壱
茶州の境までの最短行路を、騎馬の一群が冬将軍を追い払うように駆け抜ける。
先に物資を積んだ一団が次々と抜けているため、除雪をする必要もなく、雪混じりの泥を蹴立てて昼夜を問わずひたすらに駆けた。
琳麗は楸瑛に相乗りしている秀麗に近づくと、彼女はすっかり血の気を引かせていた。
そんな秀麗に楸瑛は気遣わしげな視線を落とした。
「……秀麗殿、えーと、大丈夫かな。気絶してない?」
「……むしろ……気を失いたいです……」
「秀麗、大丈夫?」
一人馬を駆ける姉を見て、秀麗は羨望の眼差しを向けた。
一緒に育ったはずなのに、なぜ姉は馬に乗れるのだ?と疑問を問えば、秀麗が茶州に行っている間、宋太傅に鍛えられたらしい。
女官の仕事にそんなのがあるのかと問えば、「宋太傅の我儘」と言う。それには楸瑛も苦笑していた。
「……健康ってなんだっけ…」
そう呟く秀麗に琳麗も楸瑛も苦笑した。
慣れない馬に全速力でカッ飛ばされつづけた医官のなかには幸せにも失神者が続出で、騎手の背中に紐で括り付けられて負ぶわれ、気絶したまま運ばれている。
一人、葉医師だけが大変元気だ。
「暇ができたら……うま…馬の練習でもしようと思います」
もう一人、羽林軍の騎手に負けずに馬に乗る柴 凜を見て、秀麗はため息をついた。
「琳麗殿や柴 凜殿ほどの腕前になるには相当の修練が必要だよ。いや、驚いたね」
「その時は、私も一緒に手伝うわ」
「……あ、ありがと……姉様…」
和やか(でもないが)そうな姉妹の会話を聞きながら、楸瑛はふと前方にぽつんと見え始めた関塞を認めた。
「……秀麗殿、もう少しで茶州の境――崔里関塞だ」
瞬間、ふらふらしていた秀麗の頭がぐっと持ち上がった。
琳麗も前を見据える。「八日――」呟く秀麗の声を聞きながら、前に来た事を思い出す。
「……無茶を聞いてくださって、ありがとうございました、藍将軍」
「ただの鍛練だよ。宋太傅と大将軍たちに言われてね」
「……すみません、藍将軍」
重石付きの寒中馬術鍛練、茶州の境まで。を進言したのは琳麗であり、彼女は申し訳なさそうに楸瑛に謝った。
「私たちのことならいちばん軽い無茶だと思うけどね」
「……藍将軍たちも大変ですわね」
「宋太傅のお相手をなさる琳麗殿に比べたら、平気ですよ……ただ、気を付けて下さい」
楸瑛の言いたい事が分かったのか琳麗は無言になった。
昨日、琳麗が秀麗と間違えられて、街の兵士から矢を射られた。
琳麗は持っていた短剣でそれを防いだが、それを見た秀麗が顔を真っ青にしていたが、秀麗は何も言わなかった。そして琳麗も。
――噂は、確実に広まっていた。
「……女性がこれから戦場に行こうというのに、すごすご引き返すしかないとはね」
楸瑛はぞくりとした。嫌な――予感を追い払おうと、楸瑛は何か言おうとした。
その時、隣を駆ける琳麗がハッとし、楸瑛もまたぐんぐん近づいてきた崔里関塞で振られている旗に気付き、愕然とした。
城郭の上で振られている旗は、通行不可を示すもの。思わず楸瑛は背後を振り返った。
「禁軍旗は!?」
「立ててます! 見えないはずがありません!!」
すべての城塞を検問なしで通過可能となる禁軍旗。濠の跳ね橋まではあがっていなかったが、日が高いというのに関塞の城門は固く閉ざされている。
状況を察して、秀麗は青ざめた。
「藍将軍……ここまでで結構です。ありがとうございました」
「馬鹿を言うな!」
「藍将軍っ!?」
楸瑛は激昂した。城門の前で怒り任せに手綱を引く。
「崔里関塞!! 貴様らの目は節穴か!! 伝令が来ているはずだ、とっとと開門しろ!!」
ビリビリと空気が震えるほどの怒号に、城門の上に立っていた歩哨たちは思わず身を竦ませた。
それでも、彼らは叫び返した。
「で、できません!」
「なんで茶州ばっかり貧乏くじひかされにゃあならんのです!」
「もうたくさんだ。せっかくちぃっとずつ良くなってきたっちゅうのに、女子供なんかと取っ替えて、今度は妙な病が広がるときてる。ふざけやかって!」
「入りてぇってんなら、その女の首カッ斬れ!」
「そうだ! そうすりゃ病が収まるんだ。州牧だってんならそんくらいしたらいいんだ!」
浴びせられる罵詈雑言。
民たちは邪仙教が言いふらした『女州牧――秀麗を生け贄に捧げなければ病は収束しない』というのを本気で信じている。
かつん、と楸瑛の傍に配下が一騎近寄った。いつも控え目ではにかむように笑う彼は、珍しく眉を吊り上げている。
「将軍、射貫いていいですか。自分、残らず討ち取れる自信すごーくありますよ」
「はっはっは、即刻許可したいところだけどねぇ、矢がもったいないからやめておけ」
楸瑛は寸前で声を掛けてくれた配下に感謝した。でなければ問答無用で楸瑛こそが矢を放ちかねなかった。
険を寄せて歩哨たちを睨み上げる。
「まー、よくあるこっちゃの」
葉医師は軽い口調とは反対に、歩哨に冷たい一瞥をくれた。
琳麗は秀麗の傍に馬を寄せ、先程後頭部をぶつけた秀麗に「大丈夫?」と声をかけた。
秀麗は、深く息を吸うと、ぐっと顔を上げた。
「大丈夫よ、姉様」
「なら、いいわ」
「紅州牧、ご安心ください。そこまで無能なら、即刻彰を柴家から叩き出します」
凜も傍に馬をつけ、落ち着いた微笑を浮かべて言った。
「え?」
「大丈夫、すぐに門が開くわよ」
「姉様?」
楸瑛をはじめとする羽林軍兵士たちは、思わずそれぞれの武器を掴んでいた。
秀麗も訳が分からず、思わず身をすくめたほどの、裂帛の剛気がその場を打った。
「こらー! 何考えてやがるこんのアホたれどもっっ!! 手遅れになったらてめぇらどう責任取るつもりだっ! 余計な世話やかすんじゃねーっっ!!」
ゴンゴンゴン、と遠くで拳骨の音が聞こえた。同時に城門の上から人が降って来た時、秀麗が思わず身を乗り出し、次いで馬から転がるように落ちた。
「秀麗殿!?」
「大丈夫です、藍将軍」
楸瑛の声も、擦り剥いた傷も構わず、秀麗は身をおこし、駆けた。
無謀にも城壁から身一つで飛び降りた人影は、長い棒のようなもので激突する前に城壁を打ち、引き締まった体躯をふわりと回転させて着地した。
「相変わらずね、燕青さん」
クスクスと微笑する琳麗の前では、秀麗が燕青に脇目もふらずに駆けていき、飛び込んでいった。
「おっ? おおっとっと。こりゃまた熱烈大歓迎だなー姫さん」
まっすぐ飛び込んできた秀麗を、逞しい腕が抱き留め、ぐいと抱き上げた。
何もかも、できないことはないと思わせてくれるような破顔一笑。
「すっげぇ早かったなぁ姫さん。頑張ってくれたんだな。ありがとさん」
秀麗は顔をくしゃくしゃに歪め、燕青の首にぎゅっとかじりついた。
その様子を見て、琳麗は少しだけホッとした。何か言い合いしているようだが、秀麗が少し笑ったのを見て、琳麗もまた微笑した。
「行きましょう、藍将軍。医師団を休ませなければ」
「ええ、そうですね」
楸瑛は背後を向き、医師たちを乗せた配下たちを促した。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「あっはっは、羽林軍将軍さんまで駆り出しちゃったのか。さすが姫さんと悠舜。で、悠舜と克洵は、静蘭に守られて第二陣で到着……てことは、あと一日二日でくるか」
「羽林軍を動かしてくれたのは姉様よ、燕青」
「って、なんで琳麗姫さんまで?」
「私は葉医師の助手よ、燕青さん」
疲労困憊の医師たちに水を渡していた琳麗が、苦笑しながら答えた。
馬を駆けていたにも関わらず、琳麗の元気の良さに秀麗は苦笑しつつ、かいつまんで現況を燕青に説明した。
「『馬術訓練』はこの崔里関塞までだから、私たちはこれで帰参しなければならないが……」
楸瑛は傍に立てかけておいた、布でぐるぐる巻かれた細長いものを燕青に差し出した。
「これを。静蘭から預かってきました、あなたに渡してほしいと。――“干將”です」
いかにも気軽に受け取った燕青は、目を丸くした。
「“干將”ってあいつが王様からもらったあの剣か?」
「そうです」
楸瑛の言も構わず、燕青はびりびりと“干將”の包みや護符を引き裂いて中身を取り出した。
「げ。マジで剣だよなぁこれ……何考えてんだあいつ。俺、剣はダメなんだ。あいつも知ってるはずなんだけどなぁ……」
そういいながら、燕青は子供が遊ぶように天下の宝剣を掌上でくるくる回したのだった。
「藍将軍、本当にありがとうございました」
「藍将軍、遠路遥々、かけがえのない州牧と医師団の護衛をしてくださったこと、厚くお礼申し上げる。機会があったら奢ります。えと、ツケで」
秀麗が頭を下げると、隣にいた燕青も礼を述べた。
「燕青! そんなこといってるから借金が全然減らないのよ。首が回らなくなるわよっっ」
「いやアレはお師匠と柴 彰の骨の髄まで追い剥ぎ返済計画のせいで」
二人のやり取りに楸瑛はふっと小さく笑みを漏らした。
「……藍将軍? どうなさいました」
「琳麗殿……いや、静蘭が何も言わず秀麗殿を送り出した理由がよく分かったので」
「和らぎましたからね、張り詰めていたものが」
「ええ。あなたも気を付けて下さい」
「私は大丈夫です。……藍将軍、劉輝様を頼みます」
微苦笑する琳麗に楸瑛は頷いたのち、秀麗たちに向きを変えた。
「――貴陽にて陛下共々、朗報をお待ちしております。……秀麗殿、どうか、無事で」
「はい。最善を、尽くします」
秀麗は微笑むと、深々と楸瑛に頭を下げた。