春姫の意志が奪われてから翌日、香鈴と克洵とで春姫の様子を見ながら過ごしていた。
自分から何かをしようとはしない春姫に、琳麗は彼女が刺繍をしていた手巾を手渡してみた。
すると、何も言わずに針を持ち縫い始めたのだった。


「……記憶の底では忘れていないようなのね」


それは克洵へと渡そうとしていた手巾。民間で伝わる秋祭りの風習を聞いてから、春姫は合間を見つけて刺繍に勤しんでいたのだ。
やはりきっかけは克洵に掛かっているのだろう、と琳麗は思う。
記憶を、意志を奪われたのを克洵が取り戻さなければならないのだろう。
そう思案していると、ドンドンと門が叩かれた。
琳麗と香鈴が門前へと行くと、商人がいた。


「あ、の…これは?」

「柴彰殿からのお届け物でございます」

「……はぁ…」


商人はそう言うと邸内へと物品を置き、帰っていった。
流石は商人というべく、あっという間に荷物を置き、風のように去っていった。
室内に置かれた物品を手に取り、見ていく。

・忘れ茸各種解毒剤(山好きだけどうっかりさんには必需品)
・健忘症回復ツボ本(ちょっとヤバイかな? と思った時にはこの一冊!)
・記憶回復安眠枕(素敵な記憶とともにあなたを心地よい眠りに誘います)
・眠ってる記憶引き出し升(これで水を飲むとへそくりの隠し場所を思いだし升)
などなど…。

琳麗はこめかみを押さえた。
どう考えても違う……と思いながらも、藁にも縋る気持ちの克洵は試しましょう!と張り切った。
そして案の定、効かなかったのは言うまでもないことだった。


「……記憶、か」

「どうかなさいました? 琳麗様」

「いいえ、なんでもないわ」


呟いたことに香鈴が可愛いらしく小首を傾げていた。
琳麗は、にこりと微笑すると首を振り、沢山ある荷物を少し片付けるといつものように室の掃除に取り掛かった。





   ◇◇◇◇◇◇◇◇◇



二日目。
克洵から夕飯を作る際に手渡された紙を見て、琳麗、秀麗、香鈴は微妙な顔をした。
『これでボケも一発回復! 驚異の麻婆』の作り方であるが……ボケではないだろう、と思う。


「……だ、駄目元で作ってみましょうか…」

「そっ、そうですわね! も、もしかしたらって事がありますし」

「……そうね…」


もしかしたらと、万が一にとの思いで「超激辛麻婆豆腐」を作るも……ぐつぐつと煮えたぎる真紅の湯気が恐ろしくて、三人とも味見が出来なかった。
案の定、皆が声にならぬ絶叫を出した。ただ二人、春姫はごく普通に黙々と、克洵はボロボロ泣きながら食べている。
その二人以外の全員が一つの水差しを巡って血眼の争いを繰り広げた。


「姫さんっ! この超激辛麻婆豆腐は何っ!?」


燕青が訊くと、秀麗ががふがふ水をあおっていた。その隣で琳麗もがふがふ水を飲んでいる。


「う……あの、克洵さんから、『これでボケも一発回復! 驚異の麻婆』の作り方を渡されて、そ、それを……ね、姉様」

「う、うん……うふふふ…」


ボケ関係ないから! とやはり誰もが思ったが、何も言えなかった。
そして自分たちだけ普通のご飯を食べるのも忍びず、結局その夜は水を片手に全員死ぬ気で一皿平らげたのだった。
これほどの刺激にも関わらず、やはり春姫は人形のままだった。
そして、食べ終わった後、影月が薬を調合してくれたのだった。


「あり、がとう……影月くん」


薬湯を飲めば、いつもは苦いと思うものの今はその苦さも感じなかった。むしろ口のなかの感覚がないに等しいのだ。


「いえ、気にしないで下さい」

「ふぅ……あら、静蘭たちは?」

「あー、静蘭さんたちは熱いからとお薬を飲んだら外へ行かれましたよ」

「そうなんだ」


最後は皆、汗だくになっていたから、涼しみに行ったのだな、と思いながら水を汲もうと思ったら、甕に水がなかった。


「あら、水がないのね。汲みに行ってくるわ。ありがとう、影月くん」


琳麗はそう言うと甕を一つ持ち、外へと出た。外はやはり涼しく、火照る身体には気持ちがよかった。
よいしょ、と甕を持ち直すと井戸へ向かうと声を掛けられた。


「琳麗様」

「琳麗姫さん、どうしたー?」

「静蘭、燕青さん」


二人が近寄って来たので、琳麗も彼らに近付いた。


「どうなさいました?」

「甕の水が無くなっていたから、汲みに行こうと思って……流石に外は涼しいわね…」


サラリと、夜風が髪を靡かせる。



「言って下さいましたら、私たちがやりますのに」

「いいわ。外に出たかったし、これだけだから」

「井戸の辺りは暗いですし、お手伝いいたします。おい、燕青お前は桶を担いでこい」

「はぃ? なんで俺だけ桶なんだよ!?」

「誰のせいで、琳麗様が邸内を掃除していると思っているんだ」

「うっ……俺のせい、です」

「力仕事くらいしろ、コメツキバッタ」

「へいへい」


二人のやり取りを見て、琳麗はクスッと笑った。口でなんだかんだ言っても二人は仲が良いと分かるとなぜだか嬉しいと思う。


「ありがとう、静蘭、燕青さん」


にっこり笑って礼を述べた。



   ◇◇◇◇◇◇◇◇◇



井戸へ来ると水辺だからだろうか、空気がやや冷えている。
新しい水を汲み、杓子で水を掬い飲むと冷えていておいしい。


「はあ〜、冷たくて美味し…」

「あの麻婆がすごかったからな〜」

「あはは、そうねぇ…。味見も怖くて出来なかったのよ……」

「でもなー、やっぱ、春姫の記憶戻らねえなぁ」

「そもそも麻婆豆腐では無理だろうな…」


静蘭も燕青も水を飲みながら、先程の事を思い出す。
水を汲みに行く途中で、克洵が庭院の松の木に人生相談をしていた。

『松の木さん、何か一発で解決できるすごい方法を教えて下さい』

真剣かつ、ややイった風に松の木に話していたのだ。


「……でも、彼がやらなくてはならないのよ」


琳麗はボソリと呟く。それを聞き静蘭と燕青は顔を見合わせた。


「彼の想いが春姫さんの記憶を取り戻せるのだと思うの……」


月明かりが彼女に降り注ぐ。その姿はまるで、この世の者ではないように眩しく、美しかった。


「それに英姫様がなんとかしなさいと言っているのだから」


方法があるはずなのよ。と続けた。


「そうですね。克洵殿に頑張って頂くしかありませんね」


そう言いながらも、三人は先程の彼の姿を思い浮かべながら、小さく息を吐いたのだった。


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蒼天の華 / 恋する蝶のように