道端の水溜まりが芯まで固く凍りつき、凍えるような風に首をすくめる。
足を踏み出すたびに、ぱきりと霜が音をたてた。誰もが暖かい火のそばを離れたがらないこの季節──彩雲国の王都だけは、一種独特の熱気に包まれる。
全国各地から、緊張や不安、期待と自信、そしてわずかな興奮を秘め、多くの者たちが王都貴陽に足を踏み入れる。
出自も身分も年齢も多種多様な、けれどただ一つ同じ目標を胸に。
絶望と希望。歓喜と落胆。光明と奈落。去る者と残る者。一年でもっとも多くの感情が交錯し、これからの運命さえ左右する──それは国試最終試験の時節。
そして今年もまた、様々な人間が王都へ足を踏み入れる。


   ◇◇◇◇◇◇◇◇◇


秀麗が会試に向けて色々な働き口へ暇乞いを出している頃、琳麗は邸にて家事をこなしていた。
本来ならば女官として王宮へ出向かなくてはならないが、それは秀麗が残り一月を勉強に費やせる為であった。
秀麗はそんな……と困った顔をしていたが、邵可、静蘭と決めたことだからといえば困惑した後、笑顔でありがとうといっていた。


「よし! 掃除終わりだわ。後は今夜の菜の準備しなくちゃ──」


そう呟いた時、琳麗は何かを感じたのだった。どこか懐かしく知っている何かの気配を感じた。なんだろう……と振り返るとポスッと目の前に見知った色があった。


「どうかなさいましたか? 琳麗様」

「静蘭っ! お帰りなさい。びっくりしたわ」

「琳麗様こそ、声をかける前に振り向かれたので驚きました」

「今日は随分早いのね。まだ菜作ってないのよ。あ、でも秀麗の迎えに行ってもらおうかしら」


腕の中で色々話す主に静蘭はクスッと笑った。


「琳麗様、今夜は酒楼でお夕飯にいたしませんか? 臨時収入がありましたので」

「臨時収入……?」

「はい。せっかくですから秀麗お嬢様の適性試験に及第されたお祝いを致しましょう」

「そう、ね。お祝いはいいんだけどその臨時収入ってどこから?」

「藍将軍です。琳麗様ならご存知かもしれませんが、会試までひと月あまりです。各州試の首席及び次席及第者の警護を任せられまして」

「……なるほど。それで静蘭が秀麗の護衛で借り出されたという訳ね。借り出さなくても常日頃警護しているのにね」


琳麗はクスッと笑うと、静蘭も笑ったのだった。しっかり給金を頂いてくるところが流石と思ってしまう。


「じゃあ、秀麗を迎えに行かなくちゃね。父様には?」

「旦那様には伝えてありますので。琳麗様は旦那様といらして下さい。私は秀麗お嬢様の迎えに」

「今日は“あそこ”だからね」

「そうですね。では先に行ってます」


静蘭はそう言うと邸から出て行った。その後帰宅した邵可に夕飯の事を伝えると、のほほんとした笑顔で頷き、二人は酒楼まで歩いていった。


   ◇◇◇◇◇◇◇◇◇


闇が迫り、人通りの多くなってきた大路を琳麗は邵可と歩いていた。その激しい往来をおぼつかないあしどりで歩く邵可に琳麗は苦笑した。


「父様、普通に歩いたら?」

「何を言っているんだい? これが普通だよ、琳麗」

「……そうね。あ、静蘭と秀麗だわ」


こちらを見ている静蘭と秀麗に琳麗は手を振った。ようやく近づくと秀麗がなにやら驚いてキョロキョロ辺りを見回していた。


「今日もお仕事ご苦労様、秀麗。どうかしたかい?」


邵可がにこにこ笑顔で訊くと、まだ辺りをキョロキョロして誰かを探している秀麗が口に出した。


「う、うん、ちょっと今、連れがいたはずなんだけど、いなくなっちゃって。十二、三歳くらいで、私と同じ背丈の、父様みたいなぽやーっとした男の子でね」

「父様みたいなぽやーっとした……」

「……秀麗お嬢様、もしかして、彼ですか?」


静蘭の示した方向を見て、秀麗はぎゃふんと飛びあがった。いかにもな風体の破落戸数人に囲まれて、路地裏に連れ込まれようとされている少年がいた。
確かにおっとりしていそうな雰囲気が父様と似ている……と琳麗は思った。


「そう、あの子っ! いやーっ! ちょっとちょっと、あんたたち──!」

「しゅ、秀麗お嬢様はここにいらして下さいね。すぐ済みますから!」

「そうよ。ここは静蘭に任せましょう」


算盤の入った重い巾着を振り回して今にも飛んでいきかねない秀麗を押し止め、静蘭は人の波を器用に縫ってカツアゲ現場に急行する。
ハラハラと秀麗が見守っていると、次の瞬間、その彼を連れて路地に消えようとしていた男たちが、そろってすっころんだ。
まるで雪合戦で思わぬところから雪玉でも当てられたかのような、奇妙な転がり方だった。
そちらに向かいかけていた静蘭も、思わぬ事態にきょとんとしている。


「ど、どうしたのかしら」

「……どうしたんだろうね。でも助けられたようで良かったね」


隣に立った邵可が、秀麗の呟きに飄々と応えたのを琳麗が見ていると邵可はにこにこと笑顔を向けた。


「影月くん、怪我してないといいけど……」

「影月くんっていうの?」

「うん。杜 影月くんよ。黒州から来たんですって」


割れていた人混みが、また何事もなかったかのように流れだす。
そのため、地べたに転がった破落戸を問答無用に踏ん付けた静蘭が、次々と路地裏に蹴り込むという乱暴な場面は、秀麗の目には映らなかった。
しかし、琳麗と邵可はなんとなくだがどうなっているのかを理解していたのだった。
やがて影月が静蘭に手を引かれて戻ってきた。やや小突かれてヨレた感はあるものの、見えるところには傷はない。秀麗はホッと息をつき、すかさず大事なことを訊いた。


「お財布は!?」

「え、と……、あ。……巻き上げられましたー……」

「「「「………………………………………」」」」


とろい。さすがの紅家一行、もはや返す言葉がなかった。


   ◇◇◇◇◇◇◇◇◇


秀麗が何かをごまかしながら、かいつまんで事情を話すと、琳麗と邵可、静蘭は顔を見合わせて苦笑した。
試験直前の大切なこの時期に、他人の面倒こどを背負い込む者はそういない。もちろん、三人は影月の滞在を快く受け入れた。


「それにしても最初からとんだ災難だったね……」


評判の酒楼に席をとり、菜を頼んだあと、邵可は労るように影月に声をかけた。


「黒州からじゃ、ずいぶん大変だったろう」

「そうよ。しかも十三歳なんですって。でも今は会試直前でたくさん外の人が入ってくるときだし、慣れない人が貴陽にくるのはちょっと危ないと思うの。ご用があるなら早めにすませて帰ったほうがいいわよ」

「そう…ですねー……」


秀麗の指摘に、影月は曖昧な笑みを浮かべた。


「それにしても、だいぶ受験者が増えてきましたね」

「そうね、大変そう」


静蘭の言葉に琳麗が頷き、周りを見ると、酒楼のあちこちに書物を片手に食事をとる書生がいる。
その時、がたりと椅子を鳴らして立ち上がった赤ら顔の書生が、朗々と詩文を暗唱し始めた。自分の才をひけらかして得意満面である。しかし。


「あ」「あ」


秀麗と影月が同時に声をもらした。


「間違ったね、今」


邵可があっさり言った。むろん静蘭も琳麗も気付いていた。


「良く気がついたね。ほんの一語の間違いだったのに」

「え!? な、ななななんのこと父様」

「ぼ、僕ちょっと前の街で忘れ物してきたのを思い出しただけで別に深い意味は!」


焦る秀麗の気持ちは分かったが、なぜか影月も焦って手を振っているのを見て、琳麗は首を傾げた。

(……もしかして、この子…)

頃合いよく、菜が次々と運ばれてきた。注文よりずいぶん多い皿数に秀麗は目を瞠った。


「ちょっと荘おじさん、頼んでないものまできてるんですけど!」

「おごりだよ」


秀麗たちの前に皿を並べ終えた酒楼の主は、にっかと笑った。


「あっちこっちで秀麗ちゃんに暇乞いされたって話を聞いたからな。またどっか行くんだろ? 琳麗ちゃんもずーっとここいらの賃仕事にいないしな。二人には散々世話になったからし、滅多に食いに来てくれねぇし、ほんの礼だ。今日はたらふく食ってきな。そのかわりと言っちゃなんだが琳麗ちゃんに歌を頼みたかったんだが、駄目かい? 久々に来てるし。前に歌ってもらった時の評判がすげぇんだよ。もちろん、おごりとは別に給金出すからさ。秀麗ちゃんも帰ってきたらまた帳簿つけるの手伝ってくれよ」


琳麗は別に歌くらいは構わないと思いながらも、隣に座る秀麗を見た。卓子の下で拳を握りしめ、それからゆっくりと笑顔をつくった。


「勿論。帰ってきたら、またお仕事下さいね。お給料は銅一両上乗せで。で、姉様はどうするの?」


見れば荘おじさんは頼むよ〜という顔をしていた。琳麗はクスッと笑うと


「一曲くらいならいいですよ。琵琶ありますか?」

「おう、あるぜ。じゃあ、後で頼むよ」


そう言って荘おじさんは奥へと戻っていった。


「秀麗お嬢様、この鴨の変わり四菜、それぞれおいしいですよ。はい、どうぞ」


静蘭が皿に四種の鴨菜をとりわけ、秀麗の前にコトンと置いた。
なにか考えていたのを察した静蘭らしい気の配り方と思い、琳麗は邵可と笑みを交わした。秀麗もにっこりと笑った。


「ありがと静蘭。ほんと、おいしそう。うちでもつくってみようかしら。鴨もあればね」

「とある筋から鴨を調達しましょう。あ、ちなみに今日のご飯代も、藍将軍のお志です」


その言葉に琳麗は苦笑し、秀麗は視線を菜に向けていた。


「……気のせいかしら。藍将軍にタカってるような気分になってきたわ」

「お志ですよ」

「……それをタカってるって言うんじゃ……」

「いいんですよ。花街で湯水のように遣われるくらいなら、私たちの生活向上に役立てて頂いたほうが、よっぽど有益というものです」

「…………そうかも」


にこやかに笑う静蘭のごり押しに秀麗も頷いてしまった。
琳麗はさすが公子一優秀と言われた元公子様の片鱗を見たような気がしたが、まだまだ序の口だということをなんとなく感じていた。

(……藍将軍、大変ですね)

一体、どんな思いをしているのかと琳麗は想像していたのだった。


「さ、食べましょう。秀麗」

「ええ、姉様」


食べようとしたとき、隣の席から大声で話すのが聞こえてきた。


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蒼天の華 / 恋する蝶のように