弐
ゆらゆらと漂うような気分のなか、囁くような言葉が頭のなかに入ってくる。
『──ちゃんと思って下さってますよ――大切に思っていますよ──』
ふわっと手が温かくなる。
なんだ? この心地よいぬくもりは……。優しくて、温かい……。それを確かめるようにして、絳攸は指に力を入れた。
『……絳攸様…?』
聞き覚えのある鈴の音のような声が聞こえる。
絳攸は朦朧とする頭でうっすらと瞼を開けると、そこには琳麗とよく似た天女がいるように見えた。
──ああ、黎深様が大切にするのが分かる気がする……
天女のような美しさ。まるで宝物。そっと手を延ばし、頬を撫でるとくすぐったそうに微笑んだ。
『…白湯でもお飲みになりますか?』
──いや、まだ寝ていたい…
『……そうですか、ならゆっくり眠って下さいね』
口に出したつもりはないのにその天女は心が読めるのか、額に手を置いてまた微笑んだ。
──……俺、は……れ…しん様に…必要な……んだろ……か……
なんとなく子が母親に縋るように考えていた。
『──そんなの当たり前じゃないですか。必要ですよ』
──そう…だろうか……
『そうです、必要で大切なんですよ。だから、『李』姓を与えたのですよ。守りたいから…』
囁かれる言葉に疑問が沸いてくる
『守る』?一体なにから?
口にしようとしたが、撫でられる手に意識が遠退いていく。
『さ、まだお休みになって下さい』
──まだ、も…う少し……
だが、それはゆっくりとした子守唄によって遮られ、絳攸は意識を手放した。琳麗もまた疲れたのか、絳攸の手を握ったまま寝台に頭を置いた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
翌朝、酷い頭痛で目覚めた絳攸は起き上がり、ふと自身の手を見た。温かく柔らかいものを掴んでいたような、包まれていたような感覚があった。
昨夜の事を思い出そうとしたが、酔っていたためか思い出せない。
主上や楸瑛、静蘭と王宮で飲んでいたのだが……そのあとは?
それに誰かが優しく語り、唄っていたような気がしたが、誰もいないし、そもそもどうやって帰宅したのだろうか?
そんなことを考えながら、絳攸は寝台から降りたのだった。
「ああ、飲み過ぎた……」
呻きながら、回廊を歩いていると黎深に声をかけられた。
「やれやれ、なんだそのていたらくは」
その姿に一瞬にして記憶が甦る。及第した秀麗を誇らしげに微笑む姿。邵可を見て、琳麗を見て嬉しげに微笑む姿。
彼が笑みを浮かべるのは統べて兄一家だけだ。自分には向けてくれない顔──。
そんな絳攸に黎深はやれやれとため息混じりに呟いた。
「まったくそんな情けない男に育てた覚えはないぞ」
──ドクンっ!と胸が鳴った。
「だったら、もっと黎深様のお気に召すような子供を拾ってきたらいいじゃないですか!」
これでは八つ当たりだ。そう思いながらそう言わずにはいられなかった。
絳攸は、その場から逃げるように去っていった。その後ろ姿を眺め、黎深は扇を顎に当てたのだった。
「ふむ……」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
朝、起きてきた主に静蘭は茶器を用意し、お茶の準備をした。邵可はそれを見ながら口を開いたのだった。
「秀麗は昨晩も府庫に泊まったようだね」
「ええ、頑張っていらっしゃるようです」
静蘭は影からしか見守れないが、影月と一緒になって与えられた仕事をこなしていく秀麗を思い出し、頷いた。
一瞬、胸に少しだけぽっかりと穴が空いたような気がした。
それをごまかすように湯呑みに茶を注ぎ、邵可の前に差し出した。それを一口飲むと、邵可はにこにこと笑みを浮かべた。
「君も本当にお茶を美味しく淹れられるようになったね。昔は茶碗に直接お茶っぱをいれてお湯を注いでいたっけ」
「む、昔のことは忘れて下さい」
昔の失態を思い出され静蘭は、ほんの少しだけ頬を赤らめた。
茶を淹れてくれと言われ、茶葉を直接ごそっと湯呑みに入れてお湯を注いだ事を思い出した。だが、この主たちは笑いながら呑んでくれた。
「……そういえば…琳麗様は、大丈夫でしょうか?」
「ああ、昨夜は黎深のところだったからね。きっと大丈夫だよ……たぶん」
「……多分って、旦那様…」
静蘭が邸に帰ると同時に、影を遣ったのだろう。黎深から琳麗が紅家貴陽別邸に泊まる旨が届いた。
なんでも眠り込んでしまった絳攸が琳麗を離さずじまいという内容の文からは、何か怨念めいた気が漂っていた。
それを邵可は笑みを浮かべ、影に「邪魔をしないように」と託けた。
無論、琳麗の事は気掛かりでもあるが、絳攸という彼の人柄を知っているので安心できる。もし……何か起きたらさすがに容赦しないが。
つと小さな殺気を帯びたが、静蘭に気取られないうちにそれを打ち消した。
「大丈夫だよ、琳麗はああ見えてしっかりしてるし、絳攸殿もきちんとした誠実な方だからね」
「……まあ、そうですね」
静蘭は一口茶を飲みごちた。それには絳攸が女嫌いというのもあり、彼が何かするような人間ではないので信用出来た。
これが楸瑛だったら、静蘭も、そして邵可も急いで彼女を迎えに行っていただろう。
「静蘭、」
「はい?」
邵可の言葉に静蘭は顔を向けて返事をすると、穏やかな笑顔にぶつかった。
「君は君の思う通りに生きなさい」
「え」
突然の言葉に、静蘭の肩がピクリと震えた。
「君を拾って妻と一緒に名前をつけた時から私は君を実の子のように思っているよ」
にっこりと笑う邵可に、静蘭は胸が詰まった。
「旦那様……」
「親は子供の重荷になるべきではない。だから私のことは何も心配いらない。琳麗も大丈夫たよ。秀麗の配属が決まるまで、まだ時間はある。ゆっくりと考えなさい」
こと、と邵可は湯呑みを置いた。
静蘭はまるで、幼い子供のようにこっくりと頷いたのだった。そして、下を向いていた顔を上げて言葉を紡いだ。
「旦那様、今夜悩める若者を一人、うちに招待してもよろしいでしょうか」
昨夜の絳攸の言葉を思い出し、静蘭は彼の悩みを解消させたいと思った。
「ん?」
邵可は小首を傾げたのち「いいよ」と笑ったのだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
紅家別邸に泊まった琳麗だったが、女官仕事もあるので早々に王宮に来ていた。
絳攸の室でうっかり寝てしまったものの風邪をひかずに済んだ。肩に掛かっていた毛布は、多分影が掛けてくれたのだろう。
ずっと様子を伺っていた節があったから。黎深であれば、きっと違う室へ運ばれていたに違いない。
今朝は黎深に一緒に朝餉を!とせっつかれ一緒に朝食を食べた。
いつでも来てくれ!という言葉に頷くと、黎深は舞い上がり嬉しそうに笑った。そういえば、あまりというかほとんど来た事がなかった。と思っていたほどだった。
「やあ、琳麗殿」
名前を呼ばれ、振り返ると藍色の衣を纏った楸瑛がいた。
「藍将軍、おはようございます」
「昨日は大丈夫だったかい?」
「ええ、大丈夫でしたよ。絳攸様も何事もなくお休みになられましたし」
そういう意味ではない。と思いながらも、あの彼が何かをするとは思えないので平気だったのだろうと考えた。
「絳攸様、酔ってらしたし、多分私が傍にいたことすら覚えていないと思いますよ」
クスクスと笑う琳麗に、つられて楸瑛も笑った。
「そうなのかい? でも君が一晩絳攸の傍にいたなんて妬けるね。今度私の傍にもいて欲しいな」
片目を閉じて話す姿は、女官たちが見たら嬌声を上げるのではないかという雰囲気だった。しかし、恋愛面では激しく鈍い彼女には全く通じない。
「藍将軍には、他に看病してくれそうな方たくさんいるではないですか」
手を口許にあてクスクス笑う姿は実に愛らしい。
「……ところでどこかに行くのだったのかい?」
「あ、はい。三師の室へ」
「じゃ、送っていくよ」
「え、じゃあお願いします」
琳麗は言葉に甘え、楸瑛と回廊を歩き始めたのだった。