壱
その時の記憶なんて皆無だった。
覚えているのは風が強い日だった。
母様に呼ばれ、聞かされた真実はあまりにも衝撃的で涙が止まらなかった。告げられた言葉にガクガクと震えたのを覚えている。
自分は要らない子供なのだと思った。しかし、あの母様が慌てて抱きしめて
「そなたは妾と邵可の娘じゃ!」
そう言ってくれたのがとても嬉しくてまた泣いた。
父様が、頷きながら優しく頭を撫でてくれて、黎深叔父様は泣いている私を見て慌てていた。玖狼叔父様も頭を撫でてくれた。
可愛い妹の秀麗は、キョトンとした瞳で私をみた後ニコッと笑ってくれた。
突然の言葉に不安がって泣いた自分がなんだか可笑しくて……居場所を与えてくれた事が嬉しくて、私は泣き笑いをするしかなかった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
道寺から、美しい二胡の音が聞こえ街の人々はその音色に聞き惚れていた。
今日は、楽曲ではなく彩雲国の国語りだった為、外にいた黒髪の少女は唄う事をせず静かに聴いていた。いつもなら二胡の音に合わせ唄っていたのだが。
少女は、周りの視線など気付かずに頬杖をしながら、うっとりとその音に耳を傾けている。
その姿は美少女と言っても過言ではない風貌をしていたため、二胡を聴きに来ていた者たちは耳の保養と目の保養を余儀なくされていた。
音色の余韻とともに道寺から小さいながら歓声が上がるのを聞き、彼女は顔を上げふわりと笑った。
その笑みは周りの人を虜にしそうな程、柔らかく美しいのだが本人はそんなのには全く気付く気配がなかった。
────いったい、何人街の若者が玉砕しただろうか。
十七歳という年頃も相俟って、求婚紛いの人間が多いが、いかんせん本人はそんなのには全く興味がないのか、はたまた鈍いのか「冗談ばっかり」としか取り合わなかった。
まぁ、彼女には害虫駆除がいたのだから仕方がないのかもしれない。
「──様、琳麗様!!」
「あ……れ? 静蘭? どうしたの?」
「どうしたのじゃありません! 琳麗様こそこんなところで何しているんですか?」
キョトンとしている少女──琳麗を見て、そののんびりっぷりに静蘭は額を押さえた。
この静蘭と呼ばれる青年は、やたらと美形で琳麗の邸の唯一の家人であった。
「ただでさえ琳麗様は、モテるのですからこんなところで一人でいたり危ないじゃないですかっ!!」
そんな彼の心配をよそにまた琳麗は、首を傾げた。
「やあねぇ、静蘭ったら。私がモテる訳ないじゃない! それに危ないって何が?」
「………琳麗様…頼みますからもう少しご自分を理解して下さい」
静蘭はまた、はぁ〜と溜息をつき、琳麗を眺めた。
まだあどけなさを残す顔だが、誰が見てもハッとする程美しい顔立ちをしている。緑ががった黒髪は長く、後ろで結い上げられ簪を挿していた。
肌は白磁のように白く滑らかで、口唇は可愛いらしくふっくらとして形のよい紅色だった。
少女から大人の女性へと変化する年齢だけに静蘭ですらドキッとさせる顔をする事もあった。
(……これなのに自覚がないのも困りものだ)
静蘭は、周りの視線を巡らせ一通り睨むとそっと琳麗の前に手を差し出した。
「さっ、お邸にお客様がいらしてますので、秀麗お嬢様を迎えに参りましょう」
「お客様?」
「えぇ、なんでも秀麗お嬢様と琳麗様にお会いしたいらしく……」
「…ふーん?」
琳麗は、静蘭の手を取り立ち上がると道寺にいる秀麗の元へと足を運んだ。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
邸への道のりを三人は歩いていた。
秀麗と呼ばれる少女は、琳麗の妹であり、道寺で子供たちに学問を教えたり、毎日家事、賃仕事に明け暮れていた。
今日は、このあとワリのよい仕事があったのだが、突然の来客のせいで行けなくなったと喚いていた。
往来で芝居じみたように秀麗は『どおしよ〜〜! お米が買えないっ!!』と叫び、静蘭にしがみついていた。
静蘭は人目を気にしてわたわたとしていたが、琳麗はそれをみてクスクスと笑っていた。
「お、お嬢様、誰もそんなこと言いませんから。麦はしゃべりません」
その言葉に琳麗は、可笑しかったのかブッと吹出し笑い始めた。
「り、琳麗様っ! 笑い事じゃありません!!」
「ふっ…ふふ……だって、静蘭ったら面白い事言うんですもん…可笑しくって……」
「姉様っ! 笑い事じゃないわっ!! また、また麦ご飯なのよぉぉ」
姉といってもたった一つしか違わないのもあり、背もさほど変わらないので秀麗は琳麗の肩に手を置きぐらぐらと揺さぶった。
「お、お嬢様っ!!」
「しゅ、秀麗…落ちっ、落ち着いて…」
「姉様が落ち着きすぎなのよー!」
「秀麗お嬢様っ! 大丈夫ですよ。私も内職増やしますから。こないだの大風で飛んでいった瓦の修理は早くしないと雨が降ったとき大変ですし、桶代も馬鹿にならないですからね。瓦だけ買えれば修理は私がやりますから、そのぶん浮きますよ。壊れた格子もお城から見繕ってもってきますし……ね、泣かないでください。私は麦のご飯大好きですよ、栄養ありますし」
「ふえええええん。静蘭いつもいつも迷惑かけてごめんねぇ」
今度は静蘭の服を握りながら、泣き出した秀麗の肩に手を置くと、琳麗はのんびりとしながらも口を開いた。
「大丈夫よ、秀麗。今日は私、これまでの賃仕事のお代頂いたから……お米買えるわよ」
「姉様──! 愛してますっっ!!」
その言葉にぱぁっ!!と瞳を輝かせ、秀麗は琳麗に抱き着いたのだった。静蘭は、やれやれと苦笑したのは言うまでもなかった。
『お米が食べれる』と喜ぶ姿を見て、琳麗と静蘭は顔を見合わせ笑った。
「お嬢様……お嬢様はよくやってらっしゃいますよ。毎日毎日家事をこなして、道寺で子供たちに学問を教えて、夕方までほうぼうに働きに出掛けて……きっと今日はお嬢様にくだされたお休みなんですよ。それにもう少ししたら私の給金も上がりますから……」
秀麗はみるみるうちに顔が喜びに綻び、琳麗も嬉しそうに微笑んだ。
「それってまた昇進するってこと?」
「すごいじゃない静蘭! ね、秀麗今夜は…」
「そうね、姉様! 今夜はご馳走ねっ」
「え? でも」
「大丈夫! 材料は少ないけど、色々やりようはあるんだから」
「そうよね、静蘭が昇進するんだものお祝いしなくちゃ」
「私の腕の見せ所よ! 見てらっしゃい、あっと驚くご馳走作るわ」
上機嫌に歩き出す秀麗を見て、静蘭はくすりと笑った。そして横から声が掛かる。
「静蘭、おめでとう」
ふわりと微笑まれ、静蘭は「ありがとうございます」とにこやかに返事をした。その姿はさながら愛おしむように見る男の顔だった。