琳麗は血の跡を追って走っていた。ここまで誰にも会わない事に疑問を抱きながら、夜が明けようとする昊を見上げた。


──急がなければ…


そう思い、着いた場所は高台にそびえる一本の大木のところだった。そこには茶太保とすらりとした若者が立っていた。


「……なぜ、私だった? なぜ、お前のその思いを向けるのが私だった。わかったろう、鴛洵……私は、お前が思うような人間ではなかったのに」

「──お前だよ。お前だからこそ、追ったんだ。霄」


茶太保の言葉に、男の目が丸くなる。彼は目をそらさなかった。


「お前が何者であろうとも、関係ない。追いかけたのは、お前の影なんかじゃない。今目の前にいる、お前だ」


男は笑った。苦笑に似た──けれどどこか嬉しそうに。琳麗はその場で見ている事しか出来なかった。
二人を邪魔する訳にはいかないと思い、想いを止める事なんて出来るはずがなかった。


「……やはりお前は、変人だよ」


男の手が鴛洵の胸にのび、ずぶりと手が埋まっていくのが見えた。だんだんと茶太保の身体から力が抜けていくのを感じ、琳麗は駆け寄った。
茶太保は琳麗の姿を見ると少しだけ目を見開いた。


「……琳麗殿、申し……訳…ないこ……とを……し…た……」

「……いいえっ…」


途切れ途切れになりながらも謝る茶太保に、琳麗は首を振った。そっと茶太保の手を握った。


「──なあ、鴛洵。それでも私が、好きだったろう? 最期の時を私に任せるくらいに」

「ふん――……」


茶太保の瞼がゆっくり落ちていく。そして、もう二度と開くことはなかった。
琳麗は一筋の涙を流し、意識が遠のいていくのを感じながら瞳を閉じその場に膝をついた。


「鴛洵──…」


霄太師は、力を込めて、友人の亡きがらを抱きしめた。


「お前を、愛していたよ、鴛洵──。本当はとうに去るはずだった朝廷で──五十年も──過ごして……ともに歳を重ねたは……いったい、誰の為だったと思っている……?」


そして倒れた琳麗の頬に触れた。


「──ようやく、あなたを見つける事が出来ましたぞ、蒼華様」


そう呟くと、琳麗を抱き上げ宮城へと足を向けた。


   ◇◇◇◇◇◇◇◇◇


琳麗は、どこか視界の晴れない場所に佇んでいた。


──ここは…?


ふと、大きな木が立っているのを見つけた。その木陰に親子らしき人達が見えた。近づこうとするのだが、なぜか足が動かない。
親子は楽しそうに笑っていた。父親と母親が小さな小さな子供をあやしている。穏やかな空気が流れ、琳麗は自然に笑みが綻んでいた。
そこで急に視界が暗転した。

さっきまでの優しげな空気はなく、美しい女性が嘆いていた。父親と思しき男性は厳しい顔付きで話をしている。


──なに?なにがあったの?


そう思うのもつかの間、また視界は暗転する。


泣き叫ぶ子供の声が聞こえてきた。その子供の脇には漆黒を纏い怜悧な眼差しで、子供を隠そうとしている男の姿が見えた。


──だめっ!連れて行かないで!!


琳麗は叫ぶが声は出ていなかった。ぞわりっ!と琳麗は肌が粟立つのを感じた。


──私は…この場面を知っている?

──あれは……私?



暗い闇の世界で見知らぬ“私”はその男と過ごしていた。
始めは怜悧な瞳をしていた男の表情が、だんだんと変化していく。冷たい表情をしていても瞳が優しい
段々と成長している“私”も笑っていく。優しく額に触れる掌を知っているような気がする
暗い世界の中でだけ二人がいる処だけが優しい
紅い花を持つ私に彼は宝物を見るように笑っていた


──どういう事?
──なんでニ、三歳の“私”がいるの!?

眼下に広がる光景に驚愕したその時、視界の世界が揺れた。
火が燃え上がり、世界が真っ赤に染まっていく。瓦礫が落ちて来るのが見えた。
闇の主は、小さな“私”を庇うと何かを呟いた。“私”は泣きながら縋りつこうとしているのか必死に手を伸ばしていた。


 怖い──怖い──
 手を離さないで──



記憶の中でそう叫んでいたような気がする

そこで疾風が起き“私”の姿が消えていた。そして、彼は“琳麗”を見た。


 いつか──…

 出会うまで

 ──愛している

 いつか──

 もう一度手に入れる

 我のものだ




そう呟き、手を伸ばしてきたが琳麗は後ずさった。

暗い闇の世界が煌々と光りに照らされる中、その男は灰となって消えていった。
想いだけを残して……


 お前を愛している


その言葉を琳麗に向けて。



   ◇◇◇◇◇◇◇◇◇



劉輝に秀麗の解毒薬を渡した後、霄太師は仙洞省につづく小道を一人歩いていた。
不意に喉元に冷たい刃をあてられても、彼は微塵も表情を変えなかった。


「──物騒だな、“黒狼”」

「秀麗と静蘭は──どうしました」


ふ、と霄太師は笑った。


「先王のもとで数々の暗殺を手掛けた伝説の兇手も、娘と家人のこととなるとそこらの親とかわらんか」

「答えてください」


邵可は短刀を握りしめる手に力を込めた。霄太師はゆるりと微笑した。


「安心せい。今頃は秀麗殿も回復にむかっておるはずじゃ」


邵可は硬い表情のまま短刀をひいた。


「……本当に、先王陛下のこれから、あなたは何一つ変わっていませんね、霄太師」

「ほう? 興味深いことを言う」


あなたは、いつだってそうだ──邵可は小さく呟いた。


「いつだって王のことしか考えない。今回も、八年前の時も」


八年前の王位争い。この老臣ならばいくらだって事態を収拾できたはずだ。だが、国のためでも、百姓のためには決して動かない。
ただ仕えるべき王のためにしか、この名臣と誉れ高い老君は動かない。そのことに気付いたのはいつだったか――。


「あなたはあまりにも王のことしか考えない。自分が認めた王のためには心身を賭して尽くすのに、それ以外にはあまりにも冷酷だ。誰が死のうが関係なく、誰の人生を狂わせても構わない。幾千幾万の百姓が屍になろうがまったく意に介さない。なぜです? なぜあなたは王以外を見ようとしないのです。なぜそれほどまでに王にとらわれているのですか?」


霄太師は口許だけで笑った。


「とらわれている……か。なかなかうまいことを言う。そう……わしはとらわれておるのじゃよ。王ではなく、約束に、だがな」

「約束……?」

「遥か昔の、な。それはお前の知る必要のないことだ。――邵可、お前は国と百姓のため、先王陛下に仕えた。だがわしは王のために国と百姓に仕える。わしにとっては王が第一だ。ゆえに王を導くためならば、誰を犠牲にしても構わぬ。たとえそれがお前の娘の命であろうともな」


遥か昔の約束を思い出し、彼の姫を思い出す。がそれは口にはしなかった。
邵可の目が静かな怒りに燃えあがる。


「……私はあなたの言葉に従って今まで多くの生命を狩ってきました。あなたの判断はいつも正しかった。けれどもう国は定まった。もはや“風の狼”は必要ない。狩るのは罪人のみ──それが、私の譲れぬ一線でした」

「覚えておるよ。わしがその約定を破ったことがあったか?」

「珠翠……彼女も“風の狼”です。私の部下をあんな風に使うとは──」

「茶太保は罪人であろう? 劉輝様を弑そうと謀った――」

「そうさせたのは、あなただろう!」


邵可はカッと声を荒げた。


「茶太保は──確かにあなたの上に立ちたいという思いを抱いていた。だが、それを内に殺すだけの理性と意志の強さも持っていた。それをあなたはいとも簡単に崩壊させてしまったんだ」


霄太師の笑みは、ちらとも揺らがない。邵可は拳を握りしめた。


「──秀麗を後宮に貴妃として送ったのも、静蘭を劉輝様のそばに置いたのも、琳麗を三師付き女官にしたのも――そして珠翠を茶太保のもとへやったのもそのためだ。秀麗が後宮へ入り、王は自ら政事をとるようになった。そして秀麗以外見向きもしなくなった。秀麗を貴妃に押したのはあなただ。茶太保は内心穏やかじゃなかったでしょう。──こうして一つ、彼の心に波を立てた。
 そして次に珠翠を彼のもとにやった。彼女は女性ながら凄腕の兇手。茶太保はいい手駒が出来たと喜んだでしょう。珠翠は貴妃の筆頭女官として後宮に送り込んだ。琳麗は三師付き女官でありながら、秀麗の姉でもある。二人から秀麗の情報も、王の周囲の様子もわかる──これで二つ。
 駄目押しとばかりに清苑公子の存在をにおわせた。そして、琳麗を掠ったのは静蘭が大事にしていると知り、……彼女が誰よりも気高い血筋を受け継いでいるからだ。縹 英姫殿辺りから聞いていてもおかしくはない」


琳麗のことにだけ霄太師は僅かに反応した。


「……琳麗殿のことは知っておったのか?」

「妻から聞いていましたからね」

「薔薇姫か……なるほどな」


飄々と霄太師は白髭を撫でた。邵可は、話を戻した。


「茶太保は確信したはずです。もはや謀反は成るかもしれぬ──と」

「ふむ。なんのために」

「──王のために」


邵可は即答した。霄太師は笑った。まるで出来のいい教え子を見るかのように。


「あなたは実にうまく状況を利用したんだ。政事、女性、有能な部下、秀麗と静蘭の命の危機に面しての心的成長、王としての自覚。不穏分子の一掃まで、すべては劉輝様を王たらしめるために。茶太保はそのためだけに利用された。違いますか?」

「お前は昔から誰より優秀で、有能だった。シ 静蘭か……うまいこと名付けたものだな」


「シ」とはむらさき草。誰も使うことを許されぬ王家の紫氏に通じるもの──。


「お前には感謝せねばなるまいな。流罪になった清苑公子を拾いに行き、劉輝様には学問と──宋に頼んで武も磨かせた。そしてなにより素晴らしい娘たちを育ててくれた」


邵可の目に火がともった。


「皮肉ですか」


いいや、と霄太師は笑みを消し、月を見上げた。


「心からの礼じゃよ。お前のようなものがいるから、この国もまだやっていける」


霄太師はゆっくりと歩きだした。すれ違いざま、邵可は霄太師に告げた。


「私はあなたを許しません」


冷ややかな声音で邵可は言った。


「何の罪もない秀麗と静蘭を──王のためにあれほど尽くした二人を最後まで利用して、殺すこともいとわなかった」

「殺そうとは思うておらなんだぞ」


邵可は短刀を振りかぶった。目にもとまらぬ速さでくりだされた短刀は、霄太師の首筋すれすれをすり抜けて木の幹に突き刺さった。


「琳麗はそうでしょうね、茶太保も殺すつもりはなかったようでした。ですが、秀麗と静蘭、二人に関しては結果的に死んでも別に構わないと思ったでしょう。──覚悟しておいて下さいね。このくそじじい。いつか絶対殺しにいきます」

霄太師はただ笑った。振り返ると、楽しみにしておるよ――と飄々と言った。
姿が見えなくなった後、突き刺さった短刀を抜き、鞘に収めた。珠翠の気配を感じ、振り返ろうとして琳麗を思った。


──誰もあの子は殺せない。


あの子には加護がある。そうわかっていても無事を願ったのだった。


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蒼天の華 / 恋する蝶のように