壱
それはどこから聞き及んだのかは覚えていなかった。たぶん後宮で女官たちが話していたのか、はたまた回廊を歩いている時に耳にしたのかは覚えていない。
ただ、なんとなく口にしてみただけだった。
コポコポと湯呑みにお茶を注ぎ、琳麗は霄太師と宋太傅の前にコトンと置いた。
「お熱いですから、お気をつけ下さいませ」
二人はうむ。と頷きながらも茶に手を伸ばし口をつけた。
「ほぅ……今日は甘露茶か…」
「はい、たまにはよろしいかと思いまして」
にこりと笑みを浮かべ、琳麗は無くなった茶を追加したのだった。
「明日は新進士任命式だったのぉ、どうじゃな? 秀麗殿の様子は」
「……夢を叶えたあの子はまっすぐ前をみております。夢を叶えた後は始まるだけです。──そうそう、最近変な噂を耳に致しました」
「「変な噂?」」
霄太師と宋太傅は口を揃え、琳麗の方を見た。少し首を傾けた姿はとても武術に優れているとは思えないおっとりさがある。
「ええ、なんでも禁苑の──仙洞省の辺りでしょうか? その楼閣に男の幽霊が出るとか……」
「……幽霊だと?」
それに反応したのは宋太傅だった。霄太師は少し顔を俯かせ、話を聞いているだけに留まっていた。
琳麗は、その話を宋太傅にしながら霄太師を眺めていた。否、彼が手にしている梅干し壷を。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
進士式当日。
琳麗は早めに王宮へと来て、彩雲国国王である劉輝の支度を手伝っていた。王族だけが赦される紫色の正装に身を包んだ劉輝は、琳麗に礼を述べた。
「すまなかったな、琳麗。手伝わせてしまって」
「まさか、私にこんな役目が回ってくるとは思いませんでしたわ。さ、髪を結い上げますからこちらに」
劉輝を促し、椅子に座らせると彼の少し癖のある柔らかな髪を丁寧に梳き結い上げていく。仕上に冠をのせ、それを支える紐を手早く結っていった。
それは素早く正確なのだが、劉輝は琳麗の手が優しく触れてくれるのがなんだか嬉しかった。
「……さ、出来ましたよ」
「ありがとうなのだ」
劉輝はスッと立ち上がり窓辺へ寄ると外を眺めた。小さな音を出して、琳麗は櫛などを片していると扉が開いた。
「お支度は調われましたか」
室に入ってきた楸瑛に琳麗は笑みを浮かべ、そっと頷いてみせた。彼も女好きするような甘い笑みを浮かべ、窓辺にいる主をみた。
「……皆、揃っているようだな」
「ええ、ほぼ」
「揃ってない者もいるようだが」
すでに榜眼及第した彼が欠席しているのを聞いていた琳麗は、クスっと笑った。楸瑛も苦笑せざるおえないようだ。
「……まあ、いますね。理由は私に訊かないでください。訊かれてもわかりませんので」
劉輝も小さく笑い、再び窓の外を見る。青い──青い昊だった。抜けるように蒼茫たる昊。
「良い日だな」
呟いて、踵をかえす。琳麗は扉を開き、跪拝をして彼らを送り出した。彼はゆっくりと目的の殿まで歩き出したのだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
進士式も終え、女官仕事を終えた琳麗は邸に帰ろうとしていた。
「琳麗殿」
名前を呼ばれ振り向くと馴染みの高官と武官が立っていた。その両手に沢山の食材を持ちながら。
「藍将軍、絳攸殿。これからお帰りですか?」
「ああ、今日は秀麗殿のお祝いだからね」
「そうでしたわね。いつもすみません、沢山頂きまして」
礼をいう琳麗に二人はいいや。と答えるとせっかくだからと琳麗を軒へと案内し、そのまま邵可邸へと揃って向かった。軒の中で、琳麗は口を開いた。
「本日の進士式は些か騒がしかったと聞き及びましたが、そうだったのですか?」
「ああ、なんというか。まあ、騒がしかったな」
「絳攸の最年少記録が破られた上に、女人が最前列に並んでいたからね」
「霄太師や宋太傅がしみじみと申しておりましたわ。……すっぽかした強者がいた、と」
そのすっぽかした強者の兄である楸瑛はただ笑うだけだった。
「まったくだ。進士式をすっぽかすなんてな!」
「……まあ、仕方ないだろう。私にはどうしようもないよ」
やれやれと話す楸瑛に琳麗は苦笑を漏らすことしかできなかった。そうして談笑しているうちにギシッと軒は止まり、邵可邸へと到着したのだった。
「お帰り、琳麗。ようこそいらっしゃいました。藍将軍、絳攸殿」
「ただいま、父様」
「「お邪魔いたします。邵可様」」
出迎えた邵可に挨拶を述べ、秀麗に食材を持っていこうとした。
琳麗は一人で頂いた食材を運ぼうとしていたが、さすがに持てないのをみた絳攸と楸瑛は、庖厨まで運ぶことにした。
「申し訳ございません、藍将軍、絳攸様」
「いや、気にしなくていいよ。琳麗殿」
「そうだ、このくらい気にするな」
そんなことを話しながら庖厨へと近づくと秀麗の声がする。気配から静蘭だけでなく、もう一人いることに首を傾げつつ、誰がいるのか声が聞こえた。
『影月くんが状元及第してくれて本当に救われたわ』
『え?』
『進士式トンズラしやがったあの男』
その声とともにドカッという音が聞こえ、琳麗は苦笑した。
(また、麺棒で叩きまくっているのね)
怒りの発散方法が家事である秀麗は話しながらも、何かを叩きつけているようだ。
『はっきりいって、あの男が第一位及第だったら私、この世の無情に絶望してたわ。だいたいなんであの男が榜眼なの。みんなが必死に勉強してんのに宿舎では寝てばっか! たまに起きたかと思えばピーヒョロ笛吹いてんのよ!!』
またドカドカッっと音がした。そして、まだ子供のような少年の声がした。
『…………えーと…………色々な意味ですごい人でしたよねー。外見も中身も』
『おまけに人が作ったものたらふく食べておいて「そなたが嫁きおくれた暁にはこの私専属の庖丁として召し抱える」って真顔で言われたときには本気で蹴ってやろうかと思ったわ。藍将軍の弟さんだから必死に我慢したけど』
そんなことを聞かされた楸瑛は、本当に詫びたい気持ちが一杯だった。庖厨に顔をのぞかせ口を開いた。
「……それは、どうもありがとう。我が弟ながらまったく耳が痛い」
弾かれたように中にいた秀麗、影月、静蘭はこちらを向いた。
楸瑛はばつが悪く口許を覆い、絳攸は楸瑛に冷たい視線を送り、琳麗は苦笑するしかなかった。
「あ、もういらしたんですか。すぐ出来ますから、待ってて下さいね」
「私もやるわ、秀麗」
飛び上がらんばかりに驚いた秀麗は笑みをつくり、琳麗はクスクス笑いながら餃子を作り始めた。