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彼女が目を覚ましたのは、頂上戦争から数日経ってからだった。
『────、──────!!』
なにか強い思念に意識が浮上させられた。なんだろう、とこめかみに指を当てながら眼を開けば、木目の天井が見える。
ここはどこだろう?と視線を巡らせれば、腕にある点滴に、どうやら船の医務室のようだ。
「……?」
なんでこんな所いるのだろうと、思った瞬間にフラッシュバックするのは鉄の匂いに硝煙の匂い、何かの焼けたような匂い、土の匂いに、狂気だ。
──はっ、──はっ、
唐突に込み上げでくる何かに、息が苦しい、うまく息が吸えない。
激しい動悸に、眼を瞑るが、瞼の裏に浮かぶのは倒れているエースの姿だ──
「────っ、あ、あ、あああぁぁぁあ!!!」
悲鳴が聞こえたのか、バタバタと激しい足音がするが彼女には何も聞こえない。
バンッ!と扉が壊れる勢いで開くも、彼女は胸を押さえるように声にならない悲鳴と涙を流している。
医師たちは彼女の様子を一目みて、慌てた。錯乱している──目がギョロギョロとあちこちを見ながら、はくはくと息が出来ないのか、身を捩っている。このままでは点滴の針すら自分で抜きかねない。
「マリィ!マリィ、落ち着くんだ!!」
「くそ、暴れるな!」
「いや、いやぁぁああ!!エース、エースっ!!」
船医たちがマリィをベッドに押し付ける。
なまじ弱い訳ではないからか渾身の力で抵抗する彼女に彼らも、どこにこんな力が、と焦ってしまう。
「鎮静剤を!」
自傷しかねない彼女へ、腕を押さえつけて注射を打った。しばらく押さえつけていたが、抵抗が無くなると彼女への拘束を緩めていく。ボロボロと涙を流し「エースぅ…」と呼び続ける彼女に、彼らも戸惑う。
泣かない訳がない、悲しまない筈がない、彼女は最愛の男を目の前で喪ってしまったのだから。
本当はいくらでも心ゆくまで泣かせてやりたい、しかし、精神も身体も危うい。
両手で顔を覆いながら、ひっく、ひっくと苦しそうに嘆く彼女の姿にデュースは見ていられなくなる。
彼女がこんな風に泣く姿など見たことがなかった。エースと海賊団を結成し、迎えに行って、初めて会った時も嬉しさで涙が滲んでいたとしても、そこから一緒に航海していた時も彼女の泣き顔など見たことはない。──エースがいつも隣にいるだけで、マリィは楽しそうに笑っていたのだ。
薬が効いてきたのか、ウトウトとする彼女を横にさせる。この暫くの間に食事もろくにしなかったのか、喉に通らなかったのか…頂上戦争へ向かうまでトラブルがあったにせよ、最後の最後にあぁだったのでは彼女にとってどれだけ身体に負担を掛けるのか。
痩せた身体にも関わらず、下腹部だけは膨らんでいるのはそこに生命があるからだ。──エースの忘れ形見が、アイツの生命がまだ続いているのだ。
瞼を手で覆い、「ゆっくり休め」と睡眠を促す。まだ、眠りで誤魔化すように彼女に静養を促した。
数日間、そんな日々過ごしつつ、船は新世界に戻ってきた。
「マリィは目ェ覚ましたか?」
「お頭……まぁ、そうだが、錯乱してな注射を打ったから今は寝てる」
「……そうか…」
今日もまた彼女は鎮静剤を打たれた。あまり打ちすぎる訳にはいかないのだが、爪で肌を傷つけてしまうのだ。
シャンクスが医務室に顔を出し、眠るマリィの顔を確認する。暴れたせいで髪の毛が乱れて、頬や額にくっついていたのを払ってやれば、涙の跡が目につく。それを親指で拭ってやった。
頬には爪によって傷ついた赤い線がある。それを見ては胸が痛む。
白ひげとエースを葬る場所は、白ひげの故郷ともいうべき土地にした。エースは故郷のコルボ山でも良かったかもしれないが、どうなるか分からない。白ひげと一緒の方がいいだろうと白ひげ海賊団の意見もあった。
死に顔を見たシャンクスたちは、エースの穏やかな顔に、無言になる。
過去を知る者は少ない。恐らく、知っているのは少しだけ話を聞いたことがあるデュースであろう。エースが海賊王の息子だと知っていたのだ。ただ、それでどんな風に生きてきたのか、チラッと聞いただけである。父親である海賊王を越える──名をあげるのが目的だったエース。海賊王の息子、ではなく、エースの父親が海賊王、と言わせたかった。
エースはゴールド・ロジャーを父親だとは認めたくはなかった、自分のオヤジは白ひげだと嬉しそうに受け入れていたのを知っている。
だからこそ赤犬に
穏やかな死に顔であるが、彼女に見せて良いのか戸惑われた。既に棺に納まり、花で満たしているが早く埋葬しなくてはならない。彼女に知らせずにする訳にもいかないのだ。
「お頭?」
「しばらく看てていいか?」
「すぐには起きねぇぞ?」
「ああ、分かっているさ…」
まだ少しだけ流れる涙を拭ってやりながら、シャンクスは彼女が目覚めるのを待つことにした。
シャンクスはロジャーとの事を思い出す。
強敵に出食わしても、逃げようとはしなかったロジャー。シャンクスにとって育ての親であるロジャーは頼もしい反面、時には逃げて欲しかったと思っていた。
「……マリィ、ルフィ、今は泣いていいんだ……」
フーシャ村を拠点とした時、ルフィが果敢に、マリィは村人の陰に隠れていた。
シャンクスには娘がいた。子供は子供同士で遊ばせたくて、ルフィたちに話しかけた。
(あの頃のルフィは海賊は好きではなかったなァ…)
英雄ガープに育てられていたのだから、当たり前と言えばそうなのかもしれないが……ちょっとしたことで意気投合してしまったが。ルフィがマリィの手を引っ張ってきたのはそれからだ。
娘は勿論可愛かったが、マリィも田舎の村の子供にしては可愛らしかったのを覚えてる。当時は十歳、娘より一つ歳上だったが、面倒見が良い子だった。
マキノの手伝いをしつつ、ルフィたちに誘われれば、それはそれは子供らしく遊ぶ子だったな。意外にお転婆だったのを思い出したシャンクスは再会した時は驚いたものだった。
すっかり年頃の女になっていたのだから。まぁ、エースとの距離感を見れば察する事が出来た。彼らが引き上げてから、娘にもそんな相手がいたら、きっと腸が煮えくり返ると思ったりもした。ハハ、と乾いた笑いを出しながら、マリィの髪を梳く。
「……エースが待ってるぞ──」
お前に見送られたいだろう、きっと、アイツは。
暫くの間、彼女は病室のベッドの上で泣き暮らしていたが、鎮静剤を使う頻度も減っていった。落ち着いた、というべきなのか、受け入れることしか出来ない事実に諦めたのか。
常に傍で看ていたデュースは、目を覚ました彼女が、こちらを見て「……デュース、」と名前を呼んだことに、涙が出た。
「マリィ…!」
「……ごめ、んね……わたし…」
「いや、大丈夫か?どこか痛むところはないか?」
すっかり細くなってしまった彼女の手首を掴む。
「…大丈夫……。ねぇ……あれ、から……どうなったの……」
「……あの戦争から二週間経ったぜ……赤髪の旦那のお陰で、白ひげのオヤジさんも、エースも取り戻せた」
「………………そ、ぅ、なの…?」
泣いて腫れていた眦が痛々しいが、彼女はデュースを見つめた。こうして見つめられるのはいつ以来だろうか。
身を起こそうとするマリィに、慌てて背を支えた。
「……ありが、とぅ……」
「……マリィ、」
声を掛けるも何を言えばいいのか、止まってしまった。彼女は自分の両手を見つめながら、何かを考えている。
(……まさか、死ぬ気とかないよな…)
あっても可笑しくはない思考、二人はそれほど寄り添っていたのを知っているから。
「……エースに、」
「え?」
「エースに嫌われちゃう、な…」
「はァ?エースがお前を嫌いになる訳ねぇだろ!!」
大声で反論すれば、彼女はキョトンとした後に困った様に眉を下げて、苦笑いした。
「エースって、泣き虫はキライなんだよ……」
「……」
「こんなに泣いたの、十年ぶりだから……人ってこんなに泣いても、無事なんだね…」
痩せてしまったけど。自分で手首を掴むと軽く一周してしまった指先を見つめた。
「無事つーか……点滴してたからな、」
「……うん…ごめんね、色々迷惑かけて……」
「謝んな……謝ることじゃねぇよ…」
「……ありがと……」
眉を下げて礼を言う彼女に、心底良かったと思った。彼女はまだ生きている、生きていける子だ。
「えー、と……マルコ隊長か、赤髪の旦那を呼んでくるよ」
「それには及ばねぇよぃ」
「マリィ、目が覚めたか」
知らせる為に立ち上がれば、いつの間にいたのか、入口からこちらを伺っていた。
「シャンクス……」
「良かった、心配したぞ」
「……心配かけてごめん…」
まだ痛々しい目元を擦りながら、赤髪の旦那はマリィを見つめた。
「赤髪…」
「あぁ…。マリィ、紹介しよう。白ひげ海賊団一番隊隊長のマルコだ」
シャンクスはマリィにマルコを紹介した。
「……こんな恰好ですみません。マリィ…、モンキー・D・マリィです」
「体調が良くないんだからいいよぃ。マルコだ、よろしくな」
「ありがとうございます……」
頭を下げるその様子に、礼儀正しいなと関心してしまう。本当にエースの恋人なのかと疑ってしまう。
「マリィ、起きて早々申し訳ないが、話がある。今後のことだが……お前はどうしたい?」
「……どう、とは…」
「
フルフルを首を横に振るマリィにシャンクスとマルコは驚いた。
いくらガープであれど、一般人である孫娘であるマリィを処罰はしないだろう。守るに決まっている。
「マリィ、しかしだなァ」
「戻りません!おじいちゃんの所には戻れないです!」
「マリィ…」
「わ、わたし……今、おじいちゃんに会ったら……酷いこと言ってしまうっ!!いや、ダメ、おじいちゃんを嫌いになりたくないっ!!!!」
戻れない。ガープを憎みたくはない。と涙を流すマリィにシャンクスとマルコは顔を合わせる。
この子は優しいのだ。
「……マリィ、どうしたい?」
「……どこか、どこかの島に降ろしてください……この子とひっそりと…」
暮らします。と懇願するマリィにシャンクスとマルコは首を横に振る。
それはダメだ、危なすぎる。
いつ、何時、奴らがマリィの存在に気付くか、この娘が宿す生の血筋に気づいたら──生命はないだろう。
「……ムリだよぃ。赤髪、お前の船にこのまま乗せた方が良い。生まれるまで半年ないとしても世界情勢は不安定だよぃ」
「あぁ……マリィ、しばらくはこの船に乗ってるが良い……気にする必要はない、俺たちは友達だろ」
「……シャンクス…ご、ごめん、なさい……」
でも、ありがとう……と小さく呟く彼女にシャンクスは頭を撫でてやった。
「生まれる時には俺も駆けつけるようにするよぃ」
こう見えても船医だからな、と話すマルコに驚いたが、「エースの子供が生まれるんだ、見てェだろぃ」という彼に、マリィは小さく微笑んだ。
初めて見た微笑みにマルコは少し安堵した。
しばらくすると船員が女性を連れてきた。マリィの身の回りの世話を頼むと、彼らは部屋から出ていった。
女性の手を借り、しばらくぶりに身の汚れを落としたマリィは自分が随分と痩せてしまった事に驚いた。いや、痩せたのに下腹部は膨らんでいる。
(……エース…)
そこに手を這わせるとポコ、ポコと振動がある。蹴られたのだ──生きているのだ。
エースの最期の時にもこの子は主張するようにお腹を通して蹴っていた。
(伝わった、だろうか……)
エースに、この子の存在は知られたのだろうか。逝く者の妨げにならなかっただろうか──。
『俺たちは絶対に "くい" のない様に生きるんだ!!!』
海賊になると決めた以上、覚悟があったはずだ。人は死ぬ。自分は絶対に死なないということは過信であり、傲慢でもある。
だから、だから……?
エースはルフィの為に生きているようなものだった。それが理由になっていたのもある。
じゃあ、私は……理由にはならなかった?
そんなことはない、だって、エースの心が始めは頼まれたからかもしれないが、真っ赤になりながら、気持ちを伝えてくれたあの想いは嘘なんかではないはず。
「……エース、」
もう涙は枯れるくらい泣いたと思っていたが、それでも流れるものだと知った。
「……許してくれなくても、私はこの子を…………」
掌で涙を拭うと、立ち上がる。足に力を入れて、部屋から出たのだった。