弐
邵可の昼餉の弁当を片手に琳麗は府庫へと足を運ぶと、声が聞こえてきた。
『──あがってこい。これからお前はたった一人だ。俺や楸瑛の助けは期待するな。それでも、あがってこい。お前の目指す場所まで』
『────』
『その歳で、探花及第したのは、俺や邵可様の力ではない。お前のなかに強い思いがあったからだ。でなければ、十七で探花及第はできない。たどりつきたい場所があるんだろう?』
『あります!』
『この先お前を支えるのは、その望みだ。叶えられる場所まで這い上がってこい。──待っていてやる』
『絳攸様、ありがとうございます……。絳攸様?』
『なんだ、そろそろ昼時だから俺は行くぞ』
『あの〜〜、出口はそちらではありませんよ』
『なっ、この本の山が邪魔なんだ─!! なんでここはこんなに───』
府庫の扉の脇で琳麗は苦笑をもらしていた。
優しい言葉ではない強い言葉で秀麗を励ましている姿に感謝をして、彼が出てくるのを待っていた。
少しよれよれになりながら室から出てきた絳攸に、琳麗は声をかける。
「絳攸様」
「琳麗か、どうかしたのか? 秀麗ならなかにいたぞ」
「父様にお弁当を持ってきたのですが、いなくて」
「そうか、俺も用があったのだか……」
「そうだったのですか。…………絳攸様、ありがとうございます」
急に頭を下げて礼を述べる琳麗の姿に絳攸は慌てた。が彼女はそれを無視した。
「秀麗のこと、励まして下さって。私がお礼申し上げるのもなんですが……」
「お、俺は別に何もいっていない。当たり前のことを言ったんだ」
「絳攸様がそう思ってても言いたかったんですよ」
琳麗はにこりと笑みを零した。それを直視した絳攸は、ゴホン!と咳ばらいをして顔を逸らした。
「そ、それより、琳麗は昼飯を食べないのか?」
「あ、食べますよ。せっかくですから一緒にいかがですか?」
邵可の気配を感じ、琳麗は絳攸を誘った。
「それは邵可様の「おや、絳攸殿に琳麗どうしたんだい」
「父様、昼餉を持って来たの」
絳攸の言葉を遮り邵可が戻ってきた。琳麗はすぐにお弁当を掲げ笑ってみせると、邵可は頷いた。
「ああ、ありがとう。よかったら絳攸殿も一緒にいかがです」
「えっ、あの……よろしいのですか?」
戸惑いながらも尊敬する邵可と昼餉を共にすることに嬉しそうにみえた。琳麗は笑い、邵可も笑った。
「もちろんです、いつも琳麗は多めに作りますので大丈夫ですよ。さ、頂きましょう」
「は、はい」
そうして三人は、個室に入り琳麗の作った昼餉を食べたのだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
秀麗が進士として、言い渡された仕事は厠掃除だった。午前は厠掃除、午後は影月くんと共に府庫で書翰の整理をしているのがここ半月の廻りだった。
二人の様子を見ていた絳攸は、心配そうに遠くから見ていた。
府庫にいた絳攸は、開いていた書物に目を通さずどこか悩ましげにトントントンと指で叩いていた。
「…………はあ…」
「やるせないため息だねぇ、君のそういう顔もなかなかそそるよ」
いつの間に来ていたのか楸瑛がちゃかすように背後から声をかけるが、絳攸はいつものように怒鳴った。
「冗談もたいがいにしろ! 俺はいま機嫌が悪いんだ!!」
しかし、楸瑛は臆することもなく空いている向かいの椅子に腰を下ろした。
「秀麗殿は頑張っているね」
「頑張りきれるかどうか」
先程見た姿や駆け回っている姿を思い出し、絳攸は呟いた。
「いざとなればあの方が動くだろ」
「…………もう動いているかもしれん」
自分の養い親であり、彼女を溺愛する叔父(存在は認められていないが)を思い出し、ため息混じりに呟くと、それには楸瑛も同じた。
「そうだな。これだけ可愛い姪がいたぶられてるんだ。主上に皮肉のひとつやふたつやみっつ言いに行ってるかも」
そう言ってその可能性が高いことに苦笑せざるおえなかった。
「あら、藍将軍、絳攸様」
「これは琳麗殿。どうなさったのですか?」
現れた彼の人のもう一人の姪に絳攸は瞳を向けた。彼女の手には茶器とお茶請けの菓子が盆に乗っていた。
「邵可様にか? 邵可様なら今はご用事で出ているようだぞ」
「まあ、そうなのですか。……せっかくですから絳攸様たちがお食べますか?」
「それはありがたいね、絳攸」
「では、お茶淹れますね」
琳麗はにこやかに微笑むと、盆を卓子に乗せ、カチャカチャとお茶を淹れはじめる。
その姿をみていた楸瑛は、ふと思った。
なぜ、黎深殿は琳麗には叔父だと言えて、秀麗には言えないのだろう──と。
そんな事を考えていると回廊に取り次ぎの侍官が立っていた。
「琳麗殿、霄太師と宋太傅がお呼びでございます」
聞こえた声に琳麗は振り向き、「分かりました。参ります」と告げた。ふぅ、とため息をつくと二人を見て申し訳なさそうに肩をすくめた。
「申し訳ございません。お茶の途中で、こちらお食べになって下さい。お茶器はそのままで後でまた参りますので」
「いや、いい。それより早く行った方がいいんじゃないか」
「はい、では失礼します」
回廊で待っていた侍官と共に去っていくのを見送って、楸瑛は口を開いた。
「琳麗殿もなかなか大変みたいだね」
「ああ、あの三師付きの女官だからな。地位も高い上に外朝にいることを赦されている“女官”だ」
「しかも、特別待遇。自邸から通う女官もなかなかいない。だからかな、最近琳麗殿が秀麗殿とあまり話していないというのは」
姉がただでさえ“特別待遇”を受けているのだ。もしかしたら秀麗も、と疑われてはいけないと琳麗は府庫でも秀麗と接するのを極力控えていた。
「だから最近の琳麗殿はどこか元気がなかったのかな。秀麗殿もいくら姉で女官だからとはいえ、特別な女官である琳麗殿には話しかけることは疎か、頭を下げなければならないからね」
「そうだな」
「実際、あれは辛いね。私たちですらもの寂しく思うくらいだ、主上にはキツイかもしれないねぇ」
まだ琳麗は邸に帰れば姉妹ということで気軽に会話が出来る。
しかし、主上である劉輝はそれすら赦されない。自らに甘えを赦さず、公私を混じえぬ秀麗なら、迷わず跪拝し叩頭したろう。
紫 劉輝という一人の男ではなく、一国の主として。
「秀麗殿には迷惑極まりないだろうけど、護衛の件、了承して正解だったと思うよ。王の不在をごまかす君は大変だろうけどね」
「大変の一言ですますな。周りを煙にまくのも一苦労だ」
「頑張りたまえ」
楸瑛はにっこり笑いながら少し冷めた茶を口にした。