壱
それはあの殺人賊が金華からいなくなって暫くの事だった。
琥漣から来た由 准が金華が現れた頃、琳麗は若い姿の霄太師と共に琥漣へと向かっていた。
「まずは英姫様のところですか? でも、英姫様は監禁されているとかお会いになれますの?」
「あの剛毅な英姫が大人しく監禁されとるのにも理由があるんじゃろうて……まあ、なんとか会えるだろう」
「はあ……あ、あれですね。茶州州都、琥漣…………」
見えた琥漣の街に琳麗は、いささか眉を寄せた。なにやら空気、いや街を包む"気"が重く立ち込めているような気がする。
「……霄太師、この街おかしくないですか?」
「ふむ、なにやら薄暗く視える、という感じなのですかな?」
「……ええ、」
別に昊が曇っている訳ではない。むしろ昊を見上げれば蒼く、眩しいくらいなのに、州都を見れば靄が掛かっているかのように視えるのだ。
街の人たちはどうなのだろうか?
そして、一番その"気"が酷いところは──茶家本家の邸の上だった。
ぞわり、と肌が粟立つような感覚が押し寄せてくる。これは、人の気だ。
(ああ、生きている人間程恐ろしいものはないわ)
そう思いながらも、懐かしいような気がしたのを琳麗は打ち消すように首を振ったのだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
邸の奥の一室で、老婦人はゆるりと睫毛を上げた。
「……ようやく、きやったか」
この馬鹿馬鹿しいほど悪趣味な成金趣味の室に閉じ込められて長い刻が経とうとしていた。
比翼の鳥とも思う彼女の夫が逝ったのは、昨年の春のこと。
永い年月を連れ添った彼女の夫は、遠く離れた紫州で命を落とし、それから季節は一巡りして、今はもう、日ごと舞い散る落葉も鮮やかに色づき始めている頃だろう。
気品高い外見をものの見事に裏切って、彼女は苛立ちも露に羽扇をひるがえす。
乱暴に卓子に叩きつけられた扇から、やわらかな白い羽根が幾筋か抜けてくるくると舞った。
「遅すぎるわ」
茶州のゴタゴタが表面化するまで腰を上げぬとは、まったくどうしようもない腐れ外道だ。
昔から虫の好かぬ男だった。狐狸妖怪爺道を驀進しているだろう今も──奴にそれ以外の道があろうはずがない──その評価は変わることはないだろう。
何もかも知った顔をする鬼畜男……霄 瑤旋。
それでも、彼女は彼を待った。虫は好かぬが自分たちには唯一、そして何より大きな共通点があったから。しかし──。
「あやつ、あの娘を連れてきたのか……」
こんな時に、いや、こんな時だからこそかもしれぬ。
一年前、浪 燕青を経由して届いた文。
──来年の初秋、お逢いいたしましょう──
その文からは何か悩める事がありそうな感があった。
薔薇姫が亡くなった今、訊くことが出来るのは私だと思うたのかも知れぬ。だが、今は──。
彼女は歳を感じさせぬ優美な動きで立ち上がった。
片翼はもがれてしまった。それでも、まだ守るべきものがあるから、逝けない。
(許せ、鴛洵……いましばし)
歩きはじめた愛しい孫たち。かつて自分たちが駆け抜けた時を、彼らもゆこうとしている。
おのが道を、おのが手につかむため。
──彼女がこの室から出るには、まだしばしの時が必要だった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
幽閉されていた金華太守を解放し、街から殺人賊を一掃してから秀麗と影月は、燕青と由 准、柴太守に助けられながら、事件の事後処理に忙殺されていた。
香鈴がお茶を運んで来たので休憩となったのだった。
「ん、おいしい。香鈴、腕をあげたわねぇ」
お茶請けにとそれぞれの前に置かれたのは小ぶりのお饅頭で、香鈴の手作りだった。
「そんな……まだまだ秀麗様にはかないません」
目元を赤らめる香鈴に、燕青がもの申した。
「なーなー香鈴嬢ちゃん、俺にもお饅頭二つつけてくれよー。なんで姫さんだけなの」
「愛情の差でございますわ」
「…………そっか。俺、こんなにはっきり愛情の差を形で示されたの初めてだよ……」
しょんぼりと肩を落とした燕青に、秀麗は呆れ果てた。
「拗ねないの! 由官吏だって影月くんだって一つじゃないの」
「だって俺のがいちばん小さいぞ! 会ったばっかの由 准より俺のが下ってことじゃん!」
「何いってんのみんな同じ大きさよ。……んもうほら、半分あげるから」
まるで「姉と幼い弟」のようなやりとりに由官吏は額を手で押さえてしまった。
「……紅州牧、あまり浪州尹を甘やかしてはいけません。一つでよろしいのです」
「あ、いいんです由官吏」
保護者気分の秀麗はそういいながら、饅頭を半分に割った。
そして、ふと今の会話がどこかで聞いた事を思い出す。
はて?と思いながら身を乗り出して、いじける副官の皿にちょこんと置いた。
「いいって言ってんだからいいじゃん。あんがとなー」
燕青の言葉でハッと思い出した。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
それは昨年の夏、燕青が家に居候していた時、姉様が王宮から帰ってきてまた邸から出仕するようになった頃だ。
「うひょう、今夜もうまそー」
卓子に並べられたご馳走を見て燕青が声を上げた。
「今日は将軍さんや侍朗さんいないのに、どしたの?」
さすがに夕食会と普段の食事の差を知った燕青だったが、今日は食材を運ぶ彼らがいない。
「今日は三師のお昼の食材が余ったから頂いてきたのよ。よかったら食べて」
「もちろん! いやー姫さんも琳麗姫さんも菜上手で最高だよな〜」
バクバク食べる燕青に琳麗は微笑し、秀麗も笑っていた。この場にいない邵可は今夜は府庫に泊まりだ。
静蘭といえば、遠慮をしない燕青を睨みつけている。
「お前、少しは遠慮しろっ!」
「ほら静蘭も食べて」
「しかし、琳麗様。こいつを甘やかすことなんかしなくても」
「いいから。それに作ったモノをこんな風に食べてもらえるとなんだか嬉しいのよ。はい、燕青さん」
既に燕青の皿は空っぽになっていたので、琳麗は自分の皿を手渡したのだった。
「え、いーの?」
「琳麗様っ!」
ちゃっかり皿を受け取りながら、燕青は琳麗を見た。それを目の前で見ていた静蘭は声を張り上げた。
ガバッと燕青から皿を奪い、琳麗を見る。
「静蘭、どうしたの?」
「〜〜っ、こんな奴に琳麗様の分を渡す事はありませんよ!」
「いいんだってば、ほら燕青さんに渡して」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
ふと、そんなこと思い出した。なんとなく笑ってしまう。
そのとき隣の席から漂ってきたふんわりとした香りで、影月の手にした饅頭にだけ栗が入っていることに気付き、秀麗はますます笑みを浮かべた。
お饅頭二つと、特別栗入り饅頭では、果たしてどちらが上なのだろう。
そんな事を思っていると影月もそれに気付いたのか、香鈴をちらっと見て、香鈴もそれを知られてしまったことに足早に出て行ってしまった。
ほほえましい様子に視線をやりながら、先程思い出した姉──琳麗と、この場にいない家人のことを思い出す。
「……静蘭、またあちこち飛び回ってるの?」
燕青は饅頭をぺろっと一飲みにした。
「まあな、しゃーないって。どこの州も軍関係は机案仕事ばかりじゃ動かねーから」
「うん……」
武官の立場にある静蘭は、茶州の軍部との折衝で、秀麗たちとは完全に別行動をとっているのだ。
燕青は残りの饅頭も口に含み
「それにあいつ、琳麗姫さんの行方も探してるかもしんねーし」
「……香鈴と龍蓮以外は見ていないって言うし……姉様、本当に茶州にいるのかしら?」
「でも、あのお二人が嘘をつくとは思えませんし」
一応会っていた影月だったが、記憶がない為なんとも言えずにいた。
秀麗はため息をついた。確かにそんな嘘をつくはずも、つく理由もない。だが、茶州にいるという姉はどこにいるんだろうか?
再び、ため息をついて話題を変えた。
「……で、燕青、琥漣で何が起きてるのか、そろそろ訊いてもいい?」
「お?」
「だって茶州に入るまではあんなに急かしてたのに、ここにきて何も言わないんだもの」
今までこの金華までの旅路はたいそうな強行軍だったというのに、ここへきてすっかり騒動の事後処理にかかりきりで、茶都・琥漣への旅をいっこうに始めようとしない。
秀麗が口火を切ったことで、影月も思慮深げに肯いた。
「ここから琥漣まではゆっくり行っても五日ほどで着くとはいえ、赴任の期限までもう二十日ちょっとですし」
「それを過ぎると問答無用で州牧の地位を剥奪されるのよ!」
「分かってるって。でもあと一日二日待って? そろそろ柴 彰経由で最新の琥漣情報が届くと思うからさ。そしたら出発しようぜ」
全商連の特区長をつとめる柴 彰の掌握する優秀な情報網は、ときに国をも凌駕する。
秀麗はそれに「そう……」と答えた。そしてふと思いついて、燕青に訊いた。
「ねえ燕青、鄭補佐のことなんだけど、大丈夫なの?」
「う、うん? 悠舜か……まあ、大丈夫だって!」
一瞬、言葉に詰まったが、お茶を飲んでにかっと笑った。
そのあっけらかんな口調に、秀麗の片眉がつりあがった。
「なにそれ! 心配じゃないの?」
「そうですよー。今まで州牧代理として最高決定権と代印をもってらっしゃいましたから、無事でしたが、秀麗さんと僕の赴任決定でこちらに権限が移ったことを思えば……生命の危険もありえるんですよ!」
真摯な眼差しで話す二人に燕青はの端を上げた。由官吏を見て口を開いた。
「いやー、今の台詞、悠舜が聞いたら泣いて喜びそーだなぁ」
「ええ。……きっとじーんとするのではないでしょうか」
由官吏は温かいお茶のせいか、ほっこりと頬を染めて笑った。
「悠舜のことは大丈夫だ」