質
三日目――。
室の様子を伺いながら、琳麗は影月、香鈴と廊下にいた。
本日は影月が邸に残っていたのだった。
室内では黙々と刺繍を続ける春姫と傍で克洵がそれを見ていた。
たくさん話をし、互いに綴ったという書翰を見せても、春姫の記憶はまだ戻らなかった。
それでも、克洵は春姫の傍にずっといた。だが春姫は首を傾げるだった。
彼女の名を呼ぶ克洵の声が呪文のように聞こえる。
「……琳麗様…」
切なげに香鈴が見てくるので、琳麗は肩にそっと手を置いた。
見ているだけで、何も出来ず、哀しくなってくる。影月も哀しそうに扉の向こうを見ていた。
「克洵さん?……大丈夫ですか?」
室に入り、訊くと克洵はしっかりと頷いた。
「あの、ちょっと、出掛けて来ます。春姫を頼んで、いいかな?」
春姫を見て言う克洵に、少し心配しながらも、琳麗たちは何かを言いかけて――そして、彼の顔を見て小さく微笑んだ。
「お気をつけて……」
克洵は椅子から立ち上がると、するりと春姫の頬を撫で、室から出て行ったのだった。
その後は代わり代わりで、誰か一人は春姫の傍にいた。
克洵が午過ぎに出掛けてから、数刻。掃除も終わり、夕飯の下拵えも済んでいた。
庖厨にいた琳麗はぞわりっと鳥肌が立つのを感じると、急いで廊下へ出た。
そこにはふらふらと歩く春姫の姿があり、外へ出ようとしていた。
「春姫さんっ!?」
追い掛けようとして、思い出したように彼女がいた室へと行くと、床に香鈴と柴凜が倒れていた。
「影月くん!?」
「琳麗さん、春姫さんが急に立ち上がって……近づく時は『声』に気をつけて下さいっ!」
「分かったわ、二人をお願いねっ!」
二人を影月に任せて、外へ出ると違和感を感じた。肌が粟立つのを感じながらも、琳麗が春姫を追い掛けると、そこには春姫を抱きしめる克洵の姿があった。
そして、夕闇のなか彼らの背後に男が立っていた。男の白い手が克洵を超え、春姫に伸びたその時――。
「来やがったわねっ! こんのヘボ占い師――っ!!」
怒り狂った猪の如く、秀麗が猛然と門から突進してきた。
「待ちなさい、こんの不審人物――!」
「秀麗っ!」
近寄らせてはならない!と琳麗の中で警鐘が鳴るも、当の秀麗があの男に近寄っていくのだ。
男は驚いたように秀麗を振り返り、次いでふわりと踵を返した。
そのまま逃げるように門を出た男を、秀麗が追い掛けていくのを見て琳麗も走った。
寂れた小路の所へ行くと、秀麗のすぐ近くに男がいた。
逆らう事をしない上に、抱き抱えられようとした時
「秀麗っ!!」
琳麗が名前を呼んだと同時に、鈍い音がして、秀麗の身体が宙に放り出されていた。
次いで、ドシン!と地面に打ち付けたらしい。
「秀麗っ! 大丈夫っ!?」
「ね、姉様?――っこ、今度は何――影月君!?」
「え?」
秀麗がお尻をさすりながら身体を起こすと、いつ来たのか、影月が秀麗と琳麗を庇うように立っていた。
その向こうでは、影月の蹴りを寸前でかわした男が僅かにたたらを踏んでいた。はずみで、頭巾が外れた。
「――失せろ。縹家のクソガキが」
吐き捨てるような口調も芯まで凍り付くような声も、影月ではなかった。――陽月、だ。
琳麗は男の顔を見た。
ゆるく編んだ髪は、純白の雪に黄金をひとしずくだけ垂らしたような輝く銀髪。漆黒の双眸は新月の闇を切り取ったように深い。そして、その肌はいっそ青白く見えるほどに白い。
漆黒の眼は隠された秀麗を見た後、琳麗へと向けられた。
沈黙は、数拍。
男は、今度は陽月をまじまじと見つめ、驚いたように小さく息を吐いた。
「まさか、こんなところに……いや、しかし、おかしくはない……」
ちらり、と黒い眼は琳麗へと注ぐ。陽月の猫のような眼が、冷酷にきらめく。
「消えろ。ぶち殺されたいか」
「……いいえ。これでは少々分が悪い。出直してくるとしましょう」
男は口唇の端で笑い答えると、琳麗をそして最後に秀麗を一瞥すると、音もなく夕闇に消えていった。
(……あれは…)
ドクドクと胸が鳴るのが止まなかった。
『見つかってはならぬ』
そう何度も言い聞かせてくれていた母様の声が頭を過ぎったが、もう遅い、と琳麗は感じた。
そう――見つかってしまったのだ。
そして、それは秀麗もだとなんとなく琳麗は感じた。
「――おい」
陽月は自らに舌打ちしながら、乱暴に秀麗の腕をひいた。
そして琳麗を見つめたのち、言い放った。
「あの女を元に戻してやる」
「できるの!?」
違和感を秀麗も感じていたようだが、その一言で疑問が吹っ飛んだようだった。
だが、お酒の匂いがしないのに……それに何故?
「してやる。つくづく運がいいな。俺はこの世で二番目に奴らが嫌いなんだ」
『――失せろ。縹家のクソガキが』
やはり、あれは縹家。異能を操る神祗の血族。
「……あの人、知ってるの?」
秀麗が訊くと、陽月が振り返った。近くて遠い、湖面の月を見つめるような眼差しで。
それは、影月とは違う、深すぎる双眸。
彼はじっと、琳麗を見つめたのち
「――これ以上くだらんおしゃべりをして時間を潰すつもりか?」
彼は答えず、さっさと背を向けた。琳麗はさっきの視線の意味を考え、気付かれないようにため息をついた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
言葉通り、影月――いや陽月が春姫を元に戻した後、喜ぶ皆の間を縫って琳麗の元へ来た。
「お前、気をつけろよ」
「……」
「早めに貴陽へ戻れ」
「……陽月、くん…?」
真摯な眼差しに圧倒してしまう。
「忠告はしたぞ」
そう言うと、眼を閉じ、次の瞬間には彼は影月へと戻っていた。
「……あれー? 琳麗さん?」
「……影月くん」
「僕、何かしましたか?」
戸惑いながら、話す影月に琳麗は瞑目したのち微笑し、春姫が元に戻ったことを告げた。
「陽月くんが戻してくれたの」
「陽月が……そうなんですか」
「そう、ありがとうと伝えてね…――それと『分かった』って」
影月は何か考えた後、いつものように笑いながら「分かりました」と告げ、秀麗たちの方へと行った。
琳麗はそれを見送り、息を吐いたのだった。