「余、余は何もしていないと言ったのに……」


大好きな静蘭(兄上)と邵可に一瞬とはいえ鬼神のような形相を向けられた劉輝は、しくしくと泣きぬれていた。
さすがに罪悪感を抱きつつ、静蘭はちらりと劉輝を見れば琳麗の背に隠れていた。
先ほど琳麗が劉輝を庇った……というかある椀を示した。それは邵可が作った生姜の入ってない生姜湯が入っていた椀。
つまり、秀麗が悲鳴を上げたのは劉輝に襲われた訳ではなく、これが原因という訳だ。ちなみに邵可は何もなかったと判ると、さっさと庖厨に飛んでいった。


「仕方ないわ、父様お手製の生姜湯を知らずに飲ませてしまったんだもの」


琳麗は苦笑混じりで劉輝を見ると、うるうると涙目で抱き着かれたのだった。


「ううっ…琳麗ならば分かってくれると信じていたのだーっ!!」

「りゅ、劉輝様っ!」


めそめそ泣く劉輝に琳麗は驚き、苦笑すると背を撫でて上げた。
静蘭はその光景を一瞥しつつ、持って来た水を秀麗に差し出した。今度こそまっとうな水をがぶがぶあおりながら、秀麗はまだぼろぼろ涙を零していた。


「しょ、生姜湯って……全然生姜の味しなかったわよ!?」

「生姜は切らしておられたようだ……生姜がないのに生姜湯をつくれるとはさすがは邵可様」


なんとか邵可の威厳を保たせようと奮闘した絳攸だったが、言葉にした途端、己の敗北を自覚した。


「……絳攸様、無理なさらないで下さい」

「……す、すまない!」


琳麗は苦笑しながら言うと、絳攸は顔を横に向け咳ばらいをした。


「ああでも、確かに元気にはなったかな。熱も下がりはじめたんじゃないかい」


楸瑛が感心したように呟いて秀麗の額に手を伸ばそうとすると、うしろから絳攸にガクンと襟をひかれ、前方にすかさず静蘭と劉輝が割って入った。


「……私はそんなに信用ない?」

「あるわけないだろ! この常春頭」

「ご自分の日々の行状を振り返って下さい」

「珠翠から後宮での楸瑛に関する苦情を毎日聞かされているのだぞ」


次々間髪いれずに返ってきた返事に、琳麗はクスクス笑い、楸瑛は目の端でそれを見てため息をついた。


「……いくら私だって病の女性に手を出すようなことはしないよ。まあ、確かに髪を下ろした秀麗殿は艶が増して、桃のように染まった頬も愛らしくて魅力的なのは認めるけれど」

「春まで雪に頭突っ込んで氷づけになってろ! 真冬に季節外れの花咲かすな!」


直ぐさま絳攸に罵倒されていた。秀麗はそれを聞き苦笑せざるおえなかった。


「そんなことより、柳晋の具合は?」


尋ねると楸瑛が答えた。


「黄尚書の邸で手当を受けています。手足に少し凍傷がおきてましたが、心配はいりません」

「全く……無茶して」


それを聞いてややホッとしつつも秀麗は起き上がった。


「お嬢様?」

「私、柳晋の様子見てくる」

「いや、しかし!」

「だって、心配だもの」


静蘭が止めようとするが、秀麗は身支度を整えようとしていた。


「秀麗、気持ちは分かるけど。まだ寝てなきゃダメよ」

「姉様……」

「これでまたこじらせたら柳晋が気に病むわ。それに」


琳麗がちらっと扉を向くとバタンと開いて柳晋と奇人が入って来た。


「柳晋!」

「……どうしても、見舞いに行くと言ってきかなかったのだ」


仮面でくぐもった声に琳麗はクスッと笑った。葉医師に『今日一日は絶対安静』と念を押されていたのに。


「秀麗師……ごめん…」

「柳晋…」


差し出された小さな花を受け取ると、いつも元気いっぱいな悪ガキが謝りながら、ぼろぼろと涙を零している。


「……秀麗師、これからお道寺での勉強はちょっとお休みするって言ったじゃん。でも俺、堂主様に聞いちゃったんだ。ずっと来れなくなるかもしれないって!」

「────」


嘘はつけなかったから、秀麗は何も言えなかった。
もし──もし会試と殿試に及第することが出来たら。夢にまで見たその日が訪れたら、……もう塾は出来なくなる。


「ほ、本当は、宿題だって毎日やってた。でも出したらそれで終わりじゃん。琳麗お姉ちゃんもいなくなって、秀麗師もいなくなるなんて嫌だったんだ。でも、困らせるつもりはなかったのに…俺……」

「たくさん我慢させて、ごめんね」


ごめんと何度も繰り返す少年に、秀麗も琳麗も苦笑した。秀麗はその頭を優しく撫でた。


「……秀麗師、嫁になんていくなよっ!」

「…よ、嫁っ?」

「えっ? 秀麗、お嫁に行くの?」


柳晋の言葉に驚く秀麗に、琳麗も思わず口に出した。


「ちょっ、姉様までなに言って……」

「俺、あと五年たったら静蘭に負けないくらいいい男になるからさ!」

「ちょっと待つのだ、少年! そういうことなら余もあと──」


それを遮るように飛んで来た何かを劉輝は身をひるがえして、はっしと受け止めた。
反射的に受け止めたそれを見て、秀麗と柳晋、琳麗以外の全員がうっと息を詰める。琳麗は、額に手をあてるしかなく扉の脇にいる黎深に目を向けた。


「扇子……? なんでいきなり…」


キィと扉が開き、邵可が盆を持って入って来た。


「おや、劉輝様、申し訳ございません。手が滑ってしまいました」


お粥の盆を手ににこにこ入ってきた邵可は、あっさりそんな嘘を言った。
扉の脇でわなわな震えている黎深を見て、養い子の絳攸は目を伏せた。


「柳晋くん。お父さんが心配しているからそろそろ帰りなさい。秀麗の為に薬草を摘んで来てくれてありがとう」

「はい」


労るように優しく言うと、柳晋は元気に返事をした。邵可は秀麗を見ると


「あと皆さんにお礼を言いなさい。君が熱を出したと聞いて、お見舞いに来て下さったんだよ。特に黄尚書はそこに飾ってある蘭やお薬を持ってきて下さってね」


秀麗は顔を上げると、琳麗の横にある花瓶に生けられた見事な蘭花に目をすべらせ、室の隅でゆったりなりゆきを見守っていた黄尚書を仰いで、照れたように笑った。


「す、すみません黄尚書、何のおかまいもできなくて……こんな綺麗なお花まで下さって。男の方にお花頂くことなんか滅多にないですから、嬉しいです」


その物言いに琳麗は首を傾げた。


(……あれ? 男装してたのってばれてたんだっけ?)


そんなことを考えていると秀麗が卓子にテンコ盛りになっていた包みの中身を指差した。


「もしかして、あの糖蜜漬けやお薬の山も黄尚書が?」


再びその場に緊張が走った。


「……いや、あれは私ではないが」


黄尚書が違うと答え、秀麗は楸瑛たちに尋ねていた。琳麗は並べてある沢山物を見た。
蜜柑に苺、桃にスモモの糖蜜漬け、大量の生薬。しまいには精力増強剤に月のもの用、陣痛止めまであった。

(…………叔父様……)

楸瑛でも絳攸でも、ましてや劉輝でもない。秀麗は首を傾げながら呟いた。


「……あと誰かいるの?」


その瞬間、秀麗以外の全員が意識を扉へ向けた。なんとかきっかけをつくろうとした琳麗と絳攸に、邵可は視線で制する。

──甘やかしてはいけない。

一、二、三。応答なし。

邵可は無情にも、落第の判子を弟の額にベコッと押した。


「いらっしゃったんだけどね、もう帰ってしまわれたよ。この扇子は忘れ物かな」

「え? やっぱりどなたかいらっしゃったの?」

「自分できちんと名乗りたいそうだからそれはまだね。好意だけ受けておきなさい」

「う、うん……?」


邵可の言葉に疑問符を浮かべる秀麗に持って来た盆を差し出した。


「さっき静蘭がお粥を作ってくれたから、食べれそうなら食べて、またゆっくり眠りなさい。いまお茶を淹れてくるからね」


最後の一言にその場は凍りついたが、制止する前に邵可は出ていってしまった。秀麗の熱が下がってきたのを知って上機嫌なのである。


「と、父様っ! お茶なら私がっ……」


慌てて琳麗が追い掛けていくが、客人たちを道連れにしないように、秀麗は口を開いた。


「……い、今のうちに皆さんおおお帰りになって下さい。──」


そんな秀麗の声を聞きながら琳麗は庖厨へ行こうとして、室の外でぶつぶつ言っている黎深を見た。


「……叔父…私は君の叔父さん…叔父上で、優しい紅 黎深です…」


その様子にさすがの琳麗もビクッとした。恐る恐る声をかけようとして、背後からくぐもった声がした。


「黎深。迷惑だからこんなところで置物になってるんじゃない」

「……ずっと君を物陰から……毎朝毎晩でも君のお饅頭を食べたいと願い幾星霜……」


どうやら邵可がとっくに落第印を押したことにも気付かず、ずっと自己紹介の練習をしていたらしい。
その姿をみた柳晋は首を傾げた。どうしたの、この人?と窺ってくる視線に琳麗は苦笑した。


「……色々あるのよ。じゃあ、ちゃんと安静にするのよ! 柳晋」

「うん、琳麗姉ちゃんもごめんね。ありがとう」


頭を撫でてやると、奇人に目をやった。歩き気のない黎深を力ずくで引きずりながら、行くらしい。
琳麗は苦笑し、黎深と柳晋を見てから奇人に頭を下げた。


「……お世話おかけします」

「ああ、琳麗も無理しないようにな」

「大丈夫です。叔父様、父様と二人で食事出来てよかったですね」


その言葉に、黎深はかなり長く黙ったのちぼそりと呟いた。


「…………今度は琳麗も、一緒に…」

「……いつでも付き合いますよ。あ、じゃあ鳳珠様。色々ありがとうございました。……お見送り出来なくて申し訳ございません!」


そう言って、庖厨の方から聞こえてきた何か割れる音に琳麗は走っていった。


「琳麗の言う通りだ。良かったじゃないか。今日はそれで満足しておけ」


黎深は琳麗が走っていった方を眺め、小さく肯いたのだった。


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蒼天の華 / 恋する蝶のように