秀麗が王の『教育係』として後宮に入ってから、二カ月が過ぎた。
朝議でも自分の考えを述べ、朝臣たちの意見をまとめ積極的に政事に関わっている劉輝の話を霄太師たちから聞いた琳麗は微笑んだ。
だが、とあるお方の表情につと目を細めたのであった。


   ◇◇◇◇◇◇◇◇◇


後宮の庭院にて、琳麗は秀麗と静蘭とで話をしていた。


「そう、主上が………」

「えぇ、朝議でも立派に意見を仰っているとか」

「朝臣の方々の主上を見る目が変わってきたとの事ですって」


静蘭と琳麗は微笑んでいたが、秀麗は


「そろそろ荷物を纏めておいたほうが良さそうね。主上がちゃんと政をするようになったのなら、私たちが後宮に居る意味は何も無いわ。塾も再開しなきゃだし、夏の宴に向けて侍女仕事も舞い込むだろうし」

「……そうね」


琳麗は秀麗の想いにハッとして頷いた。ここでは、秀麗は夢を見て錯覚してしまうのかもしれない。


「……主上が寂しがりますね」

「私が生きる場所はここじゃないもの」


秀麗はそう呟くと、静蘭も解ったのか何も言わなくなった。
しかし、琳麗はその時既にこれから起こる事を予測していた。自分がどうなることかも、秀麗、静蘭がどんな目に合うのも分かっていた。
分かっていて、何も出来ない自分に情けなくなる。でも、自分の弱い力は何も役に立たないのは分かっていた。
ならば、彼の行く末を見届けようと思ったのだった。
その日の夕刻、琳麗は一人回廊を歩いていた。
そこへ黒い覆面の男たちが現れた。琳麗は少しも驚かず、何の抵抗もせずに気絶をしたのだった。


   ◇◇◇◇◇◇◇◇◇


かすかな香の匂いが漂うその室は、廃墟のように仕立てられた外観に反して、こじんまりとしながらもかなりの趣味のよい家具で調えられていた。
その室の長椅子の上に琳麗は寝かされていた。


「っ琳麗様!」


静蘭は急いで近づくと琳麗の肩を揺さ振った。「……んっ…」という呻きに眠っているだけらしいと安堵した。それとともに窓辺にいる人物に冷ややかな目線を送った。


「お久しぶりです、というべきですかな。──清苑公子」


茶太保はいつもと変わらぬ好々爺の笑みを浮かべた。


「琳麗様に何をしたっ! そして秀麗お嬢様は、どこだ」


静蘭は琳麗を抱き寄せ、相手の首筋に剣をつきつける。けれど茶太保の笑みは変わらなかった。


「……お話だけでも、聞いてはいただけないのですかな?」

「何を聞くと? 私は、あなたの求める者ではない」


茶太保は喉の奥で笑った。


「あなたを見ていると、遥か昔を思いだしますよ、清苑公子」


首筋に剣を突き付けられたまま、それでも茶太保は平然と話を続けた。



「あなたのお父上にお仕えしていた頃は、戦火の絶えぬ時代でありました。時代の変わり目――だったのでしょうな。霄や宋とともに戦場を駆け抜け、陛下のあとに従い、私はがむしゃらに上を目指していたものです。七家の中でも各下の茶家からのしあがってやろうと、ただそれだけを考えて、先王陛下にお仕えしておりました」

「……あなたは、それを成し遂げた。その地位も権力も揺るぎなく、太保という朝廷百官の長の一人にまでのぼった。……なぜ、今さらこんなことをする必要がある?」

「賭けをしているのですよ」

「……賭け?」


思いもよらぬ言葉に、静蘭は瞠目した。茶太保は淡々と語った。


「七家の誰よりも上に──そう思っていた頃はよかった。けれど、私は気付いてしまったんです。一番上には決してあがれないことに。いつだってあの男が私の上にはいた」

「……霄太師…」


言葉とは違い、茶太保の声はひどく落ち着いていた。


「……先王陛下の実力主義は徹底しておりました。ですから、私が霄の上に行くことはなかった。天才──というのでしょうね。忌ま忌ましいものです。凡人の努力を嘲笑うかのような」

「……あなたも、太保の地位までのぼった」


「私は凡人ですよ。出世や、名誉や、地位や、権力や──そういったものを糧として這いあがってここまできたんです。けれど霄は違った。あれは本気でただ陛下のためだけに尽くし、権力を握れる能力があるのに何にも執着しなかった。彼はそんなものにまるで興味を示さなかった。それがフリならまだ救いもありました。まるで自分という存在一つありさえすればいいと。だからこそ私は霄を憎んだ」

「憎んだ?」

「私のような凡人との違いを、まざまざと見せつけられて。私は自分の生き方を後悔してはいない。望んだこともほぼかないました。──けれど、たった一つだけ残っているんです」


茶太保は振り返り、真っすぐに静蘭をみた。まるで突き付けられた剣などないかのように。
香の微かな匂いが、増した気がした。芳香が鼻について、目眩がする。ぐっと、剣を握りなおし傍らの琳麗を抱きしめる腕にも力を込めた。


「霄の上に。──今の望みはそれだけです。あれがどう動くか──私は彼を追い落とせるのか。それとも──」


茶太保はふと笑った。一瞬、何かを期待しているかのように双眸が輝く。


「賭けですよ。私は老いた。老いたからこそ出来る賭けですよ。残り少ない人生に未練はない。──最初で最後の賭けです。画龍点睛を欠いていた我が生涯に最後の一点を描き足したい」

「その為に、お嬢様たちを」


静蘭の言葉に、茶太保は笑った。


「劉輝様が入れ込んでしまわれたのは計算外だった。私の孫娘よりもあの小娘がいいと言うのですから──仕方ないでしょう。そうして、次の手を模索中に貴方の存在を知ってしまったのですよ、清苑公子。琳麗殿はあなたをおびき出す為のいわば人質ですよ。琳麗殿がいればあなたは必ず来ると思っておりましたから」


静蘭の目つきが鋭くなる。


「……私は、清苑ではないといっている」

「今のその目など、先王陛下のお若い頃にそっくりです。かの公子が戻られたと知ったなら、皆喜んで王に戴くでしょう」

「馬鹿な。彩雲国の王は劉輝様おひとりだ。あなたはまた、八年前の争いを繰り返すつもりか」

「そんなことをせずとも、劉輝様が亡くならればよいのです。そう──不慮の事故か何かでね」


   ◇◇◇◇◇◇◇◇◇


微かな香の匂いが漂う薄暗い室の中で琳麗はぼんやりとしていた。時折、肩を揺さぶられていたのを思い出した。なにやら諍う男の声が聞こえた。


「劉輝に、何をした!!」


ダン!っとした音に琳麗は一気に覚醒した。見れば、茶太保の首すれすれのところに剣が壁に突き立てられていた。
静蘭の怒りに燃えた瞳に、茶太保は笑い、琳麗は目を見開いた。


「…せい、らん……」


琳麗は、声を出したが口が布で覆われていたので声がくぐもっていた為か二人には聞こえなかったらしい。


「……相変わらず、弟思いでいらっしゃる。ひとりぼっちの劉輝様を、あなただけが心から可愛がっておられた。ご自分と同じ境遇だったからですか」

「違う! あれだけが、私を慕ってくれたからだ。何の裏もなく、ただ純粋に。心の拠り処にしたのは私のほうだ。劉輝がいたから、私は王宮でも生きていけた。愛していたのは、私のほうだ!」


傍らで立つ静蘭の怒気に琳麗は身を固くした。その事で静蘭は琳麗が目を覚ました事を分かったが知られても構わなかったのだろう。
ぎゅっと琳麗を抱きしめたのだ。静蘭の想いが微かに空気にのり伝わってくる。
無感情だった。生き抜かなければ負けだった。でも劉輝がいたからこそ在った人としての心
その想いに琳麗は瞑目する。


「言え。何をした」

「……どうにも、そう簡単に玉座についてはいただけないようですな」


ふと、静蘭の目に憐れみがよぎった。王族の気配を漂わせて彼は告げた。


「……愚かだな、茶太保。お前の目も曇ったものだ。そんなことは不可能だよ」

「なにを」

「朝廷はもう、次の時代へ代替わりしようとしている。お前は時機を逸したんだ。藍 楸瑛も李 絳攸もすでに主を決めた。その忠誠の在処を。傀儡など王位に即けたところで、彼らは私もろともお前を失墜させるのに、いささか躊躇いもないだろう」

確かに──琳麗もそう思った。途中からだが聞いていた事に疑問が過ぎる。
なぜ、この時機なのだろうか?劉輝様が秀麗に執着したから?霄太師より上を目指していたから?よくは分からないけれど、それは本当の理由なのだろうか?

ならば、なぜ──?


琳麗は茶太保を見つめた。


「──そしてな、何より私の末の弟は、お前が考えているほど愚かではない。そして私も、お前が考えているほど従順ではないぞ」

「……そのようですな」


ちらりと茶太保がこちらを見た。琳麗は、はっとするがまたすぐに静蘭に目をやった。


「──ならば、従順になっていただくまでです」


茶太保は思わぬ素早さで、右手に置かれていた香炉を払った。床に落ちた香炉はこなごなに砕け、むっとするような香気が漂う。
そして次の瞬間、静蘭は十人以上の覆面の男たちに周りを囲まれていた。琳麗は、静蘭が庇おうとする前に引き離され茶太保の方へと押しやられた。


「琳麗様っ!!」


茶太保は、琳麗を受け止めると男たちと同じ黒い布を首筋から口、鼻へと引き上げて、くぐもった声で笑った。


「意に染まぬ者を傀儡にする術など、いくらでもあります。琳麗殿のお命もありますまい。それにあなたご自慢の劉輝様は、今頃はもう紅貴妃ともども亡くなっておられますよ」

「「な」」


つと、茶太保の目が細められる。


「──捕らえて、閉じ込めろ」


一斉に襲いかかってきた男たちに、静蘭は舌打ちして剣を向けた。隙をみて切っ先から逃れた茶太保は、琳麗を掴み素早く室の隅に移動する。
あっという間に数人斬り捨てた静蘭は、ぐらりと目眩を感じてその場に膝をついた。身体が痺れて、剣を取り落とす。


「静蘭っ!!」

「いい香でしょう?」


近寄ろうとする琳麗を押さえ、茶太保は声を掛けた。腕を老人とは思えぬ力で押さえられて琳麗は身動きが出来なかった。
問い掛けが遠く聞こえる。不意に襲ってきた酩酊感に、顔さえ上げられなくなる。


「り…ん……」

「少し、お休みください。次にお目覚めのときには、玉座におられましょう」


茶太保は、笑って踵を返した。琳麗の顔が歪み、静蘭を見つめている。
疾風を起こそうとした時、静蘭は男たちに腕を掴まれていたが、急に短剣を抜くと自分の腿に突き立てた。
掴まれていた腕を振りほどき、自分の血で濡れた短剣を、茶太保に向かって投げてきた。
短剣はまっすぐ茶太保の背に刺さったが、静蘭はまた取り押さえられ、殴打を受けて気を失った。


「静蘭っ!」

「くっ……」


刃の痛みにふらつき、なんとか踏みとどまった茶太保が振り返ったそのとき、琳麗はハッとして目をつぶった。



ヒュッと微かな風切り音がしたと思うと、十人以上いた男たちのうち半数の首が胴から転がり落ちた。そしてさらに、残りの男たちの首が落ちる。


 一瞬の惨劇


空気の流れで、むっと生臭い血の臭いが鼻についた。隣の茶太保が動揺していたのを感じた。──そして


「王はあなたを特定されました。じき手勢を率いて藍将軍が到着します。捕縛は時間の問題です。……自首するおつもりは、ありませんか?」


突如現れた第三者の声に琳麗は、目を開いた。


「……なぜ」

「あなたが後宮に入れた娘──香鈴から、足がついたのです」

「……香鈴、だと? あれには何も言ってはおらぬ!」


その驚愕の声にあの愛らしい香鈴の姿を思い出す。第三者の言葉を聞きながら、琳麗は目を閉じる。


 一体、どこですれ違ったのだろうか?
 互いに幸せを願って
 互いの想いを願って


「あなたの目論見は、あなたの良心によって崩れたというわけです」


茶太保は、首を振った。そっと血が染み込んだ菊花刺繍の手巾を見ている。琳麗はその所作を眺めるしかできなかった。


「馬鹿な……珠翠はそんなことは一言も」

「……珠翠……それが私の知る兇手ならば、それは間違いなく“風の狼”です。彼女を手駒として動かせるのは、先王陛下と私と、そして──霄太師のみ」


茶太保の目が驚愕に彩られる。琳麗も驚いた。しかし、それは茶太保とは違う驚きだった。


──珠翠さんも…


「……お前が“黒狼”だったとはな、紅 邵可! よくぞ今まで我らを欺いてきたものだ」


次の瞬間、茶太保は狂ったように笑い出した。


「では、あいつはすべてを知っていたわけか! 私はまた、あいつの手のひらの上で踊らされていたというのだな。最後の……最後まで──霄──!!」


笑いをおさめると、茶太保は琳麗を前に突き出した。


「この娘も、公子も連れて行くがいい──この命、くれてやるのはお前ではない」


背から血を流しながらも毅然とした声で告げ、揺るがぬ足取りで去る茶太保を黒狼である邵可は追わなかった。しかし、琳麗は違った。


「……父様、私…………」


暗闇の中でもじっと見つめてくる娘・琳麗の姿に邵可は頷く事しかできなかった。


「──君はやるべきことがあるんだろう」


そう尋ねられ、琳麗はしばしの沈黙の後頷いた。


「──分からないけど行かなくてはいけないような気がするの」

「無事に戻って来なさい。君は私の大事な娘なのだからね」

「……はい。静蘭をお願いします」


倒れている静蘭をちらりと見てから、琳麗は室から出て行った。それを見つめた後、邵可は倒れている静蘭の顔をそっと撫でた。


「……無茶をする。あのままおとなしく気を失っていたら、無傷で助けられたのに…」


呟いた後、ガヤガヤと外が騒がしくなった。藍将軍が部下と共に邸に入ってきたのを知ると、邵可はその場から立ち去ったのだった。


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蒼天の華 / 恋する蝶のように