壱
秀麗が1人で全商連へ赴き、説得をしている間、琳麗はただただ見ていることしか出来ずにいた。
府庫へと赴き、父・邵可と事態を思うも何もすることがない。
緊急朝議が招集され、霄太師、宋太傅も朝議に出ている今、琳麗はただただ成り行きを見守るしかないのだ。
「秀麗なら大丈夫だよ」
「それは、分かっているのですが……」
「気になることがありまして…」
「なんだい」
「……私も秀麗たちと一緒に茶州へ行ってもよろしいでしょうか」
それに邵可は茶碗を持つ手を下ろした。
「琳麗」
「分かっています。私が行っても役に立たないことなど……しかし、呼ばれている気がします」
「――だったら尚更行かせる訳にはいかないよ」
すぅっと邵可の細い眼が開かれる。が、琳麗はそれに臆することはなかった。
ギュッと胸に手を当て、落ち着かない騒めくを感じたまま、深く息を吸った。
「いいえ、父様。行かねば、行かなければならないのです。行って確かめなければ、」
日毎強くなる、私を喚ぶ声を。
身体が引き寄せられるかのように、行かねばと強く思う。
何も言わず見つめてくる邵可に琳麗は、苦笑を携え口を開いた。
「葉医師からも手伝いを請われていますし」
「葉医師が? 手伝いって、まさか…」
「いえ、私は人体切開は致しません。その後の処置を頼まれました」
邵可は何かを言おうとしたが、何を言っても無駄なような気がしてきた。
「……気をつけるんだよ…」
邵可はその言葉しか言えずにいた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
朝議で一悶着がありながらも(王が軍を派遣するなど)、この三日間、皆が奔走し、交渉などをしていた。
琳麗が一緒に茶州に行くことに秀麗を始めとして、誰もが止めようとしたが、結局葉医師の助手として行くのだ。と言われ、秀麗も静蘭も渋々承諾した。
その中で、琳麗は宋太傅に話を持ち掛けたのは茶州――虎林郡までの移動手段だった。
「宋太傅、羽林軍の皆様は馬術鍛錬はどのように?」
琳麗はにっこりと見た人を魅了させる程の笑みを浮かべていた。
彼女の言いたい事が分かった宋太傅は豪快に笑い、琳麗を連れ、羽林軍へと向かった。
宋太傅に連れられ、琳麗はもう一度大将軍二人に同じ事を言うと、二人は「いい機会だ」とニヤリと笑った。
「秀麗、悠舜さん。虎林郡までの移動手段だけど――羽林軍の皆様が、重石付きで寒中馬術鍛錬をするそうよ、茶州の境まで」
「「…………」」
笑みを浮かべてそう話す琳麗に、秀麗も悠舜も一瞬呆気に取られたが、直ぐに「ありがとう!」と声を掛けられた。
その後、羽林軍の兵士たちがあんな綺麗な顔をしてとんでもない事を言った琳麗に「流石宋太傅を始めとして、大将軍のお気に入り。言うことがありえない」と感慨深く思ったらしい。
その後も茶家当主である克洵も全商連との交渉などし、陶老師をはじめとする医師たちも連日切開勉強をしている。
薬や馬の手配など、皆準備に追われた。
――三日後。
邵可は、府庫にふらふらとやってきた秀麗に気づくと、すぐに手を引いて椅子を座らせた。
「……終、わったわ父様……準備、完了……」
パタリと卓子に突っ伏した秀麗に、さすがの邵可も今回ばかりは笑えなかった。
「……出立は明日の朝かい?」
「うん……」
それきり黙ってしまった秀麗は、小さな嗚咽をあげていた。邵可が頭を撫でてやると、しがみついて泣いた。
邵可は秀麗を抱きしめて、子供のようにその背をゆっくりと撫でた。
「邪仙教の言う通り、病気が私の、わ、わ…たしのせいだったらど、うしよう」
「そんなことは絶対ない」
「ひ、一人にしちゃったら、ごめ…んね、父様……姉様まで…連れて…行ってしまうし…」
「大丈夫、君も琳麗も無事に帰ってくるよ」
「いつも、私、父様に、心配ばっ…かり…」
「してるよ。秀麗の事も、琳麗の事も、静蘭の事もいつでも心配してる。だから帰っておいで。私だけじゃないよ、沢山の人が君を心配している、帰っておいで」
府庫の周りで、そっと窺うようないくつもの気配がする。
一番近くの書棚にいるのは琳麗と静蘭だ。
「行くなと言って行かないでくれるなら、いくらでも言うんだけれどね」
「だめ、もう啖呵きっちゃったもん。私が行かなきゃ…。それに……」
小さなしゃっくりを繰り返しながら、秀麗は口を開く。
「燕青と……影月くんが頑張ってるの。待ってる人がいるの。行かなきゃ」
「こういうときくらい『行きたくない』って言っていいんだよ」
「だめ……それだけは絶対言えない……」
邵可はため息をついた。この頑固さは妻譲りとしか思えない。もう一人の娘もだが。
「……秀麗、一つだけ約束してくれるかい。一人でなんでもしようとしないこと。怒ることも泣くことも、誰かの傍でするんだよ。
そうしたらきっと、燕青くんが君を助けてくれる。静蘭だと二人して深刻になりそうだけど、彼ならどんなときも笑ってくれるだろう。
それはとても難しくて、とても大事なことだよ」
「うん、知ってる……」
何もかも笑い飛ばせる燕青のような強さがあったら、今こうして、情けないくらい不安になったり自己嫌悪に陥ったり、弱音を吐いてぼたぼた泣いたりしないのに。
沢山の人が、虎林郡で亡くなった。もし本当に――。
「――秀麗のせいじゃないわ」
「そうだよ、君のせいじゃないよ」
優しい声音が耳に届く。それと共に暖かい手が頭に触れる。優しい手つきに秀麗の意識は白い闇に沈んでいく。
「……ごめんね、父様、姉様、静蘭……」
最後に無意識のままそうこぼして。
心身ともに疲労の極致にありつづけ、いまようやく安心して赤子のように泣きながら眠った姿を琳麗はしゅるりと髪紐を解いた。
頬を濡らす涙の跡を拭い、その痛々しさに琳麗は眉を歪めた。
「旦那様……」
「ああ、ありがとう、静蘭」
静蘭から毛布を受け取った邵可は、器用に秀麗をくるみ込む。
「……今回は、君もつらいね、静蘭」
「いえ……。お嬢様の打たれた手が、確かに最善ですから。燕青なら、任せられます。悔しいですが」
「おや、君だと深刻になるっていったのを気にしてるかい?」
「……別に……」
少し横を向いた静蘭を見て、琳麗も邵可もフッと口が緩む。
「それもまた君の良さだよ。もし私が拾ったのが燕青くんで、うちの家人になってたら、多分今頃とっくに邸も何もかも売り払って、みんなで山で生活してたんじゃないかなぁ、ねぇ琳麗」
「そうね、燕青さんなら山でも私たちを養ってくれそう……ふふ」
容易に想像出来たのか、静蘭も思わず吹き出した。
「でしょうね。燕青なら猪でも熊でも生け捕って丸焼きにして塩をふってくれますよ、きっと」
「でもずっと一緒にいてくれたのは静蘭よ」
「そう、ずっと一緒にいて、私たち親子を支えてくれたのは君だよ」
邵可は静蘭の手を取り、にっこりと微笑んだ。
「私も琳麗も秀麗も、君を愛してるよ。他の誰とも替えのきかない、大切な家族だ。他ならぬ君が、秀麗を『任せられる』とはっきり言うのは、きっと燕青くんだけだろうね。だからこそ、私も安心出来るんだよ。君の心にすんなり入れる、稀有な方だしね」
つないだ手が温かくて、静蘭は素直に頷いた。その上にそっと琳麗の手が重なる。
燕青本人には死んでも言わないが、とっくに認めている。多分、後にも先にも、この自分よりいつだって一段上にいるむかつく男――。
「……燕青より強い男は、彼の師匠くらいしか知りません。大丈夫です、旦那様」
「君は、大丈夫かい?」
自分を心配してくれるその言葉が、その眼差しが、静蘭には何より嬉しい。
「はい。秀麗お嬢様を燕青に任せたままにはしませんよ。でも武官としてやるべきことをやらないと、お嬢様に顔向け出来ませんから。それより、私としては琳麗様が心配ですが……」
ジッと見つめると琳麗が微笑した。
「私は大丈夫よ、静蘭」
「しかし……」
「大丈夫。危ないことはしないから」
琳麗は茶州に一緒に行くのは葉医師の助手としてだが、日増しに強くなる琳麗を喚ぶ声の主については静蘭には言っていない。
これ以上心配事を増やしたくないからだ。
琳麗は眠る秀麗の頭を優しく撫でている。
三人は眠る秀麗を見つめる。
必死で『官吏』という現実と向き合い、すべての準備が完了する今日まで、決して泣かなかった。
陰で何を言われても、真正面から罵倒されても。
泣いてる暇など、ない。刻々と喪われていく命を思えば、自分のことなどでかかずらっている猶予などない。
「静蘭、秀麗は一人でも頑張れるけど、一人で生きていけるわけじゃない。琳麗も、君も、他の誰だってね。……私は、茶州には行ってやれない」
邵可を見て、琳麗も同じ人を思う。この三日、彼もまた、必死で精神の安定をとろうと葛藤していた。
琳麗もいなくなって、尚且つ邵可まで消えてしまうわけにはいかない。
「そばにいてあげることができなくても、できることはある。頼んだよ」
今の静蘭には、その意味がわかっていた。
「はい、必ず」
家人としてではなく、武官として秀麗を助けることが、静蘭には出来る。
はっきりとした答えに、邵可は微笑んだ。そして、秀麗を抱き上げると
「私は秀麗を仮眠室へ連れて行くよ。二人も休みなさい」
「旦那様、私が――」
「いいから、琳麗と積もる話もあるだろう。――そうそう、今回の事が済んだら君たちのことも色々報告してくれると嬉しいな」
「っ、父様!」「旦那様っ!?」
二人は顔を真っ赤にさせ声をあげるが、シーッと邵可が口元に指を添えた。
「琳麗、私は君が選んだ相手なら誰だろうと祝福するよ。静蘭も遠慮はいらないからね。ふふ」
そう言って仮眠室へと行ってしまった邵可を見送るしかなかった。
「……琳麗様、外に出ましょうか」
「そ、そうね…」
差し出された手に手を乗せ、二人は府庫を後にしたのだった。