弐
府庫を後にして、庭院へと降りるとそこは静寂の闇だった。
しかし、繋がれた手を眺め、琳麗は微笑する。
「寒くないですか?」
「……少しだけ。でも大丈夫よ、だって、」
静蘭が一緒にいるし。と琳麗が呟けば、途端静蘭が立ち止まる。
どうしたのかと見上げれば、照れているのか、ほんのりと頬が赤い気がするが夜のせいで見えない。
「風邪を引いたらいけませんので、戻りましょう」
肌を刺すような冷気に晒された頬を撫でれば、ひやりとして静蘭は琳麗の手を繋いだまま回廊へと上がる。
と、ついっと琳麗の身体が止まったのに振り向けば、彼女は何処かを眺めていた。
「琳麗様……?」
「…………」
「琳麗?」
「…………」
「琳麗っ!」
「……っ、静蘭…」
「どうかなさいましたか?」
顔を覗き込んで聞いてくる静蘭に琳麗は苦笑したのだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
静蘭と庭院に降りたものの、寒さで室内へと向かおうとした時、"それ"は聞こえてきた。
早く、早く、もうすぐ
君に 逢えるのだね
楽しみにしているよ
待っているよ
君が 来るのを
愛しい――我が姫
ゾクリとしたのはなぜだろう。
しかし、こんなに鮮明に喚ばれるのは初めてだ。
明日、茶州に向けて出立することを知っているかのように、それは風に乗って、琳麗の耳へと伝えてくる。
「琳麗っ!」
肩を掴まれると同時に目の前で声を上げた静蘭に、琳麗はようやく気づいた。
「……っ、静蘭…」
「どうかなさいましたか?」
心配そうな見てくる静蘭に苦笑しながら、「なんでもない」と告げたが静蘭は両肩を掴み、真っ直ぐ見つめて来た。
「本当に?」
「ほ、本当よ、なんでもないわ……」
「琳麗、様…………まだ、声は聞こえるのですか?」
「……静蘭…なにを……」
言っているの――そういう前に琳麗は静蘭に抱きしめられていた。
「前にもいいましたが、得体のしれない者に心を寄せないで下さい」
「せー、らん…」
「時折、貴方が何処かへいってしまいそうで、私は怖い。だから、今回は此処で――貴陽で待っていて欲しい……琳麗」
そう言って頬に手を宛て、見つめてくる静蘭に琳麗は擦り寄った。
どこか甘えてくる琳麗に静蘭は腰に回した手を引き寄せる。
「……大丈夫、大丈夫だから。それに私、はっきりさせたいのよ」
腕に抱かれながら、琳麗は口を開いていく。
「だって、このままじゃ……夜も煩くて静蘭と一緒に過ごせないわ!」
「…………」
「静蘭と一緒にいるのに、誰かが私にしか聞こえない声で囁くのよ。嫌じゃない」
嫌だ。と静蘭は思った。というより物凄く腹が立つ。まるで琳麗との時間を邪魔されているのだ、たった今もそうだったのだ。
「……琳麗、」
「なぁに?」
「ソイツの正体が分かったら教えて下さい。私が止めさせますから」
むしろ腰にある"干將"で叩き斬ってやりたいくらいだ。
「相手が何者かも分からないのに?」
「それでもなんとかします」
静蘭の真剣さに、琳麗は眼を丸くしてクスッと笑った。
「どうしました?」
「ううん、なんでもないわ。……それより、」
静蘭はやや腑に落ちないながらも、琳麗の言葉を復唱した。
「父様にバレてたわね」
「…………琳麗様が言ったのでは…」
「言ってないわ……恥ずかしくて…」
二人は先程の邵可のニコニコ顔を思い出して、互いに恥ずかしくなる。
特に隠していた訳でもないが、やはり照れくさい。これが秀麗だったら、もっと恥ずかしい気がするが、今は言う時ではない。
「すべてが終わったら――」
風で掻き消された言葉だったが、琳麗には聞こえたらしく、月に照らされた美しい笑みを携え頷いたのだった。
その後、二人はまた府庫へと戻ったのだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
府庫に戻ると、秀麗はまだ仮眠室で昏々と眠っていたのを眺めてから、琳麗は書庫の方へと向かった。
そこにはあちこちで色々な人が眠っている。
疲れた方々が風邪を引かないようにと、毛布を持って来て皆に掛けると邵可の元へと歩いていく。
静蘭は劉輝が心配らしく、そちらに行ったようだった。
「父様」
「毛布、足りたかい?」
「少し足りなかったから、違う部署から借りてきたわ」
「そうかい。琳麗も少し休みなさい。明日から馬に乗って行くんだろう」
「そうね。馬に乗るなんて霄太師と茶州に行った以来だわ。羽林軍の方々にも無理させちゃうわね」
邵可は椅子に座るよう促し、苦笑した。
「秀麗もだが、君も無事に帰ってくるんだよ」
「私は大丈夫。一番の心配は秀麗だから……」
「もし秀麗に何かあっても、君は動かなくても大丈夫だよ」
「父様…」
「秀麗たちは最短時間で万全の態勢を整えた。治療法も医者も揃えて乗り込む以上、事態が収束しないわけがない。
最悪でも"邪仙教"の教祖とやらを燕青くんか静蘭が殺してカタが付く。二人がつけられないなら、黎深たちが手を下すよ」
「分かっているわ。――それでも心配になるものだわ、人は」
「……そうだね。でも無茶はしないでおくれ。君も大事な娘なのだから」
ぐっと手を握る父に琳麗は手を重ねて、微笑んだのだった。
「帰ってくるわ。全てに決着をつけなくちゃ」
真摯な眼差しで呟く琳麗に、邵可はぐっ手を握るのだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
朝靄のなか、葉医師は酒を飲みながらカリカリとこめかみをかいた。
「一応これも王命、か。なんつーかもんのすごい久々な響きだの……」
華梛か、と呟いた葉医師に、背中合わせに酒を飲んでいた霄太師がチラリと視線を向ける。
「末裔に会ってみたかったか?」
「会わんでも、あの医書を見りゃわかる。……ったく、ほんっとに人間ってやつは……」
あのしぶとさが、憎くて、時々愛しい。
立ちこめる靄を切り裂いて、朝日が昇る。
少し昔の話をしながら、黄葉は人が憎いのか愛しいのかわからなくなる。
「ハズレ籤ばっかで嫌になった瞬間、でかい当たり籤ひいたりするからタチ悪いよな……」
瞬きのような人生なのに、時に鮮烈な刻印を自分たちに刻み、砂のように消えていく。
「……戴く王のいない限り、政事には関わらぬ――か」
気の遠くなるほど遥かなる昔の誓約を舌の上で転がすと、紫霄と目があった。
「……そーだよなー。よりによってお前と酒飲むくらいになっちまったんだもんな。そりゃ歳もくうよな。もーう昔の俺が聞いたらかなりありえないっつーの」
紫霄が口を挟む前に、黄葉はとっとと立ち上がった。
「そんじゃ、まあ行ってくる」
ひらりと手を振ろうとして、声がかかる。
「――姫を頼んだぞ、黄葉」
「分かってるっつーの、姫に何かあったら、俺が他の奴らに八つ裂きにされるって――守ってみせる、今度こそ」
今度こそ紫霄に手を振り、黄葉は秀麗たちが待つ場所へと向かった。
最終幕/終
あとがき
ちょっと訳が分からない感じになってしまい、すみません。
2010/06/02