壱
秀麗が茶州へと旅立ってから一月になろうかという頃、琳麗は後宮にて珠翠から話を聞かされていた。
「まあ、劉輝様が二胡を?」
「はい、きっと邵可様や琳麗様にお聴かせするのではないでしょうか? 毎晩練習を重ねております」
「そうですか。ですが……」
「はい?」
微笑みを絶やさない珠翠に琳麗はすまなそうな顔をした。
「私、暫くの間休暇を取るのです。行くところがありまして……」
「……どちらへ行かれるのでございますか?」
聡明な珠翠ならば察したであろう、琳麗は苦笑するように微笑んだのだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
その頃、老臣が一人、王の執務室に声も掛けずに入室した。
「主上、少々頼みがあるのじゃが」
ひょっこり入ってきた霄太師に、劉輝は書翰から目も上げずに即答した。
「却下」
「ほほう。どうやら主上は、秀麗殿に嫌われたいとみえますのう」
ぴく、と劉輝の耳が反応した。
「な、なんだそれは。どういうことだくそじ……霄太師」
しかし霄太師は視線をふらりと庭院へ向けた。木々は目に痛いほど青々と茂っている。
「すっかり夏ですのう。燃えるような恋の季節ですのう。秀麗殿は長年あの茶州布を支えつづけた真に気骨ある官吏たちに囲まれることになるんですのぅ……。いい男も一人二人ではありますまい。年上で頼りになって傍でしっかり支えてくれちゃったりする凛々しい官吏たちは、狭量で甘ちゃんで呪いの藁人形送りつけてくる──そうそう今もほれ、こんなに頑張る健気な老官吏を『くそじじい』呼ばわりして邪険にする顔だけ男よりよっぽど魅力的でしょうなぁ。主上なんざ、もうすっかり忘れ去られてしまってもしょーがないですの」
劉輝はぶるぶると肩を震わせた。
(……じじい。今すぐ埋めてやる)
どんな手を使って埋めようか即座に考えを巡らせた劉輝だったが、次の霄太師の言葉に怪訝な顔をした。
「ま、わしは良いですがの。別に聞いてもらわずとも勝手に行きますじゃ」
「行く? どこへだ」
「茶州へ」
霄太師は意地の悪い笑みを浮かべ、懐から小箱を取り出した。
「これを、届けにの」
言葉と同時に霄太師は小箱を開けた。中のものを見て、劉輝は思わず立ち上がった。次いで、物凄い目つきで睨みつける。
「……この腹黒極悪性悪じじい」
「ということで、暫く暇をいただきますぞ。古い知人も訪ねるつもりですからのぅ」
「……休暇貰うのになんでそんなに偉そうなんだ。この名誉職に胡座かきじじい」
「おっしゃるとおり、所詮は名ばかりの太師職ですじゃ。老い先短い年寄りたっての願いと思って、大目にみるがよろしかろう。ゲホゴホ」
わざとらしく咳をした霄太師は、いけしゃあしゃあとそう言ってのけて、さっきまで劉輝が読んでいた書翰に視線をやった。
「その書翰の相手が茶州の都に到着するのは、そう、一月以内といったところですかな?」
劉輝は瞠目した。──これは、絳攸や楸瑛にさえ言っていないのに。知っているとすれば──だが、彼女が言うはずはない。
くっくっと霄太師は笑った。
「言っておきますが、彼女から聞いたのではありませんぞ。年寄りにかなわぬからというて、落ち込むことはございませんぞ。無駄に生きてきたのでなけば経験上、若者より上手なのは道理」
「……亡き茶太保もか」
「愚問」
百年早い──と言わんばかりの顔をして、霄太師は踵を返した。
「待て。いまお前に不在にされるわけにはいかぬ。それは他の者に──」
「残念ながら、これを他に任せるわけにはいきませんのでな。それに、わしが不在でも適任がおるですじゃろう。そう……三月前のように」
「────」
「なんならここで一筆書いていきますぞ」
結局この老臣の掌の上で弄ばれているのだと、劉輝は実感した。そして無言で筆と料紙を差し出す。
さらさらと筆のすべる音を聞きながら、劉輝は呟いた。
「訊きたいことがある」
問う前に、霄太師はあっさり答えた。
「あれは見かけによらず頑固ですからのぅ。それに、先王陛下には少ぉしばかり弱みがありましての。無理強いすることはできなかったですじゃ」
「……もう一つ。その指環を誰に渡すつもりだ」
「心配せずとも、前途有望な新米官吏たちをいじめるような真似はやりませんぞ。選ぶのはわしではなく指環ゆえ、それだけは確約できますな」
妙な答えに、劉輝の片眉があがった。しかしそれ以上霄太師は言わなかった。
「おぉ、そうそう。茶州には琳麗殿も連れて行きますゆえ、彼女も暫くは休暇ということですので、頼みますぞ」
「なっ!?り、琳麗を連れていくっ!?な、なんでだ!」
霄太師の言葉に劉輝は目を瞠った。いくらお付き女官とはいえ、度が過ぎている。
彼女は王宮を一歩出ればその立場は、紅家直系の姫なのだ。その彼女を連れていくなど、あの紅 黎深が赦すはずがない。
ましてそれが霄太師であるならば尚更だ。
「ほぉっほぉっほぉっ……一緒に行きたいと申されてのぅ。楽しみですわい。それに秀麗殿の顔を見るのも久しぶりですなー。二胡なんか弾いてもらっちゃって、お茶と秀麗殿特製手作り饅頭でもまったりいただきましょうかのぅ」
鼻歌まじりで去っていく老臣に、劉輝はキレてドカッと机案を蹴り飛ばしたのだった。その後、慌てて琳麗の事を確かめに府庫へと走ったのだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「父様。今夜、出掛けますね」
「それはまた……急だねぇ…」
差し出されたお茶を啜り、邵可は声をあげた。――が、前々から言われていたことだけにさほど驚きはない。
「すぐ帰ってくるから、邸のことお願いします。きっと黎深叔父様がいらっしゃるから大丈夫でしょうけど」
「そうだね、仕事を終えたら何回か呼んでみようかな。で、誰と行くんだい。彼はもう行ってしまっているよね?」
邵可が考えていた人物は、風のように現れると主上から頼まれた“土産”を片手にさっさと旅立ってしまったからだ。
まあ、その時偶然にも琳麗は彼に出会ってしまい、なぜか、主上との面談場所にまで彼に連れ回されたのだった。
そして、琳麗は彼に秀麗たちの事を頼むと彼――藍 龍蓮は珍しく微笑んだ。
『無論だとも。彼等は私の心の友だからな』
珍しく率直な答えに琳麗は微笑した。その笑みを見て龍蓮は真顔になった。
『──そなたを本当なら貴陽から出したくはないが……行くのだな。琳麗、前にも言った通り「闇は光りを求め、光りもまた闇を求める」捕まってはならぬぞ』
『……ありがとう。でも大丈夫。行かなくてはならないのよ』
『──ならば、あちらで会ったらまた歌を所望したい。よいか?』
琳麗の瞳の奥に強さを感じ、龍蓮は瞑目した後、お願いしてきた。それに琳麗は素直に頷いたのだった。
「ええ。彼が着くのは一月後でしょうか……私は、」
琳麗はなんと答えようか悩んだ。一緒に行く相手が霄太師だと知ったら、いつもはぽやーっとしている父ではあるが裏の姿を現しそうであるからだ。
言いかけた時、バタバタと走ってくる足音が聞こえた。それに邵可と琳麗は顔を見合わせた。
「……なにかあったのかしら?」
「そうだね、どうしたんだろうね。主上は」
そう言いながら、琳麗はお茶の準備をし、邵可は座って待った。
「しょ、しょ邵可っ! いるかっ!?」
バターンと音をたて入って来た劉輝に、邵可も琳麗も少しだけ驚いた。一体、何を慌てているのだろうか?
「どうなさいました? 主上」
「り、琳麗がっ……って、琳麗っ!!」
「はっ、はい?」
邵可しかいないと思っていたが、その場に琳麗がいたので、劉輝は一気に問いただすことにした。
肩を掴み、ぐらぐらと揺らしかねない仕種で口を開いた。
「くそじじ……いや、霄太師……いや、くそじじいでいいだろう。一緒に茶州に行くとは本当かっ!?」
劉輝の発言に琳麗は額を覆いたくなった。なぜなら、外にいた気配が動くとともに背後にいる邵可から冷たい殺気を感じたからだ。
「んっ、殺気っ!?」
「あ、あの…」
邵可の殺気を感じたのか劉輝はびくっと身体を動かした。それをごまかすように琳麗は口を開こうとしてため息をつきたくなった。
ちらりと邵可を見れば、怒っているのが分かった。きっと霄太師を襲うであろう。でも狸の妖怪だから大丈夫かと納得し「是」と応えたのだった。
きっと紅家の「影」は黎深に伝えに行き、すぐにでも行動を移すかもしれない。それを思うと出発に支障が出るからやめてもらいたいと願ったのだった。
「なぜだ! 琳麗、なんでくそじじいと……」
「あら、霄太師とが一番安全ですよ。劉輝様。それにお会いしたい方が霄太師と知り合いですので、その方がいいんです」
だからです。と微笑む琳麗に劉輝は何かを言おうとしたが、なぜか言えなかった。
そして、羨ましいとも思った。秀麗に会うとかいう次元ではなく生まれ変わる茶州を見るである彼女が。
劉輝は邵可を見るが、彼も既に行く事を知っていたのか何も言わずにいた。
「……そうか。あのくそじじいとなんかでは心配だが、琳麗なら大丈夫だと信じているぞ」
「ありがとうございます。しっかり見て参ります、劉輝様の代わりに。父様、私は大丈夫ですから」
劉輝を真っ直ぐ見上げた後、振り返って微笑すると殺気を消し、邵可も微笑した。
「──気をつけるんだよ」
「はい」
「琳麗っ! いつ、出発するのだっ!?」
劉輝はのんびりと話している二人、いや琳麗に問い掛けた。
「今夜にも出発しようかと言われておりますが」
「こ、今夜っ!? 急過ぎるのではないか!? 琳麗に聴いてもらいたい物があったのだが……」
そんな、としょぼんと落ち込む劉輝に琳麗は微笑した。
「帰って来てからでは駄目でしょうか?」
「え?」
「私は用事が済めばすぐに帰りますので、その時に是非お聴かせ下さい」
優しい笑みを向けてくれる琳麗に劉輝は嬉しそうに頷いた。
「楽しみにしております、劉輝様」
「うむ。それなら頑張って覚えるからその時は、歌を――まだ聴けていないそなたの歌声を聴かせて欲しい」
「では、その時は父様たちにも聴いて頂きましょう」
「そうだな、それは楽しみだ!……琳麗、気をつけて行くのだぞ。あと、くそじじいには気をつけるのだ! 好色じじいだからな!」
「大丈夫ですよ。いざとなれば、静蘭から教わった撃退法がありますので」
それは男性にとってはかなり辛い撃退法であることを知っていた邵可は苦笑いするしかなかった。
それに琳麗には宋太傅に鍛えられた護身術があるのでなんとかなると分かっていた。
「静蘭に……そうか。なら大丈夫だろうな」
そうして、夜遅くに王宮から軒が一台茶州に向けて出発したのを知っていたのは、ごく僅かだけだった。