壱
琳麗が朔洵と会っていた頃、気を失った秀麗は眠っていた。香鈴は運ばれた秀麗に涙を零し、影月も龍蓮も心配して寝台の周りにいたのだった。
「……お嬢様」
静蘭は眠る秀麗を見て、ギリリと口唇を噛んだ。
外は未だ雨が降り続いていた。すべてがまだ始まりに過ぎないことを暗示するかのように。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「秀麗様ぁああああ!!」
一日を過ぎてようやく目を覚ました秀麗に、香鈴は涙を流しながら抱き着いた。
「わぁっ! こ、香鈴……無事でよかったわ」
「それは私の台詞です! 丸一日お眠りになるなんて!」
ぐすぐすと鼻をすする香鈴に、医師役の影月がおっとりと解説をした。
「だからー、疲れて寝ているだけだって言ったじゃないですかぁ。長旅で身体を休める暇もなくあんなことになってしまったんですから」
香鈴はキッと影月を睨んだ。
「とっとと出てお行きなさい! もう私一人で充分ですわ、この藪医者!」
「あ、えー、……はい。じゃあ、このお薬、お茶と一緒に呑んで下さい」
「ありがとう、影月くん」
影月は香鈴に睨まれたまま、ずこずこと引き下がった。出て行ったのを見てから、秀麗は香鈴に声をかけた。
「ど、どうしたの? ずいぶん冷たくない?」
「だって秀麗様! 酷いんですのよ。龍蓮様にお酒を飲まされて倒れてしまったのを介抱してさしあげようとしたら、『邪魔だ馬鹿女、退け』なんて言い放ったんですのよ!」
「……あ、ああ。いや、それはね」
「もう知りませんわ! あんな人!」
カッカと怒る香鈴を見て、秀麗は思わず笑い出した。"陽月"の登場は影月にとって、不名誉な事態を引き起こしてしまったようだ。
「秀麗様、笑い事じゃありません!」
「だって、こんなに元気な香鈴見るの久しぶりだから。影月くんに感謝しなくちゃ」
はっと我に返って香鈴は口元を押さえた。
「ねぇ香鈴、笑ってちょうだい。私、あなたの笑顔が好き」
「秀麗様……」
「一生懸命、私の代わりをしてくれてありがとう。一番危険だったのに」
その言葉に香鈴は笑うも、悩むように顔を逸らした。
「香鈴?」
「あの、言わないでと言われたのですが……」
「うん?」
悩みながらも、香鈴は顔を上げて秀麗を見た。その様子に秀麗は小首を傾げたが、その時、扉を叩く音がなってそちらを見たのだった。
扉を開けたのは燕青だった。
「姫さん、いいかな? 姫さんに会いたいって奴がいるんだけど」
「……私に?…………なに?」
じっと見つめる燕青に秀麗は小首を傾げた。その様子を見て燕青はなんでもない、という顔をした。
「いや、元気になってよかった、と思って」
「心配かけてごめんね。もう大丈夫よ」
「んじゃ、克。入れよ」
「克?」
「改めまして。茶 克洵と申します」
燕青に促されて、現れた青年に秀麗はひどく驚いた。彼は、すぐ上の兄とはまるで似たところがなかった。平凡すぎるほど平凡な人。
「……姫さん?」
「あ、ごめんなさい。その同じ兄弟なのに印象がまるで違ったので……」
秀麗のその言葉に克洵は苦笑というような笑いを浮かべた。
「そうですよね。長男の草洵は気が荒く、反対に次男の朔洵は同じ兄弟とは思えない程美しい容貌で、三男の僕はこの通り平凡に生まれついてしまいました」
「いえ、そんな……」
そんな事を言ったら秀麗の父、邵可たち紅三兄弟もまるっきり似ていない兄弟である。それを秀麗は知ることはないのだが。
「影月くんと香鈴には、あなたがいなければ生きて会う事もなかったと思うわ。私の大切な人達を守ってくれて、ありがとう」
「あの、ひとつお願いがあるんですが」
「なんですか?」
「長兄・草洵の亡骸は、僕一人で埋葬させていただけないでしょうか」
そう告げた克洵の気弱すぎるほどの優しい瞳の奥には、決然とした光りが浮かんでいた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
琳麗は誰もいなくなった菊の邸。その奥の室に霄太師といた。
「はじまったようだの。無事でなりよりじゃの、琳麗殿」
「はい」
「久しぶりの里帰りじゃろ」
呟いて小箱を開けると、一人の青年がふわりと姿を現した。かつてこの邸の主であった茶 鴛洵は、帰郷を懐かしみもしなかった。
「菊の邸、か」
「表の紋印の菊は削られて、今は茶家紋印の"孔雀繚乱"が彫られているがのぅ」
その鋭く秀でた顔が厳しさを増す。
「朔洵めが……」
「先王陛下からお前さんが下賜された"菊"を消すような事をする奴がいるとはのぅ」
「たった十五で"殺人賊"を掌の上で弄んだ化物が……ついに動き出したか」
「お前や英姫にさえ、ぎりぎりまで気付かせなかったとは、いっそ見事よの」
「あの才──うまく育ちさえすれば、私など遥かに超える官になれたものを」
「はは、そりゃ無理じゃ」
「私もそう思います、茶太保」
笑い飛ばされ、否といわれ、鴛洵はぴくりと眉を動かした。
「……なんだと?」
「彼には決定的に欠けているものがあります」
「さよう。それに朔洵ごときにお前を凌ぐことは出来ん。その可能性をもつのは朔ではない。わかっておろう?」
「……だが、あれは優しすぎる」
「馬鹿じゃのう。そういうところはお前とて全然負けておらんわ」
そのやり取りに琳麗は微笑した。さて、と霄太師は、小箱におさまった指環を見た。
「これの行き先は? 英姫か、新州牧たちか、それとも鄭 悠舜のところかの?」
鴛洵は、悪友の耳元へすいと身を寄せ、囁くように行き先を告げた。