それは新年になってすぐの出来事だった。
秀麗の会試を受ける為の適性試験も終わり、近づくの会試に合わせて、琳麗は女官仕事の長期休暇をとった。まだ合否の知らせはないが十中八九及第はみえている。
それでもあの老君二人は「暇だ! つまらん!」「淋しいのう」などと嘆いていたが、秀麗の方が大事な琳麗はやんわりと二人を宥めて休みをもぎ取ったのだった。
しんしんと雪が降るなか、街を歩き買い物をしていると秀麗が塾を開いている道寺の堂主様が慌てて走ってくるのが目に入った。


「ああっ! 琳麗ちゃん!!」

「堂主様、どうかなさったのですか?」


吐く息が白く、琳麗を見つけると近くにより、はぁ、はぁと肩で息をついていた。


「大丈夫ですか?」

「わ、私はいいから……秀麗ちゃんが……川に落ちたんじゃ!!」

「ええっ!?」


堂主様の話では、柳晋を追いかけて誤って川に落ちたという事だった。なんとか街の人たちが助けてくれたらしいが、この季節の川は凍えるように冷たい。
琳麗は、慌てて秀麗がいる道寺へと駆け出したのだった。
報せを受けたのか道寺には静蘭もいて、秀麗を抱えると二人は邸へと急いで帰宅した。


「ううっ……寒い……」

「当たり前よ! ほら、早く乾いた衣に着替えて」


ガタガタ震える秀麗を火鉢の傍に立たせ、琳麗は着替えを手伝った。
寝台に横にさせるといつもより多めに掛布をかけた。


「熱が出始めているから、氷嚢作るわね」

「よろしいですか?」


室の扉を叩き、静蘭が入ってきた。


「静蘭、父様に文は?」

「お出ししました───多分、風邪ですね」


琳麗を見てから、静蘭は寝台に横たわってる秀麗の熱い額に手を当てた。秀麗の顔は真っ赤で、目も充血して潤んでいた。息づかいも荒い。


「真冬に川に飛び込むなんて……心鼓がそのまま止まらなくて、本当によかった」

「本当、聞いた時は肝を冷やしたわよ!苦しくない?」

「う…ん……あつ…風邪……なんて、何年ぶりかしら……」

「しゃべらないで下さい。何か温かい飲み物と氷嚢を作ってきますから。ちょっと待ってて下さいね」

「私も手伝うわ、静蘭」


背を向けた二人の裾を不安な気持ちで秀麗は掴んでしまった。袖を引かれ、静蘭は驚いたようだったが琳麗は苦笑し、静蘭も指が離れる気配に苦笑した。


「……ごめんなさい……子供みたいね」

「馬鹿ね、病気したら誰だって心細くなるわよ」


掠れた声で呟く秀麗に、琳麗は寝台の脇に座り、頭を撫でてこたえた。静蘭はそれを聞きながら、寝台の傍に椅子をひいてきた。
それに腰掛けて、汗ではりついた前髪をそっとはらってやる。布で汗を拭いながら、優しく囁いた。


「そばにいますから。眠って下さい」

「……静蘭の手……冷たくて気持ちい……」


その言葉に、静蘭はのけるはずだった手の平を秀麗の額に当てた。秀麗はひんやりとした感触に、ホッとしたように目を閉じた。
子供のように眠りについた秀麗を見て、琳麗は立ち上がった。


「しばらく秀麗をお願いね。私、何か作ってくるわ」

「……私が、」

「だめ。まだ秀麗のそばにいてあげて」


ニコッと笑い室から出ていく琳麗を見てから、静蘭は、額に当てていた手を頬や耳に滑らせた。熱の高さを窺わせるような熱さだった。

『……子供みたいね……』

秀麗の言葉と、さっき出ていった琳麗の後ろ姿を思い出し、静蘭は長い睫毛を伏せた。
彼女たちが子供でいられた時間は、あまりにも短かった。とりわけ琳麗はそうだった。
母を亡くした時から、彼女たちは誰かに甘えることを自分に許さなかった。まだ秀麗は琳麗に甘える事は出来たが、琳麗は……。
次々と出ていった使用人、彼らに持ち逃げされた多くの財産。突き付けられた現実を、いちばん最初に受け止めたのは琳麗だった。
大切な人を失って呆然としていた邵可と静蘭、まだ病で伏せっていた秀麗の手を引いた琳麗。
その琳麗と一緒に小さな手でご飯をつくり、掃除や洗濯をした二人に邵可と静蘭はようやく我に返ったのだった。その時、二人が頑張った結果が惨憺たる有様だったとしても。

(……もう少し私がしっかりしていたら)

今でも静蘭は悔やむ。
はじめに立ち上がったのが自分だったなら、彼女たちはまだ守られるべき子供でいられたろうに。
何をしていいかわからなかったあの時の自分が今でも情けない。
袖を引かれた感覚を思い出し、微笑する。昔、幼い頃秀麗がよく自分にした仕種だ。
秀麗が僅かでも甘えるのは、琳麗と邵可か自分だけだろう。それがなんとなく嬉しく、誇らしかった。
静蘭は顔をかがめると、秀麗の耳にそっと何事か囁いた。そして、ふと思った。そういえば彼女はあの頃から大人びていたような気がする。今、庖厨にいる彼女は───。


音を立てないように秀麗の室から出て静蘭は庖厨へと足を向けた。
ぐつぐつと温かい汁ものを作っているらしく、爼板を叩く音が聞こえてきた。


「琳麗様……」

「静蘭。どう眠った?」

「ええ」

「そう、やっぱりね。昔から秀麗は、静蘭がお気に入りだったもの」


クスッと笑みを浮かべる琳麗に、静蘭は同じ事を言った女主人を思い出す。


「そうそう、昔は秀麗がよく寝込んでた頃は静蘭ってまだ無表情だったわよね!」

「琳麗様っ!?」

「よく母様に笑顔の強要されてたわよね。確か、最低一日一回笑顔だっけ? 秀麗がにこっ、して。って言ってもしてくれなくて拗ねちゃったのよねぇ〜」

「……あ、れはわざわざ奥様や旦那様、それに琳麗様まで見物しようとしたから……」


思いがけない昔話に頭を悩ませながらも、不快なものではなく温かく優しい記憶だった。
クスクス笑う琳麗を見て静蘭は、苦笑した。


「そういえば、琳麗様はしょっちゅう笑いながら私の後を付いてましたね。琳麗様と秀麗お嬢様にまるでひよこのように後を追われて困惑しました」

「ふふっ、だって静蘭の笑顔見たかったのよ」

「……見世物じゃないんですが」

「だって、母様が言ったの。その人の笑顔が見たかったら、まずは自分が笑顔を見せなさいって」

「……そうですね、なんだかそのせいでいつの間にか笑ってましたね」


多くのものを静蘭は忘れようとしていた。何もかもを捨て去ろうとしていた。大事なものをすべて一緒くたにして。
けれどこの邸にいるうちに、彼はゆっくり、大切なものだけを取り戻していった。笑顔、というのも、その一つだった。


「さ、氷嚢も作らなきゃ! 静蘭お願いしていい?」

「もちろんです」


静蘭の微笑に琳麗も笑みを零した。


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蒼天の華 / 恋する蝶のように