壱
夜が明けきらないうちに、秀麗たちが茶州州牧として貴陽を発った。
貴陽の城門まで来ていた琳麗、邵可、絳攸、楸瑛そして劉輝はその一行を見送った。
「さ、戻りましょうか」
楸瑛は皆を促し、踵を返して王宮へと戻ったのだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
コポポ…とお茶を淹れて、琳麗は霄太師、宋太傅の前へとコトリと置いた。
「茶州州牧たちは出発したのですかの?」
茶に手を伸ばし、霄太師はズズッと啜った。琳麗は微笑を浮かべ
「はい。総員五名で今朝方発ちました」
「五名? 普通なら色々と引き連れて行くんじゃないのか?」
「茶家の追っ手がいるだろうからとごく少人数で質素かつ地味な出で立ちで目立たぬよう参りましたわ」
「ほぅ、さすがじゃのう」
ふむふむと霄太師は笑いながら、お茶請けの饅頭に手を伸ばした。コトリ、と急須を置き琳麗は一礼をした。
「霄太師、宋太傅。私、少しばかり席を外してもよろしいでしょうか?」
「うん? なにか用事があるのか?」
「府庫へ、父様にお茶をと思いまして」
「ああ、構わんよ」
「ありがとうございます。御前失礼いたします」
さっと一礼すると琳麗は室から退室したのだった。
「やはり、淋しいのかのぅ……」
「あやつは家族が大事な娘だからな」
二人はそう呟き、琳麗が出て行った扉を見て言ったのだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
初夏の香りをふくんだ風が回廊を通り、琳麗は府庫へと足を向けていた。ふと、劉輝の気配を感じて、なんとなく気配を消した。
『そなたは、娘が危険な場所に派遣されることを知っても、怒らなかった』
『あの娘は官吏です。口を挟む気はありません』
穏やかな口調がそれを当たり前に思っているのが分かった。しかし、
「……それは為政者の考え方だと、気付いているか、邵可?」
振り向いた紅 邵可に、劉輝はまっすぐな視線を投げた。しかし、それは一瞬のことで、劉輝は瞑目した後
「……いや、すまぬ。以前、内諾を取る時にその場に琳麗もいたのだが、全く同じ事を言った……彼女もそなたも……」
最後の一言は邵可には聞こえなかった。呟いた後、劉輝は立ち上がり微笑んだ。
「茶をありがとう。あまりのんびりしていては絳攸に怒られてしまう」
「いえ、またお越し下さい」
「ああ」
邵可はにっこりと笑って見送った後、劉輝が出て行った反対側の扉へと視線を向けた。
「出ておいで」
「……饅頭を持って来たわ」
カタン、と扉を開き琳麗が姿を現した。
「じゃあ、お茶を淹れよう」
「ま、待って! 私が淹れるわっ!」
「そうかい、でも……」
「いいから、父様は座ってて!」
ぴしゃりと告げられ、邵可は大人しく腰を下ろしたのだった。カチャカチャと新しくお茶の支度をし、コポポ…と湯呑みに注いでいく。
「はい、父様」
「うん、ありがとう」
お茶を一口飲み、パクりと饅頭を口に入れた。
「おや、この饅頭は…」
「秀麗が作ったのよ。今朝早くたくさん作ってね、お世話になった方々へ渡して欲しいと言われたの。後で主上たちや、鳳珠様、魯尚書、黎深叔父様のところへ持っていくわ」
「それは喜ぶだろうね」
「……父様、」
「なんだい?」
「近いうちに私も茶州へ行くかもしれないわ」
邵可は湯呑みを置き、娘を見た。琳麗は微笑して
「英姫様に会いに行こうと思うの。一年前に文を出したし、ちょうどいいと思うの」
「……琳麗」
「多分、一月後には貴陽を発つわ。一緒に行く人もいるから大丈夫」
さあっと風が吹き、府庫の古い書物の匂いが漂った。
「それは──予知、かい?」
「いいえ、風が教えてくれました。行かなければならないようです。大丈夫、すぐに帰って来るから」
少し大人びた表情をする琳麗に、邵可はため息をついた。
「では、私はお饅頭を配って来ますね」
「ああ、そうしなさい」
大きめの籠を持ち、さらさらと歩いていく後ろ姿を見て、邵可はまたため息をついた。
「……英姫殿のところなら安心だが──」
彼女もまた琳麗の真名を知っている方だ。だが、何があるかわからない。──しかし、誰と行くのだろうか…。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
それから半月、琳麗はいつものように王宮に出仕し、夜は邵可と二人きりの日もあれば、絳攸や楸瑛が食材を持ってやって来る日があった。
今日も帰ろうとしていると、後ろから声をかけられた。
「琳麗殿」
「楸瑛様、絳攸様。お仕事終わったのですか?」
「ああ。今日は約束の日だったろう? だから迎えに来たんだ」
二人の手にある食材を見て、琳麗はクスクス笑った。
「絳攸様は本当に鴨の菜がお好きなようですね」
持ってくる食材で何を作って欲しいのか察した琳麗は、絳攸を見上げた。
「いや、その……美味いのでついな」
「嬉しい事を言って下さいますね、今夜は絳攸様のお好きな菜をお作りいたしますわ」
そのやり取りを見ていた楸瑛は、顎に手をあてて笑っていた。
「羨ましいね〜絳攸。琳麗殿、それでは今度は私の好物を作ってくれるのかな?」
「もちろんです、楸瑛様。材料をお持ち下さればですが」
「あなたに作って頂けるなら、もちろん持参しますよ。出来るなら二人だけの方がいいけどね」
すっと頬に手を寄せてくる楸瑛に琳麗が苦笑していると、絳攸が毎度の台詞で怒鳴ったのだった。
「やめんか──っ! こっの、常春頭がぁ〜〜!!」
いつもとなんら変わらない日常。──ただ、秀麗と静蘭がいないというだけで日々時間は過ぎて行くのだった。
邸に着き、客間でお待ち下さいと言ったのだが、二人は菜を手伝うと言って庖厨にいた。
「本当によろしいのですよ? あちらでお待ち頂いても……」
「いやいや、いつも馳走してもらっているのに手伝いもしないのはね」
「そうだ、気にするな」
静蘭の教育の賜物、だろうか──食材を持ってきているのに菜を手伝ったりするようになったのは。
それとも──淋しかろうと思って傍にいるのだろうか?琳麗はクスッと笑い、手伝ってくれる二人を眺めたのだった。
そこへ門前にて「ごめんくださーい」と声がした。琳麗は小首を傾げながら外へと出た。
「ああ、琳麗ちゃん。文を託って来たよ」
「ありがとうございます。おじさん」
飛脚のおじさんに礼を言ってその文を受け取った。
「あら? 父様からだわ……」
カサリ…と文を広げ目を通すと「まあ…」と琳麗は呟いて、再び邸に入ったのだった。
庖厨に戻るとなんとか出来上がっているおかずが並べてあった。んー…と考え込んで入ってきた琳麗に絳攸も楸瑛も顔を見合わせた。
「どうかしたのかい? 琳麗殿」
「え、ああ。実は父様が急な仕事があるとかで今夜は府庫に泊まると文が届いたんです」
「珍しいな、邵可様が」
「ええ、ですからこんなに沢山の菜が余っちゃうな〜って思って……」
いつも沢山の食材を頂いているが、健啖家の邵可がいる為、余分に作っても余るということはなかった。
「ああ、そうだな……」
この時期、食材を余らせるのもどうかと思われる季節だった。心配するのはそこではないだろうと、楸瑛は琳麗と絳攸を見た。
「──となると、もしかして今夜は琳麗殿一人だけになってしまうのかい?」
「そう、なりますね」
うーんと考えて、琳麗は頷くと絳攸もそうだな。と考えたのだろう。
「一人で大丈夫なのか?」
「大丈夫ですよ、たった一晩くらい。それに……」
「だが、邵可様がいない時に何かあったら「だったら、私が今夜ここに泊まるっていうのはどうかな?」
絳攸を遮って楸瑛が甘い笑みを浮かべ、琳麗の手を取りそのまま口へと持っていく。
「えっ? あのっ……」
「やめんか─っ! とっととその手を離さんか、このっ、常春頭が!!」
ベチン!と楸瑛の手を叩き、琳麗を自分の背後に隠した。
「妬かないでくれよ、絳攸。それに君だって大事な『従姉妹』殿を一晩一人にさせるつもりはないだろう?」
「そ、れはそうだが……」
「大丈夫ですよ、絳攸様、楸瑛様」
「しかしだな……」
二人で会話をする姿を見て、楸瑛は口の端をやや上げた。
彼は否定をしなかった。牽制は効かなかったのか気付いていないのか、まあ、今はまだいい。と楸瑛は会話に入っていった。
「それでは、私たち二人が泊まるというのはどうだい?」
「いえっ! そんな、お二人の気持ちは嬉しく思いますがこのようなボロ邸に泊めるなんて……それにですね……ぁ」
「? どうした琳麗?」
ぶんぶんと手を振り、断っていると知っている気配を感じて、琳麗はそちらを向いた。それに気付いた楸瑛と絳攸も琳麗に倣って窓辺を見たのだった。
楸瑛はどこか殺気を感じて、琳麗を後ろに庇おうとしたが、彼女はそれに応じずすたすたと窓辺へ近寄った。
「琳麗殿、」「り、琳麗?」
ガラッと窓を開け放つと
「そんなところで何をなさっているんですか? 黎深叔父様」
「「えっ?」」
楸瑛と絳攸が呆気に取られていると、視界には扇子を広げた黎深が立っていた。無論、二人を睨みつけて。
「……黎深殿でしたか」
「れ、黎深様っ! な、なぜここに……」
「……私が兄上の邸を訪れてはいけないのか? 絳攸」
ジロリと睨まれ、絳攸は身を縮めて「い、いいえ…」と返事を返した。そして、勝手口から中へ入ると口を開いた。
「今夜は兄上が急な仕事とかで府庫で泊まりだと聞いてな、琳麗一人だけでは心細いだろうと思って迎えに来たのだ。そうしたらどうだ?絳攸と藍家の小僧が兄上がいない琳麗だけのこの邸に泊まるだと?ふざけるのも大概にしろ。それに藍家の小僧っ!よくもまあ兄弟揃って琳麗に手出しを……私がいるうちは決して貴様ら藍家に琳麗は渡さんぞ!」
最後の言葉には楸瑛は小首を傾げる勢いだった。
兄弟揃って?──龍蓮の事か?と考えたが二人は王宮内でしか会ったことがないはずだ。
それに黎深の怒りようは、もしかしたら犬猿の仲であるあの鬼畜な三兄たちのことかもしれない。
そんなことを模索していると、話は随分進んでいた。
「さあ、琳麗。こ、こここ今夜は私の邸に泊まりなさい。あ、兄上には文を出して置いたし、な、なにより君に何かあったら大変だっ!」
「大丈夫ですよ……と言いたいところですが、父様からの文に『誰かが迎えに来たらそちらに泊まらせてもらいなさい』とありました。黎深叔父様のことですよね?それとも、く──」
琳麗の言葉の中で黎深は邵可に信頼されていることに、浮かれ気味だったが、琳麗が名前を言おうとしている人物が誰か分かりそれを遮るように口を出した。
「琳麗、いいから支度をしなさい」
「あっ、はい……でも、黎深叔父様? せっかくですから食事しませんか? 絳攸様と楸瑛様も一緒に作って下さったんですよ。食べないと勿体ないです」
にこっと微笑まれ、琳麗だけが作ったのではないのかとやや不満だったが、愛おしい姪にそう言われてはさすがの黎深も頷くしかなかった。
その光景を見ていた絳攸と楸瑛は、やはり彼女も邵可同様、偉大だな、と再確認したのだった。
無論、食事に出た琳麗作の菜は、黎深が独り占めしたのは言うまでもなかった。
その後、片付けが終わったのち黎深は琳麗と、一応絳攸を連れて貴陽紅家別邸へと軒を走らせたのだった。
楸瑛はといえば、琳麗に近寄る事も出来ぬまま、彼女たちを見送り、待たせた藍家の軒に乗り込むと行きつけの妓楼へと向かうことにしたのだった。