あれから数日後――。
春姫は香鈴と琳麗と共に、州牧邸の掃除を手伝ったり、家事などの花嫁修行に励んでいた。
手先が器用なのか、教えた杏仁豆腐や胡麻団子も作れるようになり、他の菜も覚えていった。


「うん、この味付けでバッチリよ。香鈴も春姫さんもとても上手だわ」

「ありがとうございます、琳麗様」

「春姫さんもさすが翔琳くんたちと暮らしていただけに、なんでも出来るのね」

「そんなことありませんわ。まだまだでございます」


そんなことしなくても、克洵は春姫に惚れているのだから……ちょっと克洵に覚悟というか、勇気が足りないだけで。きっと自信がないのだろう。


「大丈夫ですよ。春姫さんたちは誰がどう見たって相思相愛だもの。ね、香鈴」

「はい、そうでございますわ!」

「……では、なぜ克洵様は…」


たわわに睫毛を揺らす春姫に琳麗は苦笑する。


「えーっと……きっと恥ずかしいのではないかしら?」


ね、と香鈴を向けば「はい」と愛らしい声で答えたのだった。



   ◇◇◇◇◇◇◇◇◇



そんな風に数日が過ぎ、毎日克洵さんが春姫さんを心配して、茶州府に仕事を持ちながら登城していると聞く。
その話を聞きながら、今夜は静蘭が軍関係で帰れないというのを聞いた。そのことを話す影月が微笑していたことに、琳麗は何かを察し、微笑したのだった。


夜、うなされる秀麗の頭を撫でながら琳麗は目を細めた。きゅっと口唇を噛む。

(……私では、何もしてあげられない…)

暗闇の中でほのかな行灯が揺れる。何もしなかった――と責める秀麗に涙が出そうになる。
秀麗のせいではない、とは言えない。
秀麗だけが彼を、茶 朔洵を止めることが出来たのだから。
誰一人として出来なかった事が彼女には出来た。だからこそ被害は最小限で食い止められたのだ。他の誰でもない、秀麗だけが。

琳麗がそっと頭を撫でていると、気配を感じ、扉を開いた。そこには薬湯をもった影月を始め、心配そうにしている香鈴、春姫、燕青の姿があった。


無言の問い掛けに琳麗はなんとも言えず、首を振った。影月は中に入り、その手には薬湯があった。
琳麗が秀麗の手を握りしめる。


「秀麗」

「――秀麗さん。……夢です。ただの夢ですよ。横を向いて……ゆっくり息を吸って……そう、吐いて」


琳麗が頭を撫でながら、影月の言葉の通りにする秀麗がいる。横を向いたせいで、頬に零れた涙を拭った。
影月は薬湯を秀麗の口唇にあてた。


「今日は寒いですから、これを飲んで下さい」


秀麗は反射的にそれを飲み込んだ。そして、ボソリと呟く。


「……え? いいえ、秀麗さんの手は綺麗ですよ。安心して、ぐっすり眠って下さい。大丈夫、もう怖い夢は見ませんから。
 実はこれは僕が死にかけたとき、冥途の途中で桃仙人からもらった秘薬なんです。効き目はばっちりです」


桃仙人、という言葉に琳麗も、そして眠っている秀麗も思わず笑ってしまった。
琳麗は頭を撫でると、影月は赤子をあやすように言った。


「……明日起きれば、何もかも忘れてますよ」


頭を優しく撫でる感触と、心から慈しむ声に、安堵したのか、秀麗は夢うつつのまま再び目を閉じた。

秀麗の傍で、黒い鞠のようなものが一つ二つほど、コロコロと転がり、琳麗の膝に乗った。


「……あなたたちも、心配してくれてるのね」


そう口にする琳麗を見ながら、影月は言った。


「起きないように、見張っててくださいね」


山で暮らしていた影月にとって、妖の類はさして珍しくない。『見える』ほうだったので、なおさらだった。
無害かどうかは、何となく勘でわかるし、ほとんど間違ったことはない。しかも琳麗の膝にいるのだ。

二人は、秀麗が完全に眠りに落ちるのを待ち、そっと掛布をかけ直した。琳麗の膝にいたのはそのまま秀麗の傍にいる。
琳麗はもう一度、秀麗の額を撫でて、小さな頃よくしていたように軽く口吻けをした。


「……よろしくね」


そう話すと黒い鞠みたいのは返事をするかのように小さく跳ねたのだった。
先に出た影月を追って、静かに臥室から出ると、外にいた三人は心配そうにしていた。そのうち一人、青ざめる春姫の頭を、燕青が宥めるように叩いた。
その様子に苦笑し、琳麗は春姫の手を握って首を振った。

身内とはいえ、朔洵のことは春姫の咎ではない。

春姫は顔を上げ、そしてまた俯いた。


「……姫さん、落ち着いたか?」

「ええ、影月くんのおかげで。ありがとう」

「いいえ……いつものように、明日には何の夢を見たかも忘れてるはずです。素知らぬふりをしてください」

「……香鈴、春姫さん、あと何枚か、秀麗に毛布持って来てくれるかしら?」


二人は頷くと、すぐに踵を返した。


「くそったれ」


燕青は呟くと、扉のそばにずるずると座り込んだ。影月も隣に寄りかかりながら、空の碗に目を落とす。――もう何度、こうして夜を過ごしただろう。


琳麗は眼を伏せた。
夢の中で、何度も何度も、秀麗は朔洵を殺す。朝には見た夢を忘れても、夜の苦しみと悲しみが薄れることはない。
心は確実にすりきれ、夢の記憶は残り香のように沈殿する。
琳麗は、知っていて何も言えなかった。気休めにしかならないそれは、きっと余計に秀麗を傷つける。
ふぅ、とため息を吐く。


「……最低ですね」


呟かれた影月の厳しい声音に、燕青は驚いた。


「……もしかして、めちゃくちゃ怒ってる?」

「そうですね。僕、秀麗さんのこと、大好きですから。こんなに怒ったのは人生で生まれて初めてです。
 栄えある初体験の栄光を朔洵さんに捧げちゃおうじゃないですか……あの人は、秀麗さんを利用したんですよ。
 秀麗さんの優しい心を、気遣いを、よりにもよって自分の自殺に、利用したんです」


そう朔洵は秀麗に選択の余地も与えなかった。
秀麗の為に、と行った結果は秀麗を傷つけ、泣かせた。許せなかった、だからこそ琳麗は朔洵を命をかけてまで助けた。
だが、言える訳がない。そして、秀麗はこの迷路の中を、自分で出口を見つけない限り、彷徨いつづける。
本当は出口を教えてやってもいい、それでも秀麗が見つけなければ乗り越えられない。

今の自分たちに出来ることといったら、こうしてほんの少し安らぎをあげることだけだ。
燕青は眼を閉じた。辛い、うなされ、泣く秀麗を見るのは辛かった。それを知らない秀麗が午間何気なく振る舞っているから、なおさら。
おそらく、夢の記憶を秀麗はもっている。毎回都合よく夢を忘れるわけがない、と皆が気付いていたが、何も言えなかった。


「ここまで秀麗さんを苦しめておいて、万一朔洵さんがノコノコ化けて出たら、僕、おとといきやがれってお説教しちゃうかもしれません」

「言ってやってくれ。ついでに無駄毛生やして人生出直してこいってよ。俺と静蘭だと、口の前に手が出て全然話し合いになんねー気がする。問答無用で棺桶に殴りこみそう」

「そうね、お説教、してあげてね。影月くん」


そう話すと琳麗はそっと扉を開ける。見れば毛布を持って駆けてくる春姫と香鈴がいた。
香鈴を見つめていた、影月はぽつんと呟いた。


「……僕だったら、好きな人を幸せにするために、生きようと、思うのにな……」


それを聞き、琳麗は淋しそうな顔をした。




   ◇◇◇◇◇◇◇◇◇



琳麗は庭院に出て、細くなっていく月を眺めていた。


「……好きな、人…」


特別な人、唯一の人、その為に生きることも死ぬことも人は出来る。


「――私も、いつか…」


そんな風に想うのだろうか、誰かの為に生きることを捨てるのを厭わないのだろうか……。

『……僕だったら、好きな人を幸せにするために、生きようと、思うのにな……』

そう呟く少年がいるのに、そう、私も生きる方がいい。一緒に生きていきたい。
そう想いながら、胸の奥にとある面影が浮かび、琳麗は首を振った。


「…………」


ぼそりと名を呟き、天を仰ぐ。
細い月が闇を連れてくるのを肌で感じる。


 早く、早く

 私のもとへ

 迎えに行くよ

 愛しい私の――


「……っ私は…あなたのものではない」


胸の内にとある人が住みついた以上、知らない彼の人を受け入れられず、今宵初めて琳麗は拒絶をした。

さわっと冷たい風が頬を撫でていく。細い月の光りがただただ琳麗を照らしていた。


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蒼天の華 / 恋する蝶のように