ランチラッシュの料理と言えば、私がこれまでの人生の中で食べたモノの中でも随一の美味しさ、と言ってもいいだろう。三本の指には間違いなく入る。
家の環境的にそれなりに舌の肥えた方でもある私が言うんだから間違いない。
中でも個人的にはオムライス。これは本当に美味しい。本当、語彙力の低下を免れないと保証できるくらいには美味しいのだ。
ふわとろの卵と、いい具合に味の染み込んだケチャップライス。盛り付け方からスプーンの添え方まで、もうそれは怖いくらいに私の食欲を唆る。

今日も美味しいオムライスを提供してくれたランチラッシュのサムズアップに、私も同じく右手でサムズアップを返しておいた。うーんサムズアップも世界一だね。

「響香、親子丼一口ちょうだい。オムライスも食べる?」

「食い意地の張ったアンタがそんなこと言うなんて珍しい。」

「待って、私ってそんなに食に汚く見える?意外とそう言われるとショックなんだけど。」

きっと私は、浮かれていたのだ。あの日の相澤先生とのことがあってからは夢だって比較的穏やかなものばかりを視るようになってきていたし、美味しいオムライスだって食べられるし、いいこと尽くしだったから、油断していた。
油断は禁物、なんでこんな簡単なことを忘れて居たんだろう。その気を抜いた一瞬が何を招くのか、何を変えてしまうのか。誇張なんかではなくて、ずっと一緒にいたからこそわかっていたはずなのだ。
下手したら夢よりも長い付き合い。私たちはこの、まだ短い人生の大半を一緒に過ごしてきた。言い切ることだって出来るだろう。

響香は私の親友だ。

私が響香のことをよく知るように、響香だって私のことをよく知っている。誰よりも知っている。
お互いが何を考えて、何を思っているのかだって、きっと誰よりも。

「ねぇアンタ、最近何か良いことでもあったの?」

きっと誰よりも、分かっているのだ。
思わず息を呑んで、銀のスプーンを握っていた手に力が籠る。こんなにわかりやすい反応、その言葉が図星ですよと言っているようなものじゃないか。
それに思い返せよ。自分でもわかるくらい浮かれてたんだから、バレないはずないじゃないか。誰とどんな良いことがあったのか、それを直接当てられたわけではないんだから、誤魔化せばいいのだ。
スプーンを握り直して、左手で手繰り寄せたコップの中の水を一気に煽る。
落ち着いて。何も動揺することはない。

「何、どうしたの…そんな急に。」

「急とかじゃなくてずっと聞こうと思ってたんだよ、ウチは。…というか、ウチらは。」

「……え?ウチらって、まさか、クラスの?」

今度こそは本当に、握っていたスプーンを取り落としてしまった。腕が、目に見えてわかるくらいに震える。響香にバレてたって、誤魔化せるんじゃないかと思ってたけど、クラスのみんな?
そんな、誤魔化せないよと思って、

「いつもよりも酷い顔で降りてきたと思ったら急に倒れて、なのに気付いたら授業にいるし、なんか嬉しそうだし。」

「……うん。」

「しかもあの日から夜、あんまり泣いてないでしょ?みんな心配してたの。吹っ切れたとかならいいけど、もしかして悪いことがあって自暴自棄になってたら、って。」

こんなことを言ってもらえて、誤魔化そうだなんてそんなこと、もう考えられなかった。心配してるって言ってくれて、それでも直接私に聞きに来ることもなく気を使ってくれて、それを思うともう、泣いてしまいそうだった。
私にはもったいないくらい優しい、友人達だ。でも私はその友人たちに、結局感謝の言葉も何も言えないまま死ぬのかもしれない、のだ。だって、あの人のためならばこの命を投げ出すことも出来ると心の底から思っている。あの人が生きる未来のために死んだって構わないと、思っている。
心配をかけたことを謝ることも、ありがとうと言うことも、出来ないかもしれない。

「って、ちょっ、泣いてるの?待って三毛、なんで泣くのさ、」

落としたスプーンを拾って、左手のコップはテーブルに戻して、そこまではうまく出来たのだ。でも私にはもう、それ以上の誤魔化しが出来なかった。そんな事ないよ大丈夫だよ心配してくれてありがとう私は平気だから。そんな事もう、言えそうにもなかったのだ。

私はこれまでずっと涙の理由も何もかもずっと黙ったままだったっていうのに、その心配を跳ね除けて無下にしたっていうのに、どうしてこんなにも、この人たちは私に優しくしてくれるんだろうか。
そんなことをするから、こんなふうにまた、涙が溢れて止まらなくなってしまうのだ。

「ごめん、ごめんね…それでもやっぱり、やっぱりもう止まれないんだよ…本当にごめんね…」

こんな私を心配してくれる大切な仲間がいるということが、本当に嬉しかった。心の底から舞い上がってしまうくらいには、嬉しかったのだ。
それでも、その嬉しいという感情と同じくらい、否、それ以上に何も打ち明けられないことが辛い。頼ることさえも出来ない自分が不甲斐ない、情けない。
あの日からもう1週間が経った。今日が終われば一日の休みを挟み、とうとう私の高校生活は残り20日間をきることになる。それはつまり、もうタイムリミットが僅かしか残されていないということなのだ。私はもう最後の日まで、下手したらこの先一生思いの丈をすべて打ち明けられないままかもしれないということなのだ。
あの人が、先生が、消太さんが私のために生きると言ってくれたように私だって、あの人のために生きていきたいと思っている。だから私は例えこの身を投げ出すことになろうとも、先生を救う。絶対に、守ってみせる。
でももし、もし本当に私が死ぬことになったら?
そうなったら私は、この胸のうちに秘めた感情も何もかもを、永遠に伝えることが出来なくなる。それでいいと思っているのに、それでもやっぱり、気の迷いが応じてしまうのだ。

「ごめんね響香…私はそれでも、皆じゃなくて、あの人を選びたい…あの人の未来を、選びたい……」

「三毛?」

「もう嫌なの、あの人が生きていない世界なんて、あの人のいない世界なんて、」

「三毛アンタ、何言って、」

「消太さんが居ないと私もう、無理なの。あの人が居ないと私、満足に息だって出来ない。」

「ねぇ三毛、三毛ってば…!!もしかしてアンタが夢に見る人って、助けられない人って、大切な人って…消太さんって…相澤先生、なの?」

今私、何を口走った?
急速に体の中心から末端まで冷え渡っていくような感覚が身体中に走る。さっきまでは止まらなかったはずの涙もパタリと止まって、喉の奥からは息を吸うのを失敗したような、聞きなれた音がした。
目を見開いた響香が僅かに唇を動かして、嘘でしょと呟く。響香は、私の沈黙を、動揺を、肯定と受け取ったのだろう。その肩から目に見えて力が抜けていく。
バレた、バレてしまった、どうしようどうすれば良いんだろう、誰かに聞かれてたら、響香以上の誰かに知られてしまったら、

「きょ、きょうか…今のは、」

「…誰かこの学校で、その人とのこと知ってる人、いるの。」

「い、いないよ、…母さんたちも、兄さんも、知らないと思う。夢の内容は知っててもそれが、」

他ならぬ、私の担任だということ。

響香はそこまで言わずとも察したようで、深く息を吐き出す。何か言われるんじゃないかと思って僅かに構えたけれど、吐き出されたのは予想だにしていなかった言葉だった。

「二人だけの秘密とか、何年ぶりよ。」

「…言わないで、くれるの?」

「三毛は言わないで欲しいんでしょ。だったら言わないよ。でも詳しい話は聞かせてもらうからね。」

目尻に涙を溜めた情けない顔で、響香が笑う。心臓が鷲掴みにされたぐらい痛かった。
その笑顔を見て、もう、何も隠せないと思ってしまったのだ。私はもうきっと、響香に隠し事なんて出来なくなってしまった。



予鈴がなっても私たちは、席を立つことが出来なかった。


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