これが夢だということ。
私は、夢を見ているのだということ。

またこれも、いつもの夢に過ぎない終わりを迎えるのだということ。


それだけは、誰に言われるまでもなく分かっていた。目を覚ましたからと言って誰かがこれは夢だと教えてくれる、というわけでは無いのだけれど。
見知らぬ誰かの、他人の視点で、ゆっくりと歩く二人の背中を見つめ続ける。

草臥れた、疲れた背中の持ち主の半歩後ろを歩く規則を守ったスカート丈の少女。高く結われた髪と長い尻尾が、彼女が1歩を踏み出す度に、肩を揺らして笑う度に、ゆらゆらと揺れていた。
窓から薄らと差し込む西日の明るさに視界がくすんで、私は僅かに目を細める。さっきよりもずっと狭まった視野の中にはやっぱり、二人の背中が写ったままだ。

その気になれば彼らをすり抜けて前に立って、その表情を見ることも出来るというのは、これまでの夢の中で試してきたことだから分かっている。それでも今は『私』たちの大きさも厚さも抱えるものも何もかも違う背中を見て居たくて、それは辞めておいた。

『私』が嬉しさの滲む声音で先生に何かを言う。先生はそれに顔を顰めながらもあーだこーだと口を挟む。
二人っきりの廊下、二人だけの空間で、あまりにもこれは、『幸せ』過ぎるような気さえするほどだ。何もかもが順調に行っていた時の、心の底からこの時が続けばいいと思えていた時の、『私』。
『幸せ』を当たり前のものだとばかりに享受していた『私』の絵に書いたようなそれに、胸のうちが掻き立てられる。

それは永遠のものではないと、もうそれを心の底から実感することの出来る日々は10年ばかりも残されていないのだと、叫んでしまいたくなる。お前がその人と一緒にいるには、笑い合うには、あとほんの少しの時間しか残されていないのだと。


知らず知らずのうちにその背中に向かって手を伸ばしていた時、ゆらりと、目の前いっぱいに頭を垂れた白い花が浮かび上がってきた。
今までの夢に一度もなかったその展開に驚くよりも早く、体の奥の奥が強く疼いた。驚愕や興味よりも先に、恐怖が、この身を支配していく。
徐々に遠ざかっていく二つの背中に焦りが、戦きが、怯えが、止まらない。今ここで見失ってしまえばもう二度と、取り戻すことは出来ない気がした。この花に捕らわれるような、そんな気が。

心拍に合わせるようにしてリンリンと私の中で警鐘が鳴り響く。
それを、その花を、私は――

気付けば眩しいとさえ思っていた陽の光は何処かに消え、窓を強く打つような雨が降っている。白い花が視界いっぱいに広がる中、二つの背中はもうどこにもなかった。


「っ……!!夢、か……」

夢から逃げるようにして目を覚まして一番最初に視界に入ったのは、すっかり見慣れた保健室の天井。薄桃色のカーテンで仕切られた小さな空間の中で、大きく息を吸う。それからそっと、体の上に乗せられていた掛け布団から腕を出した。

視界いっぱいまで広がっていた白い花は、勿論ここにはない。あれはあくまでも夢であり、当然私の夢の中に出てきたあの花も夢の作り出した産物に過ぎないのだ。
でも真っ白く、頭を垂れたそれは、あまりにも鮮明に私の記憶に刻まれていた。俯いて泣いている『私』のような花。

それに夢で白い花が視界の全てを遮るように現れることなんて、一度もなかったのだ。この15年間一度もなかったその登場はイレギュラーで、そして私を意味もなく掻き立てる。

…ひとまず起きたらちゃんと授業に出て、それから先生と皆に謝ろう。記憶はハッキリしないけれど私の記憶は予鈴のなった後、先生の入ってこないあの教室で途切れているから、1年生の頃のように倒れたに違いない。ただでさえも余計な心配をかけているって言うのに更には倒れた私をここまで運ばせて、要らぬ迷惑までかけさせることになってしまった。
この際誰がここに運んでくれたとか、そういうのは気にしない。最重要事項はちゃんと謝ること、だろう。
白い花に関しては、今日1日の授業が終わって、寮の自室に戻ったら調べる。生憎調べ物は得意じゃないけど、そんなこと言ってられるはずもない。

あの白い花にはきっと、意味がある。花言葉だって知りたいし、その花言葉がヒントになるかもしれない。
何より私には、まるでそれが『私』からのヒントのようにさえ思われるのだ。彼を失ってから泣いて泣いて泣き続けて前に進むことの出来なかった『私』から、未来を変えられる可能性のある私への、最大のヒント。
もしも私の予想通りあの花がヒントなのだとしたら、『私』からの声にならない言葉なのだとしたら、それを無下にすることは出来ない。『私』の無念を、想いを継ぐだなんてそんな大層なことではないのだ。ただ私が目をそらすことが出来ないという、本当に身勝手なそれだけ。

独りよがりな理由でヒーローになろうとしている私が、せめて誰かを心の底から救えたらという、それだけだ。


暗くなりつつあった思考回路に更に身を浸そうと瞼を閉じた時に、カーテンの開かれる音が、耳に届いた。この3年間で聞きなれた柔らかいソプラノが、そっと私の名前を呼ぶ。

「三毛ちゃん、目は覚めたかしら。その布団は昨日干したばっかりだから、フカフカだったでしょう?」

「……夢見先生。お陰さまで、ぐっすり眠れました。」

カーテンとカーテンの隙間から顔を覗かせてニッコリと笑った女性は、夢見先生。この雄英高校にてリカバリーガールと共に保健室を任される女傑で、彼女自身も精神科医としてはかなり有名だった、らしい。誰かが噂しているのを聞いた。
私の返事に夢見先生は更に笑みを深くして、チラリとその左腕に目をやる。確認するまでもなく、細かな雪細工の彫られた腕時計を確認しているのは分かった。この二年と少し、伊達にその動作を見てきてはいない。

「今は11時と少し、ね。3限目はもう始まってるけど、どうする?確かヒーロー科は基礎学だっけ?」

「はい。3、4限目です。今日はえっと…対人戦闘からの救助訓練、だったかな。」

「どうする?休むなら休むで、あと2時間ぐらい居てくれてもいいのよ。」

そう言ってから茶目っ気たっぷりにウィンクをして見せてくれた先生は、なんだか年上という感じがあまりしない。同じクラスにいそうな、そんな感じだ。
ちょうど一人で暇だったのよね、と先生は呟いてカーテンを纏めるために動き出す。先生の耳元で、雪の耳飾りが揺れていた。

「んー…もともとヒーロー基礎学は母数も少ないですし、もうそんなにこの授業を受けられる時間も残ってないから、やっぱり授業出ますね。」

「そう…まぁそうよね、確かにもうすぐ卒業だもの。1回1回の授業も大切よねぇ。」

「はい。それに大丈夫ですよ、別にこれだって病気って訳じゃないんだから。一回倒れたからってちゃんと休憩すれば……あ、先生。私って誰にここまで運んでもらったんですかね?」

夢見先生の眉が心配そうに寄せられたことに対しての罪悪感を押し殺すようにして言い訳をすれば、ふと気になった。
起きたばっかりの時も考えたけど、ここまで誰が私を運んでくれたんだろう。いつものロボットに運ばれたような気はしなかった。何となく、誰かの腕に揺られた、そんな気がしなくもない。それだったらやっぱり個人的にもお礼を言った方がイイだろう。

私の言葉に対して先生は暫くきょとんとした顔で私を見つめ返した後に、フッと破顔する。急にクスクスと笑い出した先生に私は、ただただ混乱することしか出来なかった。
カーテンを纏めるために動いていた指先が、そっと私の頭を一撫でしていく。甘んじてそれを受け入れてから、まだクスクスと笑っている先生を見上げた。

「そう、やっぱり覚えてないわよね……」

「…笑われると余計誰なのか気になります。」

「先生よ、先生。相澤先生が三毛ちゃんのこと、ここまで抱えて来てくれたの。」

「えっ、」

先生が、私をここまで?
意味もなく頬がカァっと熱くなる。覚えてるわけでもないのに、ドキドキと心臓が跳ね始めた。僅かばかりの嬉しさと、先生が無事だったという安堵の気持ちが重いぐらいに私にのしかかってくる。

良かったと、意識の範囲外で漏れていたらしい呟きに先生は少しばかり眉を寄せる。何が、とばかりの表情には笑顔で返しておいた。

私の夢の中に一度も登場することのないこの人には、私が先生に一方的に抱いている数多の感情を知らせるわけには行かないのだから。まぁもちろん、夢の中でも私の幼なじみをやっている響香や、彼の教え子だったクラスメイトたちになら言えるというわけでもないけれど。

「じゃあ先生、そろそろ私行きますね。ありがとうございました。いつも迷惑かけちゃって、本当にすみません。」

「ううん、別にいいのよ。今日はリカバリーガールが居なかったから私が貴方を見てただけだもの。」

「それでも、先生は私がこの学校で一番お世話になった先生ですよ?」

「うぅ……卒業を間近に控えた生徒にそういうこと言われると、涙腺に来るわね。」



保健室を出る前までずっと、私は先生の耳で揺れる雪をモチーフにした白銀色のピアスから目をそらすことが出来ないままだった。



人っ子1人いない廊下で、朝とは違って私の上履きの音だけが響いている。無駄にと言ってはなんだけど、まさにどんな設備でも規格外の大きさをしていたりすることが多いこの校舎では、たった1人の生徒が鳴らす上履きの音が案外響いたりもするのだ。声を出したりすると、余計に響く。
この約3年間何度考えたか分からないことをまた考えながら、私は歩いていた。差し込んだ西日が、目に痛い。

夢の中の『私』たちも歩いていた廊下。思い出してみればこんなに広い廊下なのに寄り添って歩いていた2人の後ろ姿に、小さくだけど胸の奥が疼いた。
欲張りな私が、心の隅っこで囁く。
お前も、それを望んでいるのではないかと。

望んでいないといえばまぁ嘘になるけれど、でもだからといって、それは私が簡単に認めていいことでもないのだ。心に巣食う欲張りな自分にまた鎖を何重にも巻き付けて、扉を閉めてしまう。
馬鹿なことを考えてはいけない。未来を変える、人を救うだなんてただでさえも烏滸がましいことを私はしているのに、私利私欲でその先を求めてしまえば、きっと自滅するしかないだろう。


それに望んだってきっと、叶いはしない。


ふと足を止めて、徐に壁に手をついてみた。壁伝いに十分な程に伝わってくる冬特有の寒さに若干尻尾を逆立たせながらも、手を離すことはない。
何を言ったって伝わることはない、それは分かっていても口をついて言葉が出てきた。
あの日の、あの時の私にこれだけは伝えなくてはならないような気がしたのだ。

「絶対に、助けるよ。…先生のことは私が絶対に、助けてみせる。貴方が、私がこれ以上辛い思いをしなくて良いように、絶対。」

力強く言い切ってからほんの一瞬答えるように掌が熱くなった、気がした。それでも僅かなその熱を閉じ込めるなんてそんなこと出来るはずが無くて、すぐにひいていってしまう。
後に残ったのはより固くなった私の決意だけだったけれども、今はそれでも、十分すぎるくらいに思えた。

欲張りな私を封じ込めるようにして壁を一撫でだけして身を引こうとした時にふと、じわりと、何かがこみ上げてくるような感覚。

(――どうか、あなたは後悔をしないで。)

聞き慣れた声が、そっと耳の裏で囁く。寂しさも優しさも愛しさも憎しみも、言葉に出来ないくらい沢山の感情を抱いた声。



欲張りな悪魔がまた声高く疼いたのをぼんやりと認識しながらも私は踵を返して、運動場に向かって歩き出した。

たとえ何があってもその言葉は忘れないと、また誓いながら。


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