ガラスの小鳥はなにを運ぶか
よく冷える冬の午後三時。
北方の地、極寒の国境線にそびえ立つブリッグズ砦に勤める私は、白く染まった窓をなんの気なく見ていた。
なにも映さないその白に、触れてみる。冷えた指先をなぞらせて無意識に描いていたのは、今でも忘れられないキンブリー少佐との思い出が詰まった、小さなひよこの絵だった。
私たちがまだ中央司令部に勤務していた頃、書き損じて反故にしてしまった書類の隅にらくがきをしたことがあった。昔からひよこが好きな私は、休憩時間の合間に息抜きがてら、ひよこの絵を描くことにしたのだ。
丸みを帯びた曲線で頭と体を描き、まん丸のおめめにまつ毛をちょこんと付け足す。くちばしは尖らせないで、ほっぺたの赤みも忘れずに。最後に小さな羽を描けば……。
『おや、可愛らしい絵ですね』
キンブリー少佐の声が頭上から聞こえてくる。反射的に絵を隠そうとするものの、彼はそれを拒んだ。
『見せてもらっても?』
『えっ、こんならくがきをですか?」
『なかなか良い絵です。描き方を教えてください』
とても意外だった。この絵はどこからどう見ても、女子が好みそうなファンシーな絵柄なのに、そんなイメージとは無縁の少佐がそう言うなんて。意外と、可愛い物好きなのかもしれない。それとも、歩み寄ってくださっている?
どちらにせよ、嬉しかった。
『良いですよ、とっても簡単に描けますから。まず顔の輪郭は……』
――ふと、我に返る。
懐かしい。けれど、寂しくもある。あんな穏やかな日常が、これからもずっと続いていくと思っていた。それなのに。
あれから七年が経つ。今でもひよこを描くと、あの人のことを思い出す。
彼はどうしているだろうか。元気にしているだろうか。まだ生きて、いるのだろうか。
窓に描いた絵は依然としてそこに残っている。
青い鳥は幸せを運ぶと言われているけれど、このガラスに描いた黄色の小鳥は、なにか運んでくれるのだろうか。
「まだ着きませんか、マイルズ少佐」
聞き覚えのある声に、思わず目を見開いた。
「あと少しだ。この長い廊下の先にある」
「まあ良いでしょう。出所後の良い運動になる」
はっとして、こちらに向かってくる声の主を振り返る。
マイルズ少佐の隣にいる、ソフト帽を被った白いスーツの男性と目が合う。
見間違えるはずがない。まさしく、何年も想い続けている人だった。
「キンブリー……少佐」
「ラシャード、少尉」
私たちは、そばにいるマイルズ少佐の疑問符など眼中になく、ただじっとお互いを見つめあっていた。
思いがけない形で再会した私たちは、嬉しいことにふたりきりで話をさせてもらえることになった。事情を察したらしいマイルズ少佐が、「アームストロング少将に呼び出された。砦の案内はきみに任せる」と、恐れ多くも気を遣ってくれたのだ。
マイルズ少佐の靴音が遠ざかっていく。もう一度、キンブリー少佐の顔を見ると、勤務中だというのに勝手に涙がこぼれそうになった。
痩せている。だが、昔よりも一段と、凛とした顔つきになったように見える。
やっと逢えた。
「これはこれは、懐かしい絵ですね」
彼は窓に視線を移している。ガラスの下の方には、先ほどらくがきしたひよこが残っていた。
彼は言葉を続ける。
「もっとも、私にとっては懐かしいほどではありませんが」
「と言いますと……」
「つい昨日、これを象った時計の玩具を作ったのですよ」
自然と口元が綻ぶ。
嬉しい。こうして再会できたことはもちろん、少佐がひよこのことを今日まで覚えていてくれたことも。
けれど、その喜びをどう表現していいのか分からなかった。嬉しいのに、どうにも現実のように思えない。なんだか夢を見ているようで、言葉が出てこないのだ。
ひよこの線は徐々に崩れ始めた。線の水滴がつららのように、下へと滑り落ちていく。それは、ひよこの目の下にもひとすじ流れている。
まるで、ガラスの小鳥が、私の代わりに嬉し泣きしてくれているみたいだ。
「少尉、今度は貴女がこの砦の案内をしてくださるのですね?」
「はい、キンブリーしょ……中佐」
やってしまった。そういえば彼は、イシュヴァール戦にて中佐に昇進していたのだった。どうしても過去の呼び名の方が口をついて出てしまう。今度は失礼のないようにしなくては。
彼は、私の右肩にそっと手を置いた。
「階級で呼ぶ必要はありません。どの道、もう軍には戻りませんから」
軍には、戻らない。もしかしたら、職場復帰は不可能なのかもしれない。ということはもう、あの頃のように、ともに仕事に励む日々は戻ってこないということだ。
けれど、彼にまた会えたのだから。沈んだりはしない。きらきらした思い出は胸にしまい、今度はもっと幸せな日々をまた作り上げていけば良い。中佐と一緒に。
ところで、これから彼をどう呼べばいいのだろう。慣れ親しんだ階級で呼ばなくても良いなんて。
彼は、戸惑う私の肩章に目をやる。そして、優しいまなざしで私を射抜いた。
「失礼。貴女も昇進したようですね。おめでとう、ラシャード中尉」
「恐縮です。キンブリー、さま」
「かしこまりすぎですよ」
彼は笑った。そうは言っても、勤務中はどうも態度も口調も硬くなってしまう。なにより、久しぶりの彼に馴れ馴れしく接することができない。
「まあ、良いでしょう。砦の者たちに我々の関係を知られては厄介ですからね」
その代わり、とほとんどささやきかけるような声音で、彼は告げた。
「プライベートでは、分かっていますね?」
妖しく笑う彼を前に、遠慮がちにこくりと頷いた。
「そしてこちらが、キンブリーさんのお部屋になります」
彼は渡したキーをさっそく鍵穴に入れ、鉄製のドアを開けた。と同時に腕を引っ張られて、あれよあれよという間に部屋の中に連れ込まれる。
そして、扉が閉まる音と同時に、ぎゅっと抱きしめられた。
ふっ、となにかがこみ上げてくる。
「アヤ」
「キンブリー、さん」
いつの間にか、雫が頬を伝っていた。
ああ、大好きな人の懐かしい匂い。腕の締めつけとぬくもり。世界で一番大切なひとにまた、包まれることができるなんて。
彼の頸が肩口からゆっくりと離れていく。視線を交えたら、言葉なんてひとつもいらなかった。
どちらからともなく吸い寄せられていく唇。まるで熱い磁石みたいだ。
あたたかな温度に触れて、また触れて、そして深くなる。角度を変えて何度も重ね合うその微熱に、とろけてしまいそうになる。
絡まる舌が熱くて、激しくて。もっと欲しい。もっと、こうしていたい。
目尻からこぼれる涙は、泣いていたひよこのそれと同じ、幸福な涙だ。
「……っは」
息継ぎする間が惜しい。失っていたふたりの時間を取り戻すかのように、私たちは夢中で互いを求めた。
気づけば、軍服の上前のボタンがはずされている。彼は当たり前のように、ふたつしかないボタンの最後に手をかけていた。
「少佐、今は……!」
呼び慣れた呼び方が口をついて出た。彼の瞳が細められる。
「名前では呼んでいただけない?」
「キンブリー、さん」
「そうではなく」
頬を、優しく撫でられる。その動きに促されるように、吐息がもれた。
言葉にしたら、きっと、止まらなくなる。
「もう少し、聞こえるように」
艶のある声でささやかれる。たまらなくなって、私もうっとりと呟いた。
「……ゾルフ……」
「ああ、逆効果でしたね」
欲を孕んだ声とともに、そのままひょいと抱えあげられる。驚く私をよそに、彼はダブルベッドに一直線に向かった。
だめとか、いやとか、なんとか抵抗できたはずなのに、勤務中だからやめなくてはいけないのに、そんな言葉はドアの前に置き忘れてしまった。
ベッドの上に転がされ、首筋をきつく吸われる。今だけは、どうか許して。
白布の海に沈んだ私たちは、結局、小一時間ほど熱の中を泳ぎまわった。
「許していただけませんか」
隣で横たえたキンブリーさんが言う。私は白い天井を見つめながら、夢見心地でぼんやりと聞いた。
なんのことだろう。思い当たる節がたくさんあって、どれのことだか分からない。勤務中にこうして肌を合わせたことか、六年も待たせたことについてなのか。それともほかのこと、あるいはそのぜんぶなのか。
「許すもなにも、最初から怒っていませんからね」
「……貴女が、寛容で忍耐強い女性で助かりましたよ」
むきだしの肩が肌寒い。彼の左腕をそっと抱きしめた。
「でも、寂しかったです」
「悪いことをしたと、思っています」
「いえ、もう良いんですよ。その代わり」
これから先もずっと一緒にいて。もうどこにも行かないで。
本当はそう告げたかったはずなのに、言えなかった。願いとは真逆の未来が訪れるのが怖い。もし彼に優しい嘘をつかせてしまい、それを私が信じてしまったらと思うと、恐ろしくて。彼との別れを経験し、いつの間にか臆病になってしまった私は、ついに言い出せなかった。
だから代わりに、別の言葉を口にした。
「明日も、一緒にいてくださいね」
彼は返事と同時に、もう一度私を抱きしめた。
「ええ、もちろんですよ」
幸せなのに切ないこの時間を、ゆっくりと噛みしめるように、瞼を閉じた。
甘いひとときの余韻が消える頃、私はやっと大急ぎで着替えを済まし、彼とともに部屋を出た。
マイルズ少佐には、一時間かけて砦の案内を済ませたと嘘をつくしかなかったのだけれど、果たして勘の鋭い彼は信じてくれただろうか?
ガラスに描いた小鳥は、私が焦がれてやまなかった大切なひとを連れてきてくれた。そして、青い鳥が運んでくるよりも、大きな幸せを運んでくれた。
ちゃんとお礼を言いたかったけれど、残念ながらその姿はなくなっていた。きっともう、窓の外へお散歩に行ったのだろう。
(了)20160524
(改)20190115