(生きることに迷いを抱いている少女の、とある静かな一夜)

何処にも行けなかった。
この身に生える二本の足は私を正解の道へと運んでくれないままに、ふらふらと覚束なくアスファルトを踏み拉くばかりで、いよいよ途方に暮れるしかなかった。

夜はとっくに降りていて、鈴蘭に似た形のお洒落な街灯が規則正しく闇に黄色の穴を空けていた。
派手なネオンでもあれば、あの空虚な明かりたちが私の心持ちを少しでも上向きにしてくれたのかもしれない。
けれども私の、どうにも使えない足の爪先は、道の暗い方へ暗い方へと向かい続け、今や遠くに目を凝らしたところでそうした派手な明かりは一つも見つかりそうになかった。

夜の黒。街灯の柔らかな黄色。アスファルトの灰色。地味でつまらない、静寂の過ぎる人気のない小道。
この足に全てを任せた結果、私は今此処にいる。私の足は、私に相応しい場所をいよいよ分かっている。
だからこんなところに案内されたのだ。私はこの夜のような人間、地味でつまらない人間なのだ。
そうした、強引な理屈付けに酔い痴れて、乾いた笑いを転がそうとしたけれど、できなかった。
あまりにも静かで、暗くて、寂しくて、どうしようもないくらいに悲しくて、頬が凍り付いたように動かなかったのだ。

「……」

けれども、その通りから少しだけ小道に逸れたところ、その角から、眩しい光が少し漏れていて、
その小道を覗き込めば、地味でつまらない夜を彩るように、眩しい赤色のネオンが一つだけ、道の脇に輝いているのが見えた。
そのネオンが示すドアもまた、地味でつまらない夜を否定するように、屹然とした凛々しさでそこに佇んでいた。

ああ、と私はにわかに嬉しくなってしまった。凍り付いていた頬はあっという間に溶けて、気が付けば私は安心したように、救われたように笑っていた。
地味でつまらない夜、地味でつまらない私。それらを美しく彩ってくれた赤のことが、この夜と私の矮小さを否定してくれた力強い赤のことが、大好きになってしまった。

ぐにゃぐにゃと曲線を描く蛍光灯は、おそらくこのお店の名前を書き表しているのだろう。
けれども私には、読めなかった。何のお店であるのか分からないままに、私はドアへと手をかけた。

木の僅かに軋む音のすぐ後に、リン、と来店を知らせるための鈴音が鳴った。
アルコールと果実の匂いがふわりと鼻先を掠めて、しまった、と私は思ったけれど、優しく「いらっしゃい」と声をかけられてしまっては、もう、どうしようもなかった。
此処はお酒を振る舞う場所なのだ。そんな場所に私が入ってしまった。「お酒を飲めない私」が、ただ、店先の赤色に惹かれたという理由で、入ってしまった!
あの美しく力強い赤色は罠だったのだ。私はあの赤い罠に嵌まってしまったのだ。そうした重たい後悔と絶望に足を引きずりながら、私は一歩、二歩と奥へ進んだ。

照明を限りなく落とした狭い店内は外とほとんど変わらない暗さで、けれどもその暗い空間の中に二人の男性がいることは分かった。
カウンター席の向かいでお洒落なカクテルグラスを磨いている初老のマスターと、そのカウンターの一番奥でグラスを傾けている、白い帽子を被った髪の長い男性。
カウンターはL字に折れていて、椅子は全部で5つ。小さく、狭く、慎ましやかな、隠れ家のようなバーだった。

私は散々迷った挙句、先客の2つ隣に座った。座ってから、さて、この「お酒」という難題をどのように乗り切ろうかと頭を悩ませる羽目になってしまった。
マスターの差し出してくれるメニュー表には、当然のようにカクテルの名前ばかりが並んでいて、
どうしよう、どうしようと焦れば焦る程に、その焦燥が文字をぐにゃぐにゃと歪ませていって、メニュー表を読むことはもう不可能といった状態にまでなってしまった。
早く探して、注文しなければ不審に思われてしまう。けれども文字が読めない。頭が働かない。焦燥と緊張に私の身体は冷えるばかりであった。文字がまた一度、大きく歪んだ。

やはりこんなところへ来るべきではなかったのだ。赤に、惹かれるべきではなかったのだ。
私は何処にも行けないまま、あの地味でつまらない夜を歩き続けるしかなかったのだ。

「マスター、この時期の……旬の果物は?」

それはまるで、この静かな夜に響かせるために作られたかのような、毅然とした、一切の躊躇のない張りのある声だった。
私は弾かれたように顔を上げ、……そして、暗がりの向こう、白い帽子を被ったその男性が、その目をすっと細めている姿を、見た。

「……」

彼は「マスター」と呼んでいるにもかかわらず、何故だか私の方を見ていた。
その細められた瞳には、もし、このバーがもっと明るかったなら、泣きそうに顔を歪めた私が映っていたに違いない。
……などと、そうした驕りを抱かせてしまう程に、彼の視線は真っ直ぐだった。彼の声音と同じように、毅然とした、一切の躊躇のない視線だった。

「苺がよく熟れてございますよ」

「ではそれをフローズンカクテルで。……ああ、アルコールは抜いていただけるかな」

「かしこまりました」

アルコールは、抜いて。
私の都合の良い空耳でなければ、あの白い人は確かにそう言った。
フローズンカクテルとは何なのか、苺の果実をその飲み物にどうやって使うのか、そうしたことの一切が私には分からなかった。
けれどもとにかく、その不思議な飲み物が此処では飲めるのだ。そしてそのフローズンカクテルは、アルコールを入れずに作ることもできる代物なのだ!

「私も、同じものをお願いします」

「はい、かしこまりました」

マスターは小さく頷き、二人分のフローズンカクテルを用意するために私達へと背を向ける。
食器の音、氷のぶつかる音、苺の強い香り。そうしたものの全てを暗がりで感じながら、私は細く長く、マスターに聞こえないように、息を吐く。
注文ができたことへの安堵と、この素敵な場所で私にも飲めるものがあったのだという歓喜。それらを噛みしめるように、私は強く目を瞑り、そして開く。
その途端、ぐにゃぐにゃと歪んでいたメニュー表の文字が、ぴくりとも動かなくなった。
先程まで私を支配していた焦燥、緊張、不安、そうした何もかもが嘘のように凪いでしまって、私はその平穏にもまた、困惑した。
メニュー表の文字はそんな私を、ただ静かに穏やかに見ていた。

「……」

そして、歪まなくなった視界で、私はもう一度あの男性を見る。もう細められていない彼の目もまた、私の方を見ている。
薄暗くてその瞳の中を覗き込むことはできないけれど、もう少しこの部屋が明るかったなら、きっとそこには先程よりも幾分か落ち着きを取り戻した私が、映っているはずだ。

白い帽子、白いシャツ、白いベスト、白いズボンに白い靴、白いコート、そこから伸びる白い指、それらを纏う彼の白い微笑み。
大きな背中を二分するように、長く伸びた黒髪が一つに束ねられ、すっと流れている。
ネクタイの色は臙脂色か、あるいは緋色であるのかもしれないけれど、この薄暗さではよく分からない。
そんな彼のカウンターには、ワイングラスによく用いられるような、ステムの付いた楕円型のグラスが置かれている。
中に注がれているのは、暗がりでもはっきりと分かる程に鮮明な、目の覚めるような赤色だった。薔薇の花をたっぷり溶かしたような贅沢な赤に思わず息を飲む。
その視線に気付いたのだろう、彼はそのグラスのステムをそっと指で摘まんで、掲げてみせた。
グラスの赤の向こう、白いスーツと白いベストがその色に染め上げられていて、私は思わず、いいなあと、羨ましいと、思ってしまったのだった。

「飲んでみますか? カーディナルといって、赤ワインのカクテルです」

「……あ、その」

「冗談ですよ。……貴方、飲めないのでしょう? それなのにこんなところへ一人で来て、アルコールの夜を知り尽くしているかのような、顔をして」

見抜かれていたのだ。私がアルコールに全く慣れていないことも、バーと知らずこのドアを開けてしまったことも、メニューの文字が読めなくなる程に焦っていたことも、全て。
だから彼は、苺のフローズンカクテルなどというものを頼んだのだ。アルコールを抜いて、などという注文をしてのけたのだ。
あれは「彼の飲みたいもの」ではなく「私の飲めるもの」だったのだ。私は「運よく助かった」のではなく「彼に助けられて」いたのだ。
そうしたことにようやく気付いて顔を真っ赤にした私を軽く咎めつつ、彼は楽しそうにくつくつと笑った。

「けれども貴方は幸いでしたね。貴方の状況を察し、助け船を出せる程度には聡明で気の利いた「私」という先客がいたのですから」

顔にかかる二筋の長い黒髪が揺れた。白い肩が揺れた。ワイングラスの中身も同じように揺れていた。
静かで優雅な赤と白の共鳴を、私は恥じることさえ忘れてただ見つめていた。

「はい、貴方がいてくれて本当によかった。ありがとうございます」

敬服するのが当然だと思わしめるような自然な心地で、私は感謝の言葉を口にしていた。
この人の前では私の恥は誤魔化しようのないところまで来てしまっていたけれど、それでも、笑うことで幾分かマシになってくれるような気がしたから、私は笑った。
すると彼は、ワイングラスの中身……カーディナルに口を付けた状態で固まってしまった。
どうしたのだろう、と私が首を捻るのと、カウンターに二つのグラスが置かれるのとが同時だった。

「お待たせしました、苺のフローズンカクテルです」

「あ、ありがとうございます」

細く長いステムの先、逆円錐型のグラスの縁いっぱいに、シャーベット状のやさしい赤色が注がれている。
苺のスライスがその上に飾られていて、緑色をしたヘタが色合いをぐっと引き締めている。
可愛い女の子が好みそうな、可愛いカクテルだと思った。少し気が引けたけれど、それ以上にとても美味しそうだと思った。
このやさしい赤色が私の「初めてのカクテル」を彩ってくれるのなら、それはとても、とても素敵なことだと思えたのだ。

どうぞ、と1つを彼の方へと滑らせると、彼は帽子を取りつつ困ったように眉を下げて、にっと笑った。
それは先程の、恥を和らげるために私が見せた笑顔にとてもよく似ているような気がしたので、
私はグラスをカウンターの中途半端なところで止めたまま、固まらざるを得なくなってしまったのだった。

「……苺は、好きですか?」

「え? は、はい、大好きです」

「ではそちらも差し上げます。私の代わりに飲んでいただきたい」

私は、先程の恥を暴かれた時以上に顔を赤くした。真っ赤に火照って、汗ばんでしまう程だった。
彼はそうした私を見ながらやはり白い顔でくつくつと笑い、手を伸べる。フローズンカクテルの入ったグラスを私の指ごと包み込んで、拒絶を許さぬ力で私の方へと押し戻す。

アルコールの夜を知り尽くしているであろうこの人が、「苺のフローズンカクテル」がどのようなものであるのか、知らないはずがない。
彼は分かっていたのだ。「自らの苦手な味が出てくる」ことを分かっていながら、それでも私を誘導するために、これを頼んだのだ。
このやさしい赤色は、可愛らしく甘酸っぱい苺のシャーベットは、最初から、何もかも私のために用意されたものだったのだ。
私はそれに気付いてしまった。彼の、私によく似た笑い方に、気付かされてしまった。

「あの」

「何か?」

ごめんなさい、と言うべきなのだろうか。それとも、ありがとうございますと頭を下げるべきだったのだろうか。
このカクテルの分のお金は私が出しますので、と念押しした方がいいのだろうか。あるいは、何も言わずに涼しげな顔でこれに口を付けた方がよかったのだろうか。
真っ赤な顔で口をぱくぱくと動かしながら、一切の音を出せずに沈黙し続ける私を、彼はやはり楽しそうに眺めていた。
フローズンカクテルの甘い香りを私の方へと逃がしたことに満足したのだろう、その笑みはすっかり、白く尊大なものへと戻ってしまっていた。
その白は再びカーディナルのグラスを手に取る。グラスの赤はゆらゆらと揺蕩っている。

「……マスター、カーディナルをお願いします」

「!」

悩みに悩んだ挙句、私は彼の導きに従うことにした。
彼が「自分の飲めない赤」を私のために注文してくれたように、私も「自分の飲めない赤」を彼のために注文しようと思った。
私の謝罪、私の感謝、私の支払い、そうしたものよりもずっと、粋で洒落た報い方をしようと思ったのだ。
それがこの夜の作法であり、優雅な赤と白を纏う彼への敬意になると信じて疑わなかった。
これが、これこそが、私を導き、私をからかい、私を許した彼にできる全てであると、私は本当にそう信じていたのだった。

「……私の代わりに、飲んでくれますか?」

彼はしばらくの間、目を見開いたままに沈黙していたけれど、やがて僅かに残っていたカーディナルをくいと飲み干してから、

「義理堅い人間は嫌いじゃありませんよ」

と、告げた。

2019.5.17











運ばれてきたカーディナルは、近くで見るとより美しかった。
先程は「薔薇をたっぷり溶かした」ような赤だと思ったけれど、こうしてよく見ると、どうにもその形容は的外れであるような気がしてしまった。
これ程までに鮮やかな薔薇を私は知らない。どんな花弁を溶かしても、きっとこの赤のようにはなりようがない。
……ならば、このカクテルには「何」が溶けているのだろう。このカクテルは何を飲み込み、何を溶かしてその赤を保っているのだろう。

「美しいでしょう、この店の看板のようだ」

呟くように発せられた彼の言葉に、私はこの店のドアを開ける直前のことを思い出していた。
あの地味でつまらない夜の通りに現れた、明るい赤のネオン。私を肯定し、私を誘い、私を罠に嵌めたあの赤色。
透き通る輝きを持っていたあのネオンは、確かにこのカーディナルの赤にも似ている気がした。今日はよく赤を見る日だ、と思った。

「……貴方は、此処の常連さんなんですか?」

カーディナルを差し出しつつ、そう尋ねてみる。
彼は「どうも」と僅かな微笑みと共にそれを受け取ってから、首を振った。
グラスの中の気高い赤は、彼の白へと引き合わせられたことを喜ぶように、彼の首の動きに合わせてゆらゆらと波打っていた。

「今夜が初めてですよ。あの赤い光がどうにも美しかったもので、ついドアへと手を掛けてしまったのです」

「わ、私も!」

思っていた以上の大声が口から零れ出て、私は勿論のこと、彼も驚いていた。
きょとん、という擬音が聞こえてきそうなその表情は、優雅で尊大な有様を崩さなかった彼の姿を少し、ほんの少しだけ若く幼く見せた。

「私も、赤を見つけて、とても綺麗だと思って、嬉しくなってしまって、それで、此処に……」

「まさかアルコールを振る舞う場所であるとは知らずに?」

「……そ、その通りです」

彼は私の恥じる顔を肴にするかのように、くつくつと笑ってはグラスに口を付けた。
私もそのタイミングに合わせて、フローズンカクテルを少しずつ口へと運んだ。
シャーベットであるにもかかわらず、その冷たさは鋭くなかった。ひどく滑らかな舌触りで、ムースを食べているかのような感覚にも似ていた。
私はやさしい赤色を少しずつ、少しずつ、飲み下した。

「此処が煩いネオン街でなくてよかった。あの繊細な光は、おそらく明るすぎる場所に置くと他のネオンに埋もれてしまうでしょうから」

「確かに、あまりネオンらしくない、上品な光でしたよね」

「ええ、だからこそ、この静かな宵闇に相応しい」

何かにつけて、優雅で尊大な言葉の並びを好む人だった。毅然とした、一切の躊躇のない話し方をする人だった。その声、その視線、その表情、全てが堂々としていた。
立派で、完璧で、その姿が崩れることなど在り得ないのだろうと思わしめるに十分な装甲を、彼は身に纏っていた。

そんな彼と同じカウンターで、席を一つ分だけ空けたささやかな距離を挟みつつ、私はやさしい赤色を、彼は美しい赤色を飲み下しながら、時間を静かに、穏やかに流した。

「香りだけでも味わってみませんか」と、2杯目のカーディナルをこちらに差し出してきたので、私はそのグラスを受け取り、目を閉じて顔を近付けてみた。
濃い、濃すぎる葡萄と、アルコール独特の鼻を突くような刺激に、私は思わず眉をひそめて顔を背けた。
どれだけ美しい色をしていても、どれだけ彼と優雅な共鳴を為していたとしても、やはりこれはお酒で、私が口にすることのできないものなのだと思い知らされてしまう。

こうなることを読んでいたかのような、至極楽しそうな笑い声と共に「おやおや、お嬢さんにはまだ早すぎたかな」だなんて、そんな言葉が飛んでくる。
否定しようにも、見栄を張ろうにも、この美しい赤を飲み下せず、香りさえも満足に楽しめない人間であることは、
既に彼の知るところとなってしまっており、散々、からかわれた後であったのだからもう、どうしようもない。

同じ人の形をしているのに、同じバーの席にこうして座っているのに、私とこの人とでは決定的に何かが違うのだ。
そう、思い知らされてしまった。あの葡萄とアルコールの匂いが雄弁にそれを語っていた。

けれども私と彼との間にそうした隔たりがあるのならば、苦しむのが私だけ、というのはどうにも不公平である。彼にだって、苦しむ「隙」があるはずなのだ。
そう思い至った私は、2杯目のフローズンカクテルを彼の方へと差し出して、「香りだけでも味わってみませんか」と、先程の彼と一言一句違わぬ勧め方をした。

彼はカクテルグラスの細いステムを指で摘まみ、顔に近付けたが、すぐに眉をひそめて遠ざけてしまった。
それは私が先程、カーディナルに顔を近付けた時の動きにとてもよく似ていたものだから、「甘いものは苦手なんですね」と告げて彼からグラスを受け取った。
ささやかな仕返しのつもりであり、鼻で笑われる程度に終わると思っていたのだけれど、殊の外、彼は悔しそうに顔を歪めていた。
大きな手で二筋の髪を掻き上げながら「やれやれ」と大きく息を吐く。三日月のように弧を描く、その口の端から覗く歯の白と舌の赤に、またしても私は、息を飲む。

そうした、悉く私とは違う何もかもを飼いこなしておきながら、その悔しそうに楽しそうに笑う様はまるで子供のような、私にも覚えのあるものであるものだから、
私はこの人が、近くにいるのか遠くにいるのか、同じ人間なのか違う人間なのか、益々分からなくなって、混乱してしまいそうになる。
……けれど、それでも、私の飲むべきやさしい赤色と、彼の飲むべき気高い赤色は、一席分の間隔を置いたすぐ傍にこうして並んでいるから、
私はこの適切な距離感に甘んじて、ただ静かに目を閉じ、彼の優雅で尊大なところも、彼の陽気で勝気なところも、受け入れて、笑うしかないという有様なのだった。

白い帽子、白いシャツ、白いベスト、白いズボンに白い靴、白いコート、そこから伸びる白い指、それらを纏う彼の白い微笑み。
それらの装甲、純白の装甲からたまに覗く、私に似た笑い方のことが忘れられない。
彼の纏う白、彼の纏う装甲、その内側に招かれたかのような、あまりにも優しい一瞬が、脳裏に焼き付いて、離れてくれない。

今は苺のフローズンカクテルしか飲めない私、アルコールの夜を知らない私、彼と同じ赤を楽しめない私、やさしい赤色に甘んじている、私。
けれどもいつか、彼の好む優雅で尊大な赤に、美しく気高い赤に、触れることが叶うのだろうか。
彼の飲んでいる赤いカーディナルのグラスを隣に並べて、同じ赤を飲み下すことができる、そんな日がいつか訪れるのだろうか。
そうであればいい、と思う。そうあれるようにしたい、とも思う。

「……」

私は足元を見た。この身に生える二本の足を見た。
私を正解の道へと運んでくれないままに、ふらふらと覚束なくアスファルトを踏み拉くばかりであったその足を、見た。

今なら、歩き出せる気がした。
この優雅で尊大で美しい赤、それを大事に大事に覆う純白の装甲、その眩しいコントラストを覚えている限り、私は歩き続けることができる気がした。

「あの、ありがとうございます。貴方が、その、此処にいてくださったから、私、とても救われたんです」

「……それはそれは、どういたしまして」

彼は最後の一滴を惜しむように、グラスを高く掲げてその美しい赤を飲み終えた。
コトン、とカウンターに置かれたグラスはまだほんの少し赤色を残していて、それがとても綺麗な色だったものだから、私はまた、いいなあ、などと思ってしまったのだった。

歩いていれば、もしかしたら彼のような、優雅で尊大で美しい「何か」になれるかもしれない。
彼のように、とはいかずとも、彼の飲み残した、グラスの縁に付いた僅かな赤色くらいには、なれるかもしれない。彼を知る赤色に、なってみたい。
そうした、めでたい希望と共に私は苺のフローズンカクテルを飲み干した。
よく冷えた甘酸っぱい決意の温度をしたやさしい赤色は、私の喉をつう、と通って、心臓の奥深くに小さな火を灯した。
このやさしい火はきっと、私が歩みを止めるまで燃え続けるに違いない。

「しかし、できれば次回までにもう少しマシなものを飲めるようにしておいてほしいものですね。その方が私もより楽しめるので」

「……次回が、あるんですか?」

「さあ? どうでしょうね」

次、を仄めかす発言をしておきながら、私の追及にはそんな風にはぐらかす彼は、代金をカウンターに置いて立ち上がった。
背の高い人だった。帽子を被るその姿が更に凛として見えた。
帽子の下から二つの目が射るように私を見ている。帽子が深い影を作ってしまっても尚、私は彼の表情を読むことができる。
あの笑顔、優雅で尊大な微笑みが「そこ」に在るのだろうと、分かっていたから私は沈黙して、彼の作る空気を壊さぬよう静かに続きを待った。

「私と貴方が今夜、同じ光に惹かれたのはきっとただの偶然です。一度きりのことかもしれない。私と貴方はもう二度と、出会うことなどないのかもしれない」

彼は帽子のつばに手を掛けて、上げた。

「それでも私は、赤を探しましょう」

「!」

「貴方も「次回がある」と思うのなら赤を探しなさい。そこに再び私がいたならば、それは運命が私達を許したということ。その時には、貴方の名前を聞かせてほしい」

コツ、コツと彼の足が床を叩いている。ドアに手を掛ける音がする。木の軋む音が僅かに聞こえる。
「マスター、お釣りはそこにあるジュースの代金に充てておいてください」と告げて、すぐにドアを閉める。
カツ、カツ、とアスファルトを叩く音がする。靴音は徐々に小さくなり、やがて完全に消える。

私はそこで、止めていた息をようやく吐くことができた。
長く、長く呼吸を止め過ぎていたせいで軽く眩暈がした。動悸もした。眩暈はすぐに止んだけれど、心臓の音は……一向に静かになる気配を見せなかった。
震える手で空のカクテルグラスをもう一度手に取り、縁に口を付けた。苺の甘酸っぱい香りが、彼が顔をしかめた匂いがそのまま残っていて、少し、寂しくなってしまった。
この夜の偶然。私とあの人が同じ赤を見つけたという偶然。もう二度と起こることのない偶然。運命と呼ぶにはあまりにもおこがましい、ただの偶然。
けれどもその偶然が再び起こったのなら、私の見つけた赤の傍にもし彼がいたなら、彼に相応しい赤の場所でまた、彼に会えるのなら。

その時にはどうか、この偶然を運命と呼び変えることを許してほしい。
そのために何をすべきであるのか、私にはもう、分かっている。

初老のマスターはにっこり笑って「お代金はもう頂いておりますので」と言い、私が財布を出すことをやわらかく禁じた。
私は深く深く頭を下げつつお礼の言葉を何度も口にして、先程の彼と同じように、ドアを開けた。
木の軋む音がする。アスファルトを私の靴が叩く音がする。夜明けはまだ遠く、この道はやはり地味でつまらない。
それでも私の足は、何処へ向かえばいいのか分かっていた。灯された火はまだ小さく、けれども確かに私の行くべき道を照らしていた。

毅然とした、一切の躊躇がないこの歩みを、まるで彼の声音のようなこの足取りを、もしまた会うことができたなら、彼は褒めてくれるだろうか。

2019.5.17
ケイさんへ―――――――――――――――――――――――――――――――
葉月さんからいただきました。本当に素敵な物語を、ありがとうございます! 私はめっちゃときめいた!!!