壱
あの温泉旅行から帰って来てからの事、琳麗は朝から府庫へと足を向けていた。
その途中で劉輝と静蘭が何やら話しているのを見かけた。
「兄上…あ、いや、静蘭」
「劉輝様、おはようございます」
「おはよう、静蘭」
和やかに挨拶していたので、琳麗も声を掛けようとしたが、なにかえもいわれぬ気を感じその場に立ち止まってしまった。
すると、静蘭がいつもの笑顔ではない顔をして笑っていたのが見えた。
「ああ、劉輝様。みなさんで行かれた温泉旅行は楽しかったですか?」
「おお、楽しかったぞ」
「それはよかったですね〜」
「ああ、よかった。あ、そういえば、どうして静蘭は来なかったのだ?」
劉輝様っ!それを言ってはっ!!と考えつつも、どうしてって…と劉輝が今の今まで気付いてなかったと知った。
それに対し、静蘭は笑顔で答えた。
「誘われませんでしたから!」
その笑顔とハキハキした言葉にうぐっ!と劉輝が詰まったのが目に見えた。
あはははは〜と苦笑いしている。本気で忘れていたらしい……。
「っかは!……そっか…いやぁ、うっかりしてたな」
「いえいえ、お構いなく。それにしてもよかったですね〜 ご自分たちだけ存分に羽を伸ばして」
「う、う、うん」
お構いなくと言いつつもニコニコと笑顔で圧力をかけていく様がみて取れる。
こうなると一緒にいった自分までもが、身を縮めてしまうのはなぜだろう。
「私を置いて温泉に行って、美味しい物を召し上がって、ゆっくりされて、さぞかし、楽しかったでしょうね♪」
「ううっ…」
((こ、怖い……))
離れていながらも、琳麗は劉輝と同じ事を感じていた。しかし、まだ、黒い笑みは終わる事がない。
「おやぁ? 劉輝様、どうなされました? 顔色が悪いですよ?」
劉輝は、多少後退りをしていた。
(兄上が、笑顔で怒っている!……これはマズイ…)
どうにかして、兄上…いや静蘭の前から逃げなくては!と考えキョロキョロしていると、ほど近くに琳麗の姿を発見したのだった。
こちらを見ている劉輝様を見て、琳麗はぎょっ!とした。素知らぬふりをして、踵を返そうとしたが――遅かった。
「そこにいるのは琳麗ではないかっ!」
「…琳麗、様?」
なんとなく…ではなく切実に助けを求める瞳で見つめられ、琳麗は顔に出さずとはいえ、内心引き攣っていたのは言うまでもなかった。
静蘭は、ちょっと…というか隠していた自分を見せてしまったせいか、顔を背け誰にも聞こえないように、ちっ…と舌打ちをした。
「…おはようございます。劉輝様、静蘭殿」
「おはよう、そ、そんな所でどうしたのだ!? よ…余に何かあるのではないか?」
どうやら「用事」があって欲しいらしい。琳麗は、内心ため息を吐きながらも表に出さずに微笑んだ。
「はい、劉輝様。霄太師がお探しになっておられました」
「そ、そうか! 霄太師だな! うむ、で、では、これで失礼する。静蘭」
「……はい」
劉輝は琳麗へと近づき、通り過ぎる際に小声で礼を述べていった。
「…琳麗様」
「おはよう、静蘭」
劉輝を見送り、近寄って来た静蘭に琳麗は振り向き笑った。
「……おはようございます」
「──ねえ、静蘭? イジメすぎじゃない?」
「──っ!!」
やはり聞かれていたのか!?と静蘭はぐっ!と詰まった。
琳麗は、クスクス笑いながら不思議そうに静蘭を眺めた。
「な、なんですか?」
「うーん…静蘭ってあんな一面もあるんだな〜って思って…」
「──驚きましたか?」
「ううん。ただ…静蘭も人間なんだな〜って」
「は?」
「あ、なんか失礼だよね! なんていうか、いっつも私たちの前ではあんな感情を出さないじゃない?そりゃ、可笑しければ一緒に笑ったり、悲しければ慰めたりしてくれるけど、私や秀麗や父様に合わせてくれてるっていうか、まだまだ隠しているっていうか……だから、なんかホッとしちゃった。そんな静蘭もいるんだって」
「……ホッとしたんですか?……その、嫌になったとかじゃなく?」
「うん。それに静蘭を嫌になったりするわけないじゃない! むしろ、さっきみたいな静蘭もいいと思う。私は好きだわ、ハツラツしてたし」
目の前でにっこりと笑う少女に静蘭は、自然と笑みが零れていく。
真っすぐに自分を見て、違う一面を見せたとしてもまだ「好き」だと言ってくれる大切な少女
「──私も、琳麗様が好きですよ」
その言葉はするりと口から零れた。だが、きっとこの少女には──
「ありがとう、静蘭! 私も好きよ、なんたって大切な家族だもん」
やはり、通じていなかった。くっ!と静蘭は笑った。
ならば少しずつ分からせていけばいい。
「…どうかしたの? 静蘭」
「いえ、なんでも」
「ふーん?……あ、そうだ! 私もごめんね!」
「──なにがですか?」
両手を顔の前に合わせ、謝る琳麗に静蘭は聞き返した。
「ほら、温泉の事よ。劉輝様に怒っていたでしょ? 私もなんだかんだ言って楽しんで来たから……静蘭の事、忘れていた訳じゃないんだけど…なんでみんな何も言わないのか気にはしてたのよね」
「……お嬢様方はお土産を下さったじゃないですか」
「うん、でもねぇ。藍将軍が静蘭は公務があるから来なかったって言っていたけど…」
「…………藍将軍がそのような事を?」
「え、ええ……」
なんだか、さっきまでとは違う空気が流れ始めたような気がして、琳麗は苦笑いをしたのだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
その頃、劉輝は霄太師の元へ走って行っていたのだった。朝廷三師の室をバタン!と開け、入っていった。
「霄ぉ太師ぃぃ〜〜」
「こ、これは劉輝様!? どうなさいました?」
いきなり、半泣きで飛び込んで来た若き王に霄太師は茶を零しそうになったのだった。
劉輝は先程の事を霄太師に説明したのだった。しかも静蘭の機嫌を直す事を考えて欲しいと懇願した。
「霄太師ぃ〜」
「うーむ、そう言われましても、すぐにいい考えが浮かぶものではありませんぞ」
「いいから、さっさっと考えるのだ! 静蘭の機嫌を直せて、且つ秀麗と親睦が深まる素敵な計画をだ!」
霄太師は髭に手をやって渋るが、劉輝は両手を振り上げて早く早くとせがんでいた。
「そうですな〜まだ泳ぐには早いかもしれませんが、湖に行く。というのはいかがですかな?」
「湖か♪」
「静蘭の機嫌も大自然に抱かれれば直るでしょうし、あ、それに…水場は女性を開放的にするといいますじゃ…」
僅かに霄太師の声が怪しく変わった。それに対して、劉輝の声にも変化がある。
「おおっ…か、開放的に」
「着物の裾をめくって、湖に裸足の足を入れて「キャッ☆冷た〜い」ですじゃ…」
「ほおぅぅお…」
「めくった着物の裾から白いふくらばぎが、ちらりっ…!」
「おぅほぉぉ…ふくらばぎ」
「さらにっ! 開放的になって、もっと裾をめくったりして! こぅ…まばゆ〜い白いふとももが……」
果てしなく想像している事は女性が聞いたら、引き攣ってしまうであろう内容だった。
「おぅほっほぅ…ふとももかー…うーん。素晴らしい計画だな、それは〜。さすが、好色じじ…んんっ! いやぁ、霄太師だ!! 可及的速やかに事を運ぶのだ!」
「お任せあれ」
「「ふっ…ふっふっふっふっふ……がーはっはっはっはっ…」」
もはや、静蘭の機嫌取りなどないような計画になっていたのだった。
ともあれこうして、劉輝に静蘭、藍将軍、絳攸様、霄太師、茶太保、宋太傅に香鈴、秀麗そして#琳麗#は、貴陽に程近い絶景と謳われる湖へと行く事となったのでした。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
さて、そんな計画が進んでいたある日の事……
府庫には今日も絳攸と楸瑛がいたのだった。朝という事もあり劉輝は朝議に出ていた。
「あら、絳攸様、藍将軍。おはようございます」
「これは琳麗殿、今日も邵可様に差し入れですか?」
「ええ、父様は?」
「邵可様なら、個室に篭っているが呼んで来るか?」
「いえ、私が行きますので。そうだ、こちらよろしかったらお食べになって下さい」
重箱の蓋を開けるとほかほかと湯気が上がった。
「出来たばかりで、まだ温かいので」
「琳麗殿の手作りを頂けるなんて、有り難く頂きますよ」
「ああ、秀麗もだが、琳麗の作る物も美味いから有り難く頂く」
その言葉に琳麗はクスッと笑い、邵可の分を器に盛り、お茶を片手に個室にいる父のところへ行った。
「……そういえば、聞いたかい?」
「あぐ……なにをだ?」
「今度は主上、秀麗殿との親睦を深める為に霄太師と湖に行く計画を起てているんだってさ」
「はぁ? まだ、懲りんのか!? あのバカはっ!!」
「そうだね〜 まあ、前回は相撲取ったりした上に、なんでも、それで秀麗殿に怒られたらしいからね」
くっくっ…と笑う楸瑛に絳攸もあの温泉旅行を思い出し、苦笑せざるおえなかった。
「しかし、主上はともかく楽しかったと思うよ、私は。なんと言っても湯上がりの琳麗殿や秀麗殿の色っぽい事なかったからね」
「──ほぅ…そんなに色っぽかったのですか?」
「そりゃもう、少し濡れた髪を纏め上げ見えた白いうなじに、ちょっぴり桜色に染まった肌……実に美しかっ………」
そこまで言って、楸瑛は背中に刺さる視線に冷や汗を掻いていた。
ビシバシと殺気を感じ、振り向きたくとも振り向けない。いいや、むしろ振り向いてはいけない!!
ちなみに絳攸は、とっくに壁際へ逃げていた。
「──それはとてもようございましたね。 藍、将軍?」
「そ、そそ、その声は静蘭…かい?」
「はい。──おや〜? 藍将軍ともあろうお方が他人と話をする時、顔も見ないのですか?」
「え、いや……そんなことは」
ないが、今のこの状態ではむしろ顔は見たくない。まがまがしいくらいの黒いオーラが発せられているのだから。
しかし、このままでは、簡単に背後から刺される、いや斬られるかもしれない!
楸瑛は勇気を振り絞って振り向いた。そこには美しい顔立ちながらも笑っている黒いオーラを纏っている静蘭がいたのだった。
「藍将軍は、大変、温泉旅行を満喫されたようですね〜」
「あっ…ははっ、まあね…。君も来ればよかったじゃないか…静蘭」
それを聞いていた絳攸は(あのっ、バカっ!!)と心の中で怒鳴っていた。
そして、切に琳麗が戻ってくるのを……いや、この状況を打開してくれる者の登場を願っていた。
「ええ、行きたかったのですが、なにやら私は藍将軍曰く『羽林軍にて公務』がございまして」
「そ、それは残念だったね〜! そ、そうだ、今度は湖に行くらしいのだが、その時は行くのだろう」
「ええ、もちろん! お嬢様方をお守りするのも私の役目でございますから」
特に貴方のような人からね!と槍で刺されそうな勢いで笑顔で言われたのだった。
絳攸は、絶対静蘭を怒らせないようにしようと心に誓ったのだった。その後、琳麗が戻ってくるまで静蘭の黒い笑みは途絶える事がなかった。