壱
秀麗が後宮を辞して、琳麗が「通い」女官として王宮に出仕するようになって、ひと月が経った。
彩雲国の王都・貴陽は灼熱の太陽の下にあった。夏真っ盛りである。
紅 邵可邸の門前にて琳麗と静蘭は秀麗に見送られていた。
「暑いから無理しないでね、二人とも」
「大丈夫よ、秀麗」
「私もただの米倉門番ですからね。無理の仕様がありませんよ」
「だったらいいんだけど…」
「心配しなくても私は大丈夫です」
「私たちの事より秀麗の方こそ大丈夫?」
琳麗は心配そうに秀麗を見た。
「わ、私は大丈夫よ!」
少し元気がなくなってきている秀麗に琳麗は覗き込んだ。
「ほ、ほら、姉様! 早く行かないと仕事に遅れちゃうわよ!! ね、静蘭もほらっ!」
秀麗はごまかすように後ろにいる静蘭に目配せして、早く行ってもらうように促した。静蘭は苦笑して頷くと、琳麗の腕を取った。
「琳麗様、そろそろ行きましょう」
「ちょっ!? 静蘭!」
「では、行ってきます」
手を引かれながら、歩いていく琳麗と静蘭に手を振りながら秀麗は見送った。
「そういえば、静蘭。体調大丈夫?」
宮城に向かう途中、傍らを歩く静蘭を見上げ琳麗は訊いた。静蘭は不思議そうに琳麗を見つめていた。
「…体調、ですか?」
「うん、なんだかこの前機嫌が悪くなかった? 秀麗はあまり気付いてなかったみたいだけど…」
その言葉にぴたっと静蘭が立ち止まった。
「……静蘭?」
「いえ、あの……」
琳麗はくるっと後ろを振り返った。静蘭は少し呆然としている。
「どうかしたの? 静蘭」
「いえ、大丈夫です。参りましょう」
琳麗はスタスタと歩き出した静蘭を見るが、そのまま前を向いて歩いた。傍らの静蘭は、内心ため息混じりで彼女を見た。
──そう、嫌な夢を見たのだ。
この愛しいと想う少女が自分ではない誰かと結婚し、自分の前からいなくなってしまうのを。そんなことは分からず彼女は、隣で笑っていた。
◇◇◇◇◇◇◇◇
琳麗は、府庫へと歩いていた。回廊の途中に藍将軍と絳攸がいるのに気付いた。
「藍将軍?」
彼はなぜか壁に手を突いて静かに肩を震わせていた。具合が悪いのかと琳麗は慌てて近寄ったが、隣にいた絳攸が止めた。
「絳攸様? あの…藍将軍は?」
「気にするな」
「え、でも……」
困ったように琳麗が視線を送ると、楸瑛は笑いを堪えながら挨拶した。
「やあ、琳麗殿。相変わらずお美しいね〜」
「藍将軍、なにか面白い事でもあったのですか? 随分楽しげですが…」
「いや、主上の微笑ましい話を聞いてね。そうそう主上といえば、秀麗殿は元気かい?」
その質問には琳麗も苦笑した。“主上”という単語と“秀麗”といえばあの“贈り物攻撃”があったからだ。
「元気ですよ、先日面白い物が送られて来て……震えてましたからね。全く霄太師も面白がって助言するから……」
頬に手をあてため息をつく琳麗に絳攸たちも苦笑せざるおえない。
「そういえば、琳麗はどこへ行くんだ?」
「え? ああ、父様の所へ。今夜は家に帰れないので」
「なにかあるのかい?」
「……ええ」
口許に指を当て、内緒です。と笑う姿に絳攸も楸瑛も一瞬、見とれてしまったのは誰も気付かなかった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
夜、琳麗は仙洞省へと来ていた。
風雅の高楼を見上げ、唄を唄う。水が流れるような静かなその声は風に乗り、昊へと吸い込まれていく。
だが、待ち人は来なかったのか琳麗はため息をつき、その場を去っていった。
琳麗が去っていった後、髪を靡かせた青年が知らぬうちに琳麗がいた場所へと現れた。
彼は口の端をややあげ意味ありげになにか呟いた。そして、ふっと消え失せたのだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
琳麗は、後宮にある自分に与えられた室へと回廊を歩いていた。すると劉輝の姿が見えたので、女官らしくその場にて頭を下げていた。それに気付いた劉輝は声を掛けた。
「……琳麗ではないか、どうしたのだ? こんなところで」
「えーっと、散歩です」
「散歩って……こんな遅くにか? というか、家に帰らなかったのだな」
「たまたま仕事がありまして…」
「そうか、琳麗。話をしないか?」
少し寂しげな瞳が揺れるのを見てしまい、琳麗は是と答えた。
お茶の準備をし、主上の室へと向かう。誰が見聞きしているのか分からないので、琳麗は女官らしく口上を述べた。
「主上、お茶をお持ち致しました」
「……ああ」
少しよそよそしい態度が寂しかったのか声に元気がない。
「なにかあったのですか? ご気分があまり…」
「琳麗っ! そのっ……秀麗と静蘭はやはり仲がいいのか?」
「……はい? どうなさったのですか、いきなり」
「いいから、どうなのだっ!? 二人は」
「……そうですね〜、仲は悪くはありませんよ」
「…そ、そぅなのか〜〜」
ズーンと沈み込む劉輝に琳麗は慌てた。
「りゅ、劉輝様っ! そんな落ち込まないで下さい! 秀麗と静蘭が仲がいいのは今に始まった事ではないでしょう!」
「うっ…そんなにはっきり言わなくても……」
涙ぐむ王の姿に琳麗は苦笑した。ため息をつくと袷から手巾を取り出し、目許を拭った。
「ほらほら泣かないで下さい。秀麗と静蘭が仲がいいっと言っても昔からですし、そんなに簡単に諦めるようなものでもないでしょう」
「……琳麗は、誰か恋しい相手はいるのか?」
「え?…そうですね、いると言えばいるのかもしれませんし、いないと言えばいないのかもしれません。──多分、私はそんな相手を作ってはいけないのかも……」
最後の呟きは聞こえなかったらしく、劉輝は首を傾げていた。
「琳麗は不思議だな」
「何がですか?」
「なんとなく、そう思ったのだ」
琳麗は苦笑し、その後しばらく秀麗の事や霄太師と宋太傅の日々下らない言い争いの事を話をしてから室を出た。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
月のない昊を眺め、瞳を閉じる。
──不思議だな
その言葉が胸に残る
確かに自分は“普通”ではない。少しだが、風を操る力、風で気配を読む力。そして──あの真っ赤に燃える景色での記憶。崩れ去る中で云われた言葉
愛してる
その言葉は鎖となり自分を縛っているような感覚がある。
あれは“誰”なのか──知りたくて、知りたくない
そして、気にかかる事はまだあった。茶太保の最期の時の記憶が曖昧なのだ……夢をみたのかというように朧げだった。茶太保の隣に若い男がいたような気がする
あれは“誰”だったのだろう?だけど、その人の事が懐かしく覚えがあるような気がしてならなかった。
夢のようなあの時間。
思い出そうとすればするほど、頭の中に靄がかかってしまっている。まるで誰かが記憶を操作しているような、そんな感じがしてならない。
父様も静蘭も何も言わない。自分からもなんだか怖くて聞けない。
琳麗はギュッと腕を掴み、身を縮めた。
今夜もまた聞こえるあの誘う声に瞳を閉じた。