている自分の姿とはあまりに違い、鏡を見るのが正直怖かった。
── あなたはだれ ──
宮野志保であるにも関わらず、鏡に映るそれはあまりに小さい。自分が生きてきた十八年が嘘のように思えた。
灰原哀と名乗り、それが定着する頃にあの組織の気配を感じては自分は此処にいてはいけないのだと認識し、逃げ出そうとしたこともあった。すべてを終わらせてしまいたいと思った。
しかし、同じ境遇である彼がそれを悉くそれを阻み、守ってやると言ってくれた。
彼にとって その言葉に重みはなかったにせよ、救われた気持ちもあった。
だから、もう彼に迷惑はかけたくなかった。
もう組織はないのだから、守ってやるという約束も終わった。
工藤新一という取り戻した人生に、灰原哀は関わりないのだから。
トクトクトクトクトクトク……
自分の鼓動が早くなるのは何故だろうか。
焦心?もう会えないかもしれないから?
傷心?悲しいから?
知らずに動揺している事に、哀はクスリと笑うしかない。随分、人間らしくなったものだとつくづく思ってしまった。
── コンコン
部屋がノックされ、哀はまだ寝間着のままだと気づいた。
ドアに近づけば、気配でわかったのか赤井秀一の声がする。
「起きているか?」
「えぇ、今 起きたわ」
「そうか、朝食は十分後でいいか?」
「えぇ、すぐに支度するわ」
「ではダイニングにいる」
「分かったわ」
もう一度 窓からの景色を一瞥してから、哀は着替えるべく与えられたクローゼットを開けたのだった。
おはよう、とダイニングにはいれば「オハヨーゴザイマス」とジョディが返してくれた。
朝食を三人で食べた後、ジョディが「哀ちゃん、今日は私と買い物に行きましょ」と誘われた。
「でも、まだ……」
「たまには休まないとダメです」
「たまには行ってくるといい」
「シュウもこう言ってますし、行きましょ」
押しきられるように言われ、哀は素直に「いいわ」と答えた。アメリカでの保護者は赤井秀一である以上、逆らっても意味がない。
着替えをし、玄関まで行くとジョディは既に待っていた。
哀は靴を少しだけ高いストラップシューズに履き替えた。
「これを使え」
手渡されたカードはブラックカードで呆れたように見上げると、首を傾げられた。
「別にいらないわよ」
「いいから、使え」
ぐいぐいと強い力で持たされ、哀はため息を吐くしかない。こうなったら高いブランドバッグでも買ってやろうかしらなんて思うくらいだ。
「ジョディ、任せたぞ」
「任せて!行きましょ、哀ちゃん」
促すように背中を押され、哀はジョディと出掛けることにした。
あちこちと店舗を周り、使えと言われたカードはバックの奥へとしまい込んだ。お金は持っているのだ。
赤井の様子から、多分客人が来るのであろうと予測していた。それはきっと哀が会っていけない相手なのかもしれない。
あの部屋には一応、赤井秀一と灰原哀、ジョディが暮らしているが、たまにはキャメルやジェイムズもやって来る。彼らとは何度かあっているからわざわざ哀を遠ざける必要はない。
ならば、と考えて、またトクトクトクと鼓動が身体に響く。どこかで、ピキッとヒビが割れるような音がしたのは気のせいでなかったにせよ。
期待と不安に、身がしみるのは何故か。
彼が来るはずはない───。
哀は遠い空を見上げて、眸を閉じた。
「お久しぶりです、赤井さん」
「やぁ、本当に来るとは思ってなかったよ」
出迎えられた玄関で挨拶すると、彼は流石に帽子は被ってはいなかった。
「こっちだ」と促され、リビングに通された。どう考えても広すぎる室内は多分あの探偵事務所の間取りが入りそうなくらいだ。
「コーヒーでいいかね?」
「え、あ、は、はい!」
吃りつつ、答えればフッと笑われてしまった。
座っていてくれ、と言われたので大きいソファーに腰を下ろした。
「あ、あの……灰原、は」
「彼女なら今はジョディと買い物に行っている」
「そう、ですか……」
コツリとテーブルにカップが置かれ、向かい側に赤井が腰を下ろしたのを見ていると、彼女からの点数はようやく及第点を得たよ、と肩を竦めていた。
そんな他愛もないやり取りを二人がしているとはあまり想像がつかないから、なんとも言えない気持ちになる。
「哀がどうかしたのか?」
『哀』──その呼び方に些か違和感を得ながら、新一は顔を上げた。
「……灰原、は……いつ日本に戻るんですか?」
「どうしてかな」
マグカップがテーブルに置かれ、赤井が真っ直ぐ新一を見つめてきた。ドクン、と心臓が鳴るのが分かる。
「……その、博士や探偵団のやつらが、心配してて…」
「お別れは言ってきたと聞いていたが……君には話してなかったのか?」
「お別れって……」
「哀はしばらく、アメリカに、FBIの監視下に置かれているんだ。───本当に聞いてなかったのか?」
コクリと頷けば、フム…と彼は顎に手をやり考えるしぐさをしていた。
「私が勝手に話していい事ではないので、話せないが、彼女は自らこちらに来たいと言ったのは、FBIのラボで研究をしたいとジェイムズに話したのだ。
我々としても彼女の才能は欲しいということもあったが、なにより彼女は自ら………」
「………自ら…?」
「いや、私が話すのはここまでだ。彼女を呼び戻そうか?」
スマホを持ち上げる赤井に新一は「はい」と答えたものの、一体何が起きているのかと頭の中で考える。
そもそも彼女は解毒剤を飲まないと決めたにも関わらず、何故アメリカに来ているのだろうか。
『灰原哀』の姿でいる、と断言したのに────もしかして、とある可能性が頭を過り、頭を振った。
もし、もしも そうだったとしたら…… いや、あくまでも可能性の話だとこめかみを揉んだ。
「すぐそこまで来ていたようだ。直に戻ってくるだろう」
彼はそういうとカップを取るとキッチンへと行ったようだ。
直ぐに戻ってくる。会いたいと思っていた彼女が。
何故だろうか、ドクドクドクと鼓動が早くなる。
だけど、……彼女は自分に会いたいのだろうか、だって、自分は教えてもらわなかったのだ、アメリカ行きのことを。
ずーん、沈む思考に頭を抱えていると話しかけられた。
「時に新一くん」
「は、はい」
「今更だが、君はココに来て良かったのかね?補習は終わったのだとしても」
「補習は終わりました。それと、蘭とは別れました」
そう告げた瞬間、バサリっ!と物が落ちた音がした。慌てて振り返れば、翡翠色の眸を大きく瞠った彼女が立っていた。
とくん、とくんと鼓動が変わるのを感じた。
不安だったのに、何故だろう、嬉しさが勝ったのだった。
END
2017/10/18