壱
庖厨で朝餉の支度をしていると後ろから声をかけられた。
「おはようございます。琳麗様」
「あら、おはよう。静蘭……」
くるりと振り向いて静蘭の顔をみて琳麗は首を傾げた。その仕種に静蘭も首を傾げてしまった。
「どうかなさいましたか? 琳麗様」
「ねぇ、静蘭……なにかあった?」
「……え?」
琳麗はそっと静蘭の頬に手を伸ばした。伸ばされてくる彼女の手にドキリとしながら静蘭は困惑した。が、次の瞬間ぶにっと頬に痛みが走る。
「り、琳麗様っ!」
「なにか、考え込んでそうね。悩み事なら聞くからいってね」
にこりと笑って、琳麗は手を引っ込めるとまた朝餉の支度に取り掛かった。静蘭は何かを言おうとしたが、それは少し寝坊した秀麗のパタパタと走ってくる音で遮られたのだった。
頬を摩り、静蘭は食卓の準備をする為に広間へと足を運んだ。
ふと、足を止め室に置いてある量産型の官給品の剣を思い出し、ため息をついた。そして今出てきた庖厨を見る。もうひとつため息をついた。
――彼女はなんて鋭いのだろう…
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
琳麗は、女官の仕事の為に秀麗たちより早く邸を出てすでに王宮に来ていた。
霄太師には「ちょっとすることがあるのじゃ……」と言われ、現在彼らは朝廷三師の室にはいない。どこに行ったのかと思えば、酒瓶を片手に歩いている宋太傅を見掛けた。
「……宋太傅?」
「琳麗か!」
いつもとはやや違う雰囲気に琳麗は片眉を上げた。彼が歩いて来た方を見遣り、手にある酒瓶に目をやる。そして、宋太傅を近寄ると些か酒の匂いが漂った。
「……こんな昼間から何をなさっているのですか!」
「い、いや、霄とちょっとした勝負をだな……」
彼女の態度につい、口が滑ってしまい、しまった!と宋太傅は珍しく口許を覆った。
女官といえど、琳麗は自分たちが無理矢理続けさせている立場なので力関係の傾きは表面とは大きく違う。
まして、琳麗は言いたい事はきっちりいう方なのだ。みれば、やはり怒っている。
「……いいお年を召した方が飲み比べなんて何をお考えですかっ!」
「ふん! わしが酒に呑まれるものかっ! 奴には聞きたいことがあるから負けられんのだっ!」
言うだけ言って逃げるように走っていく宋太傅を見て、琳麗は額を覆った。いくら酒に強いといっても、身体に負担がない訳がない。
やれやれと嘆じて、琳麗は庖厨所へと足を向けた。渋いお茶と、消化によい菜を作る為に。そして、ふと足を止めた。
クスリと笑みを浮かべ、執務室で王の代わりに仕事をしている彼らにお茶と菓子を運ぶことにした。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「……俺も甘いな」
書翰を整理しながらカラの執務机案を見た絳攸に、楸瑛は笑った。
「そうでもないだろう。いい措置だったと思うよ、色々な意味でね。今回ばかりは静蘭を使うわけにはいかないし。主上の腕なら補ってあまりある」
それに、と楸瑛は絳攸を手伝いつつ付け足した。
「君だって、主上に同情しただけで了承したわけじゃあるまい?」
絳攸が公務に関して感情に引きずられる男ではないことを、楸瑛は知っている。
「まあな。とりあえず朝議と春の除目の選定、あと最低限の仕事だけしてくれればいい」
そこで執務室の扉が叩かれた。
もし、主上に直接用事がある者ならば今の不在をなんとか理由をつけて返さねばならない。などと考えていると向こうから声がした。
「お茶をお持ちいたしました」
聞き覚えのある声にホッとして、楸瑛は扉を開けると女官服を纏った琳麗が盆に茶器とお茶請けを持って立っていた。
「やあ、琳麗殿。いつもすまないね」
「藍将軍、絳攸様。お疲れ様でございます」
さらさらと衣擦れをして、盆を卓子へと置き、琳麗は微笑んだ。
「劉輝様は、行かれたのですか?」
その言い方に絳攸はぎょっ!としてしまう。
――なぜ、知っている?
楸瑛も同じことを思ったのか顎に手をやり、琳麗を見た。
「琳麗殿、いったいどこでお聞きになったのですか?」
自分たちと本人、あとは護られる彼らしか知らないであろう事柄を彼女は知っていたのだ。
「……ふふっ、それは秘密です。と言っておきましょうか」
どこか楽しそうに笑う琳麗が、こういったら、口を割らないことを知っていた二人はため息をつくしかなかった。
カチャカチャとお茶の準備をし、コポコポと注がれる音が室に響いた。スッと前に茶を差し出して、琳麗は苦笑した。
「……そんなお顔なさらないで下さい。簡単なことですよ。先ほど、羽林軍の軍装をまとったとある武官を見掛けただけですから」
それには楸瑛も絳攸も額を覆いたくなった。
(簡単に見破られるとは……)
そう思いながらも主上の顔を知っているのは外朝では重臣、内朝でも限られた侍官、女官くらいだ。
まして目の前で茶を差し出す彼女は、外朝に入ることを許された朝廷三師付き女官。そして、現王が想いを寄せる少女の姉なのだ。
「……そうか。すまない」
「ありがとう、琳麗殿」
二人はそういうと目の前に出された茶を受け取った。
「いいえ、お礼を申し上げるのはこちらの方ですから。静蘭では今はまだ無理ですからね」
やや伏せがちに琳麗は呟いた。
きっと彼が悩んでいることは、自分が考えていることだろうと。こればかりは背中を押すことは琳麗では役不足である。
その様子に、楸瑛がつと目を細めた。が、次の瞬間見事に話題を変えられてしまう。
「そういえば、今回の秀麗たちの件は絳攸様たち以来のことなんですってね」
どうして彼女は国試を受けなかったのか?と疑問を抱く。女官といえ、武術に選れ、知識教養は秀麗とひけをとらない。
琳麗の隠れた才に感心しつつ、楸瑛は懐かしげに目を細めた。
「懐かしいね、絳攸。私たちの時も今回の教導官と同じ魯官吏でね、お互いさんざん目をつけられちゃってさ」
「……親の仇かってくらい目の敵にされてしごかれたな」
「まあ……そうなのですか? じゃ、秀麗たちも……?」
「そうだね。秀麗殿たちも、これからが大変だね、それにこちらの仕事も増えそうだし」
楸瑛はほころびはじめた庭院の花々を見て、微苦笑した。
「春の除目ですか?」
「そう、また色々ありそうだよ。ね、絳攸」
「ないほうがおかしいだろう。対策は?」
「誰に訊いてる? 絳攸」
「……このところ妓楼に通い詰めという噂があるが?」
その一言で、昨夜の秀麗の言葉を思い出した。何かを言い合っている二人を見て、琳麗は口を開いた。
「藍将軍、お聞きしてもよろしいですか?」
「琳麗殿に何かを聞かれるなんてね、なんだい?」
「……胡蝶妓さんのことで――」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「礼部の魯官吏――か」
禁苑の一角にひっそりと立つ高楼のてっぺんで、霄太師は宋太傅とともに盃を傾けていた。
その特別な場所で、霄太師は今はいない亡き友のために盃をひとつ置いた。それは一年、変わることなくつづけられたもの。
進士たちが集められている宮を見下ろし、霄太師はくつくつと笑った。今頃、若き進士たちはさっそく何かしら因縁をつけられているだろう。
「それにしても久しぶりに出てきたのう」
「上司にはいい顔をし、裏では新人官吏を教育の名目でいたぶる――もう五十もとうに過ぎたくせに、名ばかりの高官で、新人いびりで憂さを晴らしている――と。
相変わらずの噂だな。まあ、こういうときにしか噂にならんが」
宋太傅は酒盃をあおった。
「叩き台か」
「必要じゃろう?」
楽しげに霄太師が応じる。この表情を今まで何度みて来ただろう、と内心ため息をつきつつ宋太傅は首を軽く振った。
「名剣ほど、鍛える際にはこれでもかと叩かれまくるからな。だが、そろそろ退かせてもいい頃ではないのか」
「それを決めるのは主上じゃ。春の除目でな」
風に乗って、李の花びらが飛ばされてきた。霄太師の盃にはらりと落ちる。
「ふふ……ふた月後は色々ありそうじゃの」
「ところで霄。いい加減ここに出る幽霊男のことをだな――」
「呑み比べで勝ったらなんでも言うこと聞いてやるぞい。だがまだ勝負はついとらん」
「……つく前にだ庖厨所の酒がなくなるわ! さっき行ったらこれ以上一本もやれんと尚食官長に泣かれたんだ。だいたい貴様と勝敗などついた例がないだろうが!」
「じゃ、後日また再戦とゆーことでの」
盃の縁を舐めながら、霄太師が目を細める。宋太傅はあきれたように悪友を眺めた。
「このザルが! 歳くっても相変わらずだな!」
「お前こそその歳でよくまあ丈夫な肝臓じゃのぅ」
霄太師は嬉しそうに花びらごと盃をあおったのだった。が、呑んだそれは第三者の介入によってむせた。
「霄太師、宋太傅!」
「ぐはっ……げほげほ…」
「り、琳麗……なんでここに…」
声をしたほうを振り向けば、そこには腰に手をあてた女官が立っていた。
「探しましたよ。全く、こんな昼間からお酒を嗜むなんて……」
ちらり、と見られ二人は姿勢を正した。
「もうお年なのですから、お身体を大事になさって下さいませ! さ、昼餉の支度が調いましたよ」
怒っているようで心配してくれる孫のような琳麗に、霄太師も宋太傅も顔を見合わせた。
これだから、この娘を手放せないのだ。
優しく、愛しい伝承の娘――。
霄太師は嬉しそうに目を細めて琳麗を眺めたのであった。