弐
翌朝、琳麗は女官の仕事を取る為に貴妃へと室へと足を向けていた。室の前に来ると真っ赤になって走り去っていく香鈴とすれ違った。
(………どうしたのかしら?)
室の扉を開け「紅貴妃様…朝で──」と述べようとして上げた頭の先には主上に抱きしめられている秀麗の姿。
『名前で呼ぶといった……』
『ちょっ…起きなさいって………ね、姉様っ!!」
「……おはよう、秀麗。おめでとう」
必死に起こそうとしている秀麗と目が合い、わたわたと手を伸ばし助けを請う姿をよそに、琳麗はにこやかに笑った。その笑顔に秀麗は真っ青になった。
「…ご、誤解よっ!! 姉様っ!!」
「でも……」
未だに抱きしめられてる秀麗は、キッと主上を見ると怒鳴りちらしたのだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
朝餉の時間、主上がにこにこと満面の笑みを浮かべ秀麗を見ていた。『今上様がついに女人と床を共に!!』という間違った噂は、瞬く間に広がった。
香鈴などは目を潤ませ、いつもより三倍は早く朝餉の準備を調えると、まるでお邪魔してはいけないとばかりに二人きりにして飛んで戻っていった。
給仕の女官さえ気を利かせたのかいない。琳麗と珠翠だけは申し訳なさそうに室の隅にいた。二人は顔を見合わせると、苦笑していた。
目の前では、顔を近づけられて真っ赤になった秀麗が主上に湯呑みを投げ付けていた。しかし、それを難無く受け止めるのを見て琳麗は感心していた。
(……よく受け止められるわよね…まぁそれくらいは出来ない訳ないか)
「危ないではないか」
「わ、私はあなたと違ってああいうのに免疫ないのっ! バカバカもうサイテーっっ!!」
秀麗はへにゃっと机に突っ伏した。
「あ―…父様と静蘭…それに姉様(はもう誤解してるわね…)どんな顔してこの馬鹿な噂聞くかしら…信じちゃったらどーしよ─」
ちらっとこっちを見た秀麗に琳麗は笑うしかなかった。
(…大丈夫よ、むしろ昨夜静蘭は『うたた寝していたから何事もないだろう』と断言していたし、雷の度に静蘭に抱き着きながら寝てる姿を見て何も言わない父様だもの…多分平気だわ)
気がつけば、二人の話の内容は夕べ本当に何もなかったか!という事になっている。
傍らの珠翠を見ると笑っているので、何もなかったのだと琳麗は察した。
「ちゃんと答えて。いい、正直に! き、昨日、何もなかったのよね!?」
じっと秀麗が見つめていると、主上はもくもくと箸を動かしていた。
(主上も甘いわね、秀麗は仕草を読むのが長けているのよ……子供たちを相手にしているんだから)
何もなかったのだと知り、ホッとした秀麗はようやく箸を取った。だが、ホッとしているのが面白くなかったのかむぅっと眉を寄せていたのが見えた。
「なんだ、そなたは余の妾だろう。なんでそんなに嫌がる」
(……だって、仮だからね)
「いい、そーゆーのは、好きな人とやるべきものなの。少なくとも私はそう思っているのっ」
(そうね、秀麗。私もそう思うわ)
秀麗の言葉を聞き、琳麗は心の中でうんうんと頷いた。
だから、街で声掛けてくる人々がよく解らない。知らない相手に突然求婚されても信じられないのだ。──だって、よく知らないのだか…冗談にしか聞こえない。
「好きだけど友達として大切っていうか、子供みたいでかわいいっていうか、ええと、あなたはそんな感じなの!もっとこう、ドキドキして、この人なしじゃ生きていけないみたいな、そんな感じじゃなくちゃダメなの!」
なんだか勢い任せに話す秀麗だったが、琳麗はなんとなくソレが分かった。
多分、自分には秀麗いわくドキドキして、この人なしじゃ生きていけない相手と出会ってないのだろう。
今の所、この人なしじゃ生きていけない。というか生きていなくては悲しい相手は何人かいる。秀麗と父様と静蘭だ。
(……あ、でも昨夜はちょっとドキドキしたわね…)
そんな事を考えているうちに秀麗たちは朝餉を終えていた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
琳麗は、庭院をため息を吐きながら歩いていた。
あの後、霄太師に呼ばれ朝廷三師の室へ行くと「伝言じゃ」と霄太師に言われた言葉に目眩を起こしそうになった。霄太師は、苦笑しながら
「宋の奴も相手がおらんからのう…大変じゃが頑張って下され、琳麗殿」
忙しいからとなんとか逃げていたのだが、さすがに痺れを切らしたようだ。
「まったく、簡単に言うわよね。霄太師も。いくら私が宋太傅の──」
「ようやく来たかっ! 琳麗!!」
いつの間に着いたのか、ブツブツ言ってる間に庭院の奥──宋太傅が待ち構えていた。
「……宋太傅、私は女官として後宮に来たのであって、あなたと手合わせをしに来た訳では…」
はぁ〜とため息を漏らす琳麗に宋太傅は眉を潜めた。
「ったく、お前は。軽くやるだけだ」
女官で上がって来た時は、ある意味びっくりしたのは言うまでもなかった。まさか、主上に嫁をというので選ばれた娘の姉が琳麗だとは思わなかった。
ほんの数年前に出会った少女。街中で破落戸に絡まれていたのをきっかけに出会った。
あの風貌からは思いもつかない事を言い出し、その思いが本気だと知った時は思わず瞑目した。
こんな少女ですら、強くなりたいなどと思わせたあの苛酷な日々。だけど、決して泣かなかったのには感服してしまったのも事実。
だからこそ、我ら付きの女官だと知り「遊べる」と楽しみにしていた。だが、あのバカ弟子のせいでなかなか「遊べなかった」のだ。
「あの──本当にやるんですか?私、こんな恰好なんですが…」
「お前なら汚すなんて事はなかろう」
(…そういう問題じゃない!!)
琳麗は頭を抱えた。何処の世界に女官姿の女がこんな筋肉ムキムキのじいさんと勝負するんですかっ!?誰かに見られたらどうする…
「余計な事を考えずとも、内朝寄りだ! 誰も通るまい」
だからこそ、人目のつかない庭院の奥なのだろう。
琳麗は、仕方ないと思い宋太傅が用意していたと思う短剣を持った。
次の瞬間、琳麗の眼つきが変わった。二人の間に緊張が走り、琳麗は女官服を翻らせ華麗に跳んだ。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「やあ、静蘭、昨夜のこと聞いたかい」
楸瑛の意味ありげな笑みに、静蘭は内心ため息をついた。予想どおりの問いであった。
「……お嬢様と主上のことですか?」
「そう。君はどう思う?」
「どう、と言われましても……十中八九何もなかったと思いますし」
「おや、どうしてそう思う。──ああ、そういえば君、昨夜は宿衛だったね」
「ええ。夫婦の溝を埋めにいくとおっしゃって出て行かれました」
「……静蘭、夫婦の溝を埋めるといったら一つしかないじゃないか」
「名前で呼んでもらうことが藍将軍の女性との溝を埋める方法だったとは、意外です」
沈黙した楸瑛に、静蘭は苦笑を漏らした。
「それに、主上はその前に室でうたた寝をなさってましたから、多分、お話の途中か何かでお眠りになってしまったんだと思いますよ」
「余裕だね。からかいがいがなくてつまらないな。……ははあ」
首に腕をまわしてきた楸瑛に、静蘭はぎょっと身をひいた。
「な、なんですか」
「そこまでの自信があるってことは、なにか根拠でもあるのかな? 君と秀麗殿の間で」
「何を言ってるんですか。ありませんよそんなの」
逃げようとする静蘭を、しかし楸瑛はつかまえて放さない。
「考えてみれば実においしい状況だ。邵可様と君と琳麗殿と秀麗殿の四人暮らし。宝物の番人が邵可様なら隙だらけだろうし、君も二十を越えた立派な男。さあ、白状したまえ! どちらかと何かあるんじゃないのかい?」
「な、何もありませんてば!」
二人がすったもんだ格闘していると、不意にどこからか鋭い剣音が聞こえた。二人は人並み外れた剣の腕を持っていたため、その音にピタリと動きを止めた。
「……この音」
「ああ、ずいぶんと凄い打ち合いのようだね。……だけど稽古場でなくなんでこんなところで?」
ほとんど内朝寄りのこの場所ではありえない。二人は顔を見合わせると庭院の奥に分け入ってみた。ひょっこり首を覗かせると、そこには有り得ない風景が繰り出されていた。
剣舞のような見事な動きで、裾を翻し攻める琳麗とそれを受け止める宋太傅の姿があったのだ。
「「宋太傅!! 琳麗(様/殿)っ!?」」
思わず二人揃って声を上げてしまった。その声が聞こえたのだろう、二人はパッと後ろに飛びすさったのだった。
「静蘭っ! 藍将軍っ!?」
琳麗は、驚きのあまり瞳を点にしていたが、この場合二人の方が驚きの度合いが高かった。宋太傅は、邪魔されたのを舌打ちしながら振り返った。