秀麗たちが金華を出立し、通常五日の距離を駆けに駆けて三日まで縮めた翌朝、一行は琥漣へと入ったのだった。
馬車と四頭馬をつなぐ紐を切り、燕青は影月を、静蘭は秀麗を抱き上げ馬に乗せて、柴彰の姉、柴凜の邸へと三頭の馬は駆けていった。


   ◇◇◇◇◇◇◇◇◇


秀麗たちが無事に琥漣に入ったのを感じた琳麗は、すっくと立ち上がった。
それを見た霄太師も立ち上がり、ゆっくりと琳麗へ近づいた。


「そろそろいいですかな?」

「はい、お待たせいたしました」


霄太師の問いに琳麗はにこやかに答えた。秀麗たちが無事に琥漣に入るか心配していたので、気配をおっていた為に、逢いに行く方へ遅々していた。


「……遅くなってしまってお怒りになっているでしょうか?」


不安げに見てくる彼女に霄太師はこめかみをもんだ。――きっと、いや確実に怒っているであろう。だが、それは自分に降り懸かる怒りだ。


「……まあ、そうでしょうな。では手をよろしいですか?」

「はい」


霄太師は琳麗の手を取ると、彼女の目許に手を添えた。次の瞬間、煙りに包まれるような不思議な感覚に陥った。やがて声が聞こえてきた。

──茶家の誇りを取り戻す――。

「それが、鴛洵の口癖じゃった……」


縹 英姫は昔を懐かしむかのように、そっと瞼を伏せた。


「そのためなら、どんな汚名もうけた。降り注ぐ誹謗中傷にも、ただの一度も弁解なぞしたことはなかった。言の葉を弄するよりただ黙々と心を尽くし、陛下にお仕えして誠を示した。お前のような狸さえおらねば、陛下の右腕は間違いなく鴛洵じゃった」


すべてに錠がおりたはずのこの室で、英姫の言葉とともに煙のごとく若い男が娘を抱き抱え現れた。
いくらでもある中央の空間ではなく隅の方にそろっと、まるで怒られるのを覚悟するかのように立ったのは、よく見知ってはいるが五十年も昔の顔だ。
けれど英姫はまったく動じなかった。ふん、と鼻を鳴らす。
琳麗は曖昧に聞こえていた言葉がはっきりと耳に届いた時、ゆっくりと瞼を上げた。


「……英姫、様…?」

「琳麗か、なんと美しくなったことか。しかしよくもまあ、こんな狸と来やったのぅ。なにもされなかったか?」

「……霄太師にはすっかりお世話になりましたので大丈夫ですわ。お久しぶりでございます、お逢い出来て嬉しく思います」


琳麗はゆっくりと跪拝をし、礼をした。その様子を見た英姫は立ち上がり、琳麗を立たせた。かの姫君に跪かせるのはなんとも言えない。


「わたくしも逢えて嬉しいぞ。文を受け取ってはいたが、まさか、この時期にとはな。まあ、よい」


そう言うとちらり、と隅に未だいる霄太師を見た。


「よう来やったなこの腐れ男。よくもわたくしの前にその面さらしたものじゃ」


霄太師は自分の姿を見ても眉一つ動かさない昔なじみに嘆息した。ふと、やはり驚きもしなかった彼女の夫を思い出して小さく笑う。……よく、似ている。


「……英姫、君が望むなら、ここからすぐに出してあげられるのだが……」

「霄、今は偉そうに霄太師じゃったな。じじいがわざわざそんな姿で来よって、無用じゃこの唐変木、狐狸妖怪、人外魔境の若作りめ。誰がお前なんぞの力を借りるか」


英姫は琳麗にかけた言葉とは違い、ズバズバと霄太師を一刀両断してのけた。男は首をすくめて後退った。
昔も今も多分これからも、自分を一歩後退させるという偉業を成し遂げられるのは彼女だけだろう。
琳麗といえば、二人の邪魔にならないようにと隅へと下がり、英姫の言葉に(やはり狸の妖怪だから若作りが出来るのか)などと感心していた。


「ひとつ訊く。お前が一年半もガメつづけた茶家当主の指環は今どこにあるのじゃ?」

「……ガメ……だ、だいぶ口が悪くなったな英姫。いや、指環は近いうちにここへ戻る」

「そうか。それだけ聞けばもう用無しじゃ。とっととどこぞへ消え失せい」

「英姫……」

「ここに入れられたときにわたくしは決めた。我が夫の一族の誰かがここからわたくしを出そうとせぬ限り自ら出て行かぬと」


英姫は齢を感じさせぬ凛々しさで言い切った。


「未来はな、いまだ時が無限にある若者の手でこそ切り拓くものじゃ。すべて壊すことも、もう一度やり直すことも、これから先そこで生きていく者にこそ決める権利がある。老いた者はただ、求められたときに求められただけ知恵を貸し導いてやればよい。……わたくしが出ていき、一喝して馬鹿者の尻を蹴飛ばしてやるのは簡単じゃ。けれどわたくしが死んだあとはどうなる?すべてを変える果てない時はとうに使い果たし、遠き昔に行き過ぎたのに」

「…………」

「だからわたくしはただ待つ。よいか、決して動くのが面倒なわけではないぞ。わたくしはこう見えて、いま人生最後の大勝負の真っ最中なのだ。お前に構っておる暇などない」


邪険に追いやる姿もその言葉の強さも昔のままで。


「話があるなら、すべてが終わったあとに聞いてやる。一年半の遅刻の理由もたっぷりとな」


霄太師は笑いたくなった。英姫は何も変わらない。変わらず美しい。彼女こそ茶 鴛洵を愛し、愛されたたった一人の稀なる女性。
聞いていた琳麗もその姿を目を細めて、英姫の姿を眺めた。──なんて美しく素敵な女性なのだろう。


「……勝算は?」

「そんなもの、いちいち真面目に考えているから男はダメなのじゃ。よいか、わたくしが一度でも勝算なぞ考えていたら、あの鴛洵を手に入れることなぞ永劫不可能じゃったえ」


   ◇◇◇◇◇◇◇◇◇


数日後、琳麗はそのまま英姫が捕われている室にいた。
たまに訪れる仲障がつけた侍女には見えないように霄太師に術をかけられていたのだった。
夕餉を取った後、二人は話しをしていた。それは鴛洵への英姫の愛の話であったり、若い頃の霄太師や宋太傅の話も聞いた。
そして、英姫は琳麗に訊いたのだった。


「……そなたは母君のことを覚えているのかえ?」

「母様のことですか? えぇ、それなりには……」

「そうか」

「よく母様が話して下さった話が大好きでした。『薔薇姫』の話です」


何度も何度も聞いた。不思議な力を持つ美姫の話。胸がどきどきして、男にさらわれた話では少し憧れたりもした。
だけど、力を失った薔薇姫は娘を救う為なら生命を惜しまなかった。ふと、琳麗は何かが引っ掛かった。
まるで……そう、まるで母のようではないのだろうか? 母は不思議な力はなかったが、薬湯作りに長けていた。

そう考えたその時、この邸において秀麗の気配を感じ取った。


「紅州牧かの? この気配は……朔洵が連れて来たようだのう」

「はい、秀麗の気配です。一体、どうしたのかしら?」


茶家当主選定式に呼んだと聞いてはいたが、もう来たのかと思った。
朔洵は当主になる事に興味はないはず。だが仲障は、"紅家の血"が欲しいのか、怒らせるのが怖いのか、紅家直系の姫──秀麗と朔洵を結婚させようとしている。

そんな肩書でしか、他人を見ないとは……。

琳麗はため息を吐いた。

(……秀麗を泣かせたらただではすまないわよ、茶 朔洵)

琳麗は朔洵へと殺気を飛ばしたのだった。


   ◇◇◇◇◇◇◇◇◇


翌日、秀麗があちこち歩き回る気配を感じた。邸の中を徘徊しているのだろう。
英姫様を探しているのかもしれない。なんだか、不思議な気配を感じた。これは……と考えて、思い出した。
王宮に入り込んだ"茶州の禿鷹"の片割れの気配だ。


「……すごい味方をつけたわね」


つくづく秀麗の幸運を呼び寄せる運命はすごいを感心したのだった。
──数日後、室で翔琳から渡された見取り図に印をつけながら、秀麗は顔を引き攣らせた。


「……なんなのこのあやしさ大爆発は……」


茶家当主選定式も、もう目前に迫っていた。もちろん、州牧着任式もだ。


「克洵さんの居場所も、英姫さんの居場所も、誰も何も言わないし。そのくせ間取りにおかしいところ多すぎだし」


見取り図は朱墨で印をつけすぎたせいですでに真っ赤だ。そこは、内部の室まわりと屋根の広さ、外壁周りにずいぶん差が出ているところだった。
これは猿顔負けの機動力を持つ翔琳があちこち飛び回って発見したお手柄なのだが、それにしってこの隠し室の多さはなんだ。


「……いちばんあやしいのがここの地下の異常な広さよね─」


ほとんど母屋の中心に位置する場所を、筆のうしろでコンと叩く。
この空洞部分を発見したのも翔琳だった。足の裏の感じがおかしいところがある、と秀麗に物申したのだ。

『足の裏に妙な感じで音がはねかえってくる。これは獣をつかまえるために落とし穴をつくって確認のため感触を確かめたときと同じだ。下にぽっかりあいてるぞ、あそこ。足音の跳ね返り方からして、広く深いが何だかモノがごちゃごちゃ置いてあるようだ。それに微量な熱源を察知したぞ』

翔琳だからこそ発見し、教えられた秀麗はますますこの邸の怪しさにため息をついた。
どうやって入るのかはわからない。見取り図に記された場所は、茶 仲障の私室。その真下だった。
しかし、秀麗は知るよしもなかったその場所──縹 英姫が監禁されている室に姉、琳麗がいることを。
霄太師によって結界をかけられている琳麗は、そばにいる英姫にしか見えない。その為、翔琳もその気配は読めなかった。
色々と考えを巡らせ、英姫の居場所の見当をつけたときに燕青から返ってきた言葉を思い出す。


『英姫ばーちゃんは超強えーから大丈夫。心配なのは克洵のほう』


万一のことを考えれば気が焦る、こん、と筆の尻を見取り図に叩いた。その場所は庖厨所。


「とすれば、配膳の流れをおさえればいいんだけど……どこにも余剰分が流れこむような不自然なところがないのよねぇ」


庖厨所を張っても不明瞭な配膳先や妙に量が多い盆というのもない。毎日翔琳とあっちこっち歩き回り、隠し室探索ももうほとんど制覇する勢いだ。残るは──。


「……う―ん、でもこの見取り図……なんか違和感があるのよね。賃仕事してた大きなお邸と比べても、なんか……足りないところがあるっていうか」


特に庭院を歩き回っているときに、この見取り図と相違を感じる。どこかにぽっかりと空白地帯があるような気がする。
仮にも彩七家の本邸である。秀麗は宮城で比較をしていくうちに、ふっと気付いた。


「……あれ、そっか。足りないところってもしかして……」

(秀麗殿、庭院の外れに、何やら見取り図にはない小さな宮があったぞ)

「……ありがとお頭。とりあえず、ちょっと訊いてみるわね」

(なにやら、あんまり長居したくない場所だ)

「そうね。もし思った通りの場所なら、ちょっと普通とは違うところだからそう思うかも」


そう呟き、秀麗は朔洵がやって来た時、問いただしてみたら、彼はあっさりと認めたのだった。
そして、彼は伝えにも来た。茶 仲障が秀麗と会うという事を。
そこで秀麗はきっぱりと言い放った。朔洵と結婚する意はない事を。


茶家当主選定式まであとわずか――。


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蒼天の華 / 恋する蝶のように