※ 背後注意!

 壁時計の音がポーンと鳴る。午後三時のにぎわいを見せるブリッグズ要塞の食堂兼カフェ『ホワイトアウト』では、時計の小さな音など人々の声にすぐ掻き消されてしまう。
 しかし、ウェイトレスであるマオ・ビスマルクだけは、仕事中であろうがその小さな音をしっかりと聞いて、文字盤の上から出てくる青い鳥の登場を見届けた。
 ――もうそろそろ、ね。
 マオは、熱々のレモンティーをふたりの客にサーブし終えると、入口の方をそわそわと見た。人だかりの中にあの人がいるかもしれないからと、注意深く目を凝らすが、残念ながらお探しの人物はまだ来店していないらしい。
 ふう、と息をついたマオが視線を戻すより先に、男の声がした。
「マオ!」
 見れば、彼女が先ほどサーブした席の近くの空席に、声の主であるバッカニア大尉がどっかりと座って手を挙げている。軽戦闘用機械鎧、マッド・ベアGを装着している方の手だった。大柄で厳つい大人であるというのに、その表情は晴れた空を仰ぐ子どものようにイキイキとしている。
 彼を見つけたマオは、花のように顔を綻ばせ、そして駆け足で彼の元に行った。
「早いね、もう来てたんだ」
「女王様の仕事が早く片付いたからな。いつものを頼む」
「かしこまりました。すぐにお持ちします」
 マオがにこりと笑って踵を返すと、バッカニアははにかんで頬を掻く。その眩しい笑顔を直視できなかった、というように。
 はたから見れば、可愛いウェイトレスと、そんな彼女にひそかに恋をする不器用な軍人のように見えるだろう。実際、彼らの始まりはそうであった。たまにコーヒーを飲みに来るバッカニアに、マオが自作のケーキやクッキーをサービスをするようになり、いつしかバッカニアはそんな優しい彼女に好意を抱いて、毎日ここに通い詰めだした。マオとしては、客の喜ぶ顔が見たい一心で始めたのだが、緊張しながらも勇気を出して自分に告白してくれた彼を、好きにならないわけがなかった。彼らは、今や仲の良い恋人同士である。
 実は、マオにとってこれがはじめての恋愛だった。そして、それはバッカニアも同じだった。晴れて恋人同士になったは良いものの、お互いの戸惑いやら照れ臭さやらで、ただ手を繋ぐことさえも四ヶ月の時間を要した。さらにキスまでは半年かかり、その先にたどり着いたのは……ほんのつい最近のことである。
 そんな奥手なバッカニアを見かねた彼の同僚たちは、あの手この手でマオとの仲を進展させようと画策してきたが、いつもバッカニアにバレて追い払われてしまう。この間なんぞは、飲み会の後に同僚たちがふたりをそれとなく近くのホテルへ誘導しようとしたが、たくらみに気づいたバッカニアが、ついに顔を赤くして怒ってしまった。
「そういうことは、互いの気持ちをしっかりと確かめてからするもんだ! 酔いに流されて、ましてや人に勧められるままに、好きな女を抱きはせん!」
 バッカニアの強い言葉に、マオの心臓はとくとくと早鐘を打った。そして同時に、すべてをこの人に任せられる、という温かな安心感を覚えた。この人にならついていっても良い、いや、この人にしかついていきたくない……。マオはたまらなくなってバッカニアの背中に抱きついた。
 そうしてはじめて結ばれたのが、五日前の夜のことだ。
「お待たせしました、ホットコーヒーです」
 バッカニアの前にほわんと湯気の立ったマグカップが置かれる。彼がお礼を言う前に、もうひとつの品がテーブルに並んだ。それは、三角の小さなパイだった。蜂蜜が塗られたてらてらと光る表面に、ローズマリーが添えられている。どう見ても、サービスの品には見えない。これは立派なケーキセットである。
「ぬ、いつものシフォンケーキではないな。これは……」
「レモンパイよ。昨日、急にパイ作りに挑戦したくなっちゃって、作ってみたんだ」
「マオは器用だな。美味そうだ」
「そんなこと、私にはこれくらいのことしかできないから」
 マオは眉を下げ、困ったように笑う。そして、早く食べてみて、とパイを勧めた。
 バッカニアはフォークを突き刺し、ひとくち分のパイを口に入れる。そうして咀嚼してしばらくすると、ぱっと目を見開いた。
「う、美味いぞ。とても美味い!」
「本当に!?」
 良かったあ、と手を合わせてマオが笑う。バッカニアは満面の笑みでふたくち目を食べようとしていた。
 このパイには、マオの愛情がたっぷりと注がれている。しばしば彼女は、バッカニアのことを「ハニー」、「スイートパイ」と親しみを込めて呼んだ。今回はそれにちなんで、蜂蜜を塗ったパイを作ったのだ。
 マオは自分の手料理を美味い美味い、と夢中で食べる彼に優しい視線を注ぎ続ける。自分の作った手料理を食べてもらえること。それも、一番大切なひとに喜んでもらえること。大切なひとが美味しいと言って笑ってくれること。
 無上の喜びを、マオは感じていた。

 アメストリス中の子どもたちが寝静まる頃、要塞のとある部屋では女性の嬌声が響いていた。
 壁には、まるで熊が人間を捕食しているかのようなシルエットが映っている。しかしよくよく見ると、それは大柄な男と組み敷かれた女の、情事であることが分かる。
 その影は、バッカニアとマオのものであった。
「バッカニ、ア……あっ」
「――挿入ったぞ、マオ」
 マオは身体中に汗をかき、頬を紅潮させ、はあはあと息をしていた。とろけた視線の先には、同じく赤い顔で息を乱した彼がいる。
 バッカニアの右腕は鋭利な機械鎧である。彼はその手でマオを傷つけないようにと、生身の左腕でマオの開いた脚を押さえていた。
「ね、動かないで、あっ、ああっ」
「むう、無茶を言う。……できる限り、優しくする」
 その言葉を合図に律動が始まる。ずん、ずん、と揺さぶるように、突き立てるように、マオは暴かれていく。
 マオの中に侵入する巨大なソレは、彼女の思考力を奪うには十分すぎるものだった。まだたった二回目の行為であるのに、バッカニアははじめてのときのように静かにゆっくりと動かしてはくれない。それはマオへの想いを抑えきれなかった彼の、情熱と情欲をぶつけるどこか罪悪感の入り混じる行為となっていた。
 頭の中がぐちゃぐちゃになりながら、マオは愛する男の名前を呼んだ。
「あっ、ぅ、バッカ、ニアっ、あっ……!」
 抜き差しが繰り返される度に、マオの目にはじわりと涙が浮かんでくる。生理的な無垢な涙と、自身を呼ぶ甘い声は、バッカニアの更なる欲を煽るだけだ。だが、そうとは知らないマオは涙をぽろぽろこぼし、彼の名で喉を震わせる。
「バッカ、ニア、んっ、あ……っ」
「マオ、マオ……」
 バッカニアは愛しい彼女にくちづけると、さらに速度を速めた。中を圧迫される鈍い痛みと戦いながら、マオは必死にシーツを握る。
 お世辞にも、気持ちが良いとは言えなかった。それは無論バッカニアのせいではない。今までお互いに経験がないからであるのに、マオは快楽より痛みに眉をひそめてしまう自分がイヤになりそうになる。だからせめて、この目に愛しい人だけを映して、自身に言い聞かせた。
 ――私は今、バッカニアと繋がれている。他でもない、大好きな人と。ああ、私のハニー。私のスイートパイ!
 これは魔法のようだと思った。そう再認識するだけで、不思議なことにじんわりと胸に愛おしさが広がってくる。力んでいた表情が、ふっと緩まる。微笑むことができる。笑みが自然に浮かんでくるのだ。
 マオの良い変化に、バッカニアが切なげに笑う。
「本当に……可愛いな、マオは……」
「あ、ん、ああっ、あ……すき、バッカニアっ」
「ああ、俺もだマオ、好きだ、マオ、俺だけの……」
「だめぇ、もう、あ……いっ……」
 抽送が激しくなる。腰を打ち付ける乾いた音が大きくなる。マオはシーツを握っていた手を、無意識にバッカニアの首の後ろへ回した。
 いつのまにか苦痛ではなく快楽が自身を支配していることに、マオは気づいていない。だが、もうすぐなにかの波が来るという予感が、ふわふわとした頭でもはっきりと分かる。
 限界は、すぐそこだ。
「バッカ、ニア、いっしょに、いっしょ、にっ」
「はっ、ああ、一緒にイこう……く、ああっ……」
 マオの中で大きくなったソレが、一瞬ぶるりと震える。そして、お腹の中に温かいものが広がっていく瞬間に、マオは眉を寄せて弓なりに身体を反らせた。快楽の大波に、はじめて呑まれたのだ。
 ――ああ、気持ち良い。なんなんだろう、これ。
 ふたりは一気に弛緩した。ぜえはあ、と肩を上下させたふたりはやがて、お互いの顔を見合わせて笑った。彼らは紛れもなく、大きな幸せに包まれていた。

 静かな夜の音を聞きながら、ふたりはベッドに横たわって談笑していた。明日に響くからもう寝なくてはいけないのに、いつまでもこうして話していたいのだ。
 あるタイミングで会話が自然に途切れたとき、バッカニアがぼそりと呟いた。
「……結局、今日は優しくしてやれなかったな。悪かった」
「え?」
 目を丸くするマオに、バッカニアがぎゅっと抱きついてくる。そうされると、彼の表情が見られない。マオはそっと微笑んで目を閉じた。
「そんなこと気にしないで。だって、今日ははじめてハニーと気持ち良くなれたんだもの」
「ほ、本当か?」
「うん。とても気持ち良かった」
 他でもない愛する人と結ばれること、ひとつになること。それがあんなに大きな快楽を生むなんて、今日までマオには想像がつかなかった。万が一、バッカニアではない誰かと肌を合わせたとして、こんなふうに気持ち良くなることは、気持ちが満たされることは、絶対にない。マオにはそう確信できた。
 こんな夜を、いくつも重ねていきたいと思う。できるなら明日も、こうして彼の体温を感じていたい。彼と離れたくない。一生、一緒にいたい。
 人を好きになると、どこまでも欲深くなってしまうらしい。マオはそれでも良いと、それでも良いからと、バッカニアを抱きしめ返した。
 この温度をいつまでも感じていたかった。
「マオ、明日はいつものケーキが食いたい」
「シフォンケーキのことね」
「ああ。でも今日のスイートパイ、美味かったぞ」
 ――あなたは知っているのかな。今日のスイートパイに込めた、私の気持ちを。ああでも、知っているからこそ、そんな嬉しいことを言ってくれたのかもしれない。
 マオは、ありがとうと紡いで、こう続けた。
「……大好きよ、スイートパイ」
 食っても良いぞ、とのバッカニアの冗談に、マオは心から幸福そうに笑った。


_______________________________
大好きなあずきさんに贈ります。
(20191014)