壱
秀麗が後宮に入り、しばらく経ってからのある日霄太師は、王の執務室にいた。
「温泉旅行〜?」
「ええ、秀麗殿もそろそろ後宮に馴れた頃。ここいらでひとつ、もっと親睦を深める為に如何ですかな?」
素っ頓狂な声を出す劉輝だが、霄太師は白髭を撫でながら続けた。
「親睦を深める?」
「どうせ、まだ、秀麗殿と床は共にされていないのでしょう。劉輝様」
ちらりと横目で見られ、劉輝はギクッと身体を揺らした。霄太師は、口の端を上げた。
「そこで温泉です! いつもとは違う環境で秀麗殿もちょっと気が緩み、衣の胸元も緩くなり、温泉でほてった肌がちらり…と……」
「…ちらり……」
「いやはや、はらり……かも」
「はらりっ……」
既に妄想に取り付かれているのか劉輝は口の端をだらし無く上げていた。
それをニヤニヤ笑いながら霄太師は聞いた。
「如何ですかな?」
「っっくん! い〜い、考えだぁ 霄太師。こんのくそじじい、いやいや、好色じじいめ〜」
劉輝は生唾を飲み込み、ニヤニヤと笑い始めたのだった。
「伊達に年はとっておりませんのでな」
「「ふっ…はっはっはっはっ…」」
一通り笑うと、劉輝はきりっと真面目な顔をして、霄太師に命令をした。
「早速、手配してくれ! 可及的速やかに事を運ぶのだ!!」
その後、二人はまた高笑いをしていたのだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「ね、香鈴? 温泉旅行って?」
突然の温泉話に秀麗は、首を傾げながら侍女である香鈴に聞いた。香鈴は嬉しそうに笑いながら
「秀麗様が馴れない後宮でお疲れでしょう。って主上が考えられたそうですよ。ね、琳麗様」
「ええ、既に霄太師が色々と手配しているようです」
琳麗は頷きながら答えた。内心は(…多分それは名目だと思うけど)と苦笑していた。
「劉輝が?」
「ええ、主上はお優しくて、秀麗様はお幸せですね」
「う…うん、……まぁね…」
満面の笑みの香鈴の前に秀麗は苦笑いするしかなかった。
「もちろん、香鈴もお供いたします!」
「ね、…り、琳麗は行くの?」
秀麗から縋ったような瞳を向けられ、琳麗は肩をすくませて是と頷いたのだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
さらさらと回廊を歩いていると、前を歩く主上の若き側近を見つけた。
足音に気付いたのか、くるりと楸瑛が振り向き足を止め、琳麗を待っていた。楸瑛が止まった事で横を歩いていた絳攸も足を止め、こちらを振り返った。
「これは、琳麗殿。相変わらずお美しいですね」
「藍将軍も相変わらず冗談がお好きですね。お世辞をおっしゃっても何も出ませんよ」
スイッと腰を抱き寄せられるが、琳麗はため息を吐きながら横目でちらりと楸瑛を見た。
「おや、信じて頂けないのですか?」
「当たり前です。あちらこちらでおっしゃる言葉を信じろと言うのは難しいですわね」
「では、あなただけにおっしゃれば信じて頂けるのですか?」
耳元で囁くように語られ、琳麗はビクッと身体を揺らした。
(危険!)と思っているとバシっ!と絳攸が楸瑛の顔を横から持っていた本で殴った。
「いい加減にしないかっ!! この常春頭が―――っ!!」
グイッと琳麗を楸瑛から引き離すと、庇うように自分の後ろに移動させた。
「ひどいじゃないか、絳攸」
「うるさい! この見境なし男がっ!! 大丈夫か?」
「ええ、ありがとうございます。絳攸様」
ニコッと穏やかに笑う琳麗に絳攸は、少し頬を染めたが、気恥ずかしいのかゴホン!と咳をして聞いていた。
「…そ、そういえば温泉旅行の話は聞いたか?」
「ああ、主上が秀麗が馴れない後宮で大変だろうから。っていうのですか? 先ほど、霄太師から聞きましたわ!」
「そうか、琳麗も行くのか?」
「ええ、始めは行かないつもりだったのですが…宋太傅がお酌しろだの、秀麗も来て欲しいようなので行く事になりました」
はあ〜とため息を吐く琳麗に絳攸と楸瑛は顔を見合わせた。
「えーっと、琳麗殿はあまり行きたくないのかな?」
「……そんなことはないのですが」
「なんだ? なにかあるのか?」
言い詰まる琳麗に絳攸たちは不安そうに眺めた。
「いえ、なんでも!!」
両手を振り、苦笑いする姿になんとも言えなくなる二人だったが、実際は
(だって霄太師が行きたいだけの暇潰しに付き合ってられないし、居なければゆっくり休める。なんて言えないもの)
と考えていたのだった。
「そういえば、お二人は行かれるのですよね?」
「まあ、私たちは主上付きだからね。主上なんて張り切っておられるよ」
「ったく! 温泉なんて行ってる余裕があるなら政事をだな」
「まあまあ、絳攸。たまには骨休みをしないと主上だって疲れてしまうよ」
「そうですわ、理由はどうであれたまにはよろしいと思いますよ。お二人も疲れを癒したらいいですわ」
「……あ――、そうだな」
言い過ぎたか、と言うような絳攸の顔に琳麗は楸瑛と顔を見合わせてクスッと笑ったのだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
そして、出発日。
馬のいななきがするなか温泉旅行への一行が集まっていた。
「全員揃ったかー? 点呼を取る!!」
劉輝が声を張り上げた。
「まあ、張り切っちゃって」
「下心が見え見えだな」
絳攸が呆れきったように劉輝を眺めていた。
「霄太師、宋太傅、茶太保!」
「はい」「おう!」「おう、はいはい」
「絳攸、楸瑛」
「ここにいる! 見れば分かるだろ!」「まあ、そう言うなよ」
「秀麗〜」
「はい」
「香鈴、琳麗!」
「はい」「……はい」
「全員いるな! では、出発だー」
というわけで貴陽の外れにある温泉地へと向かったのでした。
劉輝は物凄く張り切っていて、誰かを呼ぶ事を忘れている事に気付いていなかった。
むしろ、#琳麗#以外の人もその存在を忘れていたらしい……
(――今頃、怒っているのかも……静蘭…)