前日、急な申請だったにも関わらず案外すんなりと外泊許可は下りた。
職員室まで出向いて私がそれを申請した時に先生はしばらく私を見つめてから、何も言わずに書類を手渡すと頭を撫でてきた。その時点で私は思考停止状態に陥ったというのに追い打ちをかけるようにして一言だけ頑張れと呟かれたものだから、顔の熱が全然引かなくて恥ずかしかったのだ。しかも先生はさっさと職員室を出ていってしまったから私だけが取り残されて、まわりの先生達から寄越される生暖かい視線に余計頬が熱くなった。
側で私達を見ていたプレゼントマイクは目を疑うとでも言うかのように私を見つめてくるし、近くにいたミッドナイトはきゃーきゃー騒いで肩を小突いてくるし。

始終騒がしかった職員室を思い出しながら、膝の上に置いたリュックをまた抱え込む。見送りで寮の外まで出てきて、まだ眠そうに手を振っていてくれた響香の姿を思い出して、若干表情筋が解れた。今はなんだかあの騒がしくも暖かい雄英の雰囲気が懐かしく感じた。まだ一時間もたっていないのに回帰欲求が出てきたわけだが、私はあと1日耐えられるんだろうか。
私のというか、私たちの実家は雄英からそこそこ近いところにある。寮生活が始まる前の一年生の最初の頃だって家から十分通えていたし、それは裏を反せば今までも簡単に帰宅が可能だったということにもなるのだが、ここ一年はもう私から家を訪ねることは無かった。電話だってしたとしても必要なことだけ、業務連絡のようなもので、顔を合わせたのだって、学校の面談の時だけだったし。
すべての原因は父からの言葉を受け止め、何が本当に自分のためになるのかを考えることが出来なかった私にあるのだろう。諦めることも捨てることも出来ず、そのくせ守りきる覚悟もなかった。大切だと言えるものはあっても、そのためだけに生きることは出来なかった。要は、勇気が全く無かったのだ。自分では無い誰かを守りたいと思う気持ちと同じぐらい、我が身が大切だった。
そして母は紛れもなく、そんな私に安堵していた。進むことも退くことも出来ずにただただ思いを募らせるだけの私の姿に母は、不変を祈っていたのだ。
母は、私が医者になることを望んでいなかった。それは幼い頃からずっと、この身でひしひしと感じ続けていた事実に他ならない。父の後を追うようにして兄が医者の道を志し始めた時から私に向けられるその感情はさらに大きくなり始めた。でも医者にならずにヒーローを目指して欲しかったわけではないことくらい、私にだってわかる。

母は私に、「普通」に生きて欲しかったのだ。

親を継ぐためにヒーローになるでも、名も知らぬ他人を救うヒーローになるわけでも、それこそ家のために何もかも捨てて結婚をさせられるわけでもなくて。母は私が自分のようになることを何よりも恐れていた。同じ道を辿るようなことだけは、させたくなかったはずなのだ。だから諦めて捨てて、大切なものを守れるようになって欲しくないと思っていた。守りきる覚悟も勇気も持たずにいて欲しいと願い続けた。
だけど私は、母の願う「普通」じゃなかった。容姿は母の個性を受け継いで、他の子よりも走るのは速かった。眼だって耳だってよかったし、家族はみんな、母の個性を継いだんだろうと思っていたのだ。
だけど、違った。四歳の誕生日のあの日、家族や響香たちからたくさん祝ってもらって、ご馳走を食べて、大きなウサギのぬいぐるみをプレゼントでもらって、もう本当に幸せな気持ちで眠りについた。でもその眠りは、一時間も続かなかったのだ。

その冷たい体に触れる恐怖、地面に叩きつけられるようにして降り注いでいた雨の冷たさ、その同僚の、生徒の堪えることの出来ない嗚咽。

それらは全てダイレクトに一切の配慮もなく私の中に流れ込んできた。ありとあらゆる劣情を包み隠さずに、あまりにも鮮明に。

「ねぇパパ!パパお医者さんでしょ!?しょうたさんを助けてよぉぉ…!!」

飛び起きて、母と父にすがって泣き叫んだ。心配する二人の服を掴んで、助けて助けてと、半狂乱になりながら叫び続けた。
私はもうあの日から母の望んだ「普通」なんてものからはかけ離れてしまっていたのだろう。その頃から全国でも屈指の腕を持っていた父にかかっても私の個性に関しての解決策は一切浮かばず、それでも諦めのつかなかった母は私のためだけに全国の病院を転々として、それこそ寝る間も惜しんでたくさんの時間を割いてくれた。終ぞ私の悪夢が覚めることは無かったけれども。
母も父も、それこそ年の離れた兄も、私の個性が判明したあの夜から何も変わらずに私を愛してくれている。本来ならば簡単に手に入るはずの「普通」にすらなれなかった私を、いつまでたっても夢に怯えることしか出来ない私を。たった一人の男のためなら自らの命さえも投げ出してしまえるような、私を。
今までもらうだけだった愛を返せないままなのかもしれないと思うと、また溜息が零れ落ちて人のいない車両に空しく響いた。
やがて流れていた景色は見覚えのあるものになり、アナウンスが駅名を告げるのと同じタイミングで私は立ち上がる。両手で抱えていたリュックを背中にかけてから一歩踏み出して、一年ぶりに実家の最寄におりたった。吸い込んだ空気にはなんとも言えない懐かしさがあって、思わず口角があがった。
決して広いとは言えない、それでも慣れ親しんだプラットホーム。懐に仕舞い込んでいたスマホを取り出して、特に理由といった理由はないけれどぱしゃり。クラスのグループに張り付けておく。すぐに上鳴から返信が来て、それに返事をしながら歩き始めた。人生の半分以上をこの町で過ごしてきたんだから、道なんてある程度下を向いててもわかるものだ。

駅前に広がるアーケードを抜けて二つ目の信号。そこを右に曲がれば父と兄の務める病院があり、まっすぐに進めば母が一人で私を待つ家にたどりつく。家族に私の思うことすべてを伝えることになるであろう数刻後のことを考え出してしまうとなんとも言えない憂鬱さがこみあげてきてしまうから、今だけはそんな考えをやめてしまおうとばかりに、声をかけてきてくれるみんなに笑顔を振りまいた。

「おー三毛ちゃんじゃねぇか!!どうした、もう卒業してきたのかァ!?」

「お久しぶり、魚屋のおじさん。卒業はまだなんだけどね、今日は里帰り的なアレだよ、アレ。」

「そうかアレかァ!!」

卒業祝いの晩餐にはうちの魚を使えよ、と声をあげて笑っているおじさんに手を振りながらまた歩き始める。あの人は私が最後にこの町に来た一年前から変わっていないようで、少しばかり胸が温かくなった。店先から顔を出したみんながニコニコ笑いながら冗談を飛ばしてくれるのに返事をしているうちにまだ真新しい花屋が目に付いて、あぁと納得する。フラワースタンドの立ち並ぶ店の奥側では、よく知った背中が忙しなく動き回っていた。

「お姉さん、お久しぶり。」

「わっ!!…三毛ちゃん?わぁ、しばらく見ないうちに大きくなったねぇ!!」

振り返ったその表情が中学生のころからなにも変わっていないものだから、思わず笑いがこみあげてきた。この人は本当に、何も変わらない。その不変さが、私には少し眩しいぐらいだ。

「お姉さんのこと、学校でもちょっと話題になってたよ。」

「ホント?もう、有名人は困っちゃうなぁ。雄英で有名になるとか、絶対先生たちの耳まで届いちゃってるでしょ。」

「あそこまでニュースになってたんだから、話題になる以前に耳まで届いてたと思うけどなぁ。」

「…私だってあそこまで報道されると思ってなかったもの。報道されてから私って意外と知名度高かったんだなぁって気づいたのよ?個人的にはアングラのつもりだったし。」

半年ほど前のことだ。一人の女性ヒーローの引退が新聞でとりあげられた。マスコミはその情報に食いつき、ヒーローの引退理由を探ったのだ。そして暫くたたずにその引退理由は各報道機関によって公表され、彼女は一躍時の人となった、というわけである。
雄英のヒーロー科を主席で卒業していった彼女はもともと期待の星なんていわれていたこともあって、雄英が教師として彼女を引き抜いたのではないかとマスコミが勘ぐっていたのもあっただろう。雄英は全国でも屈指のヒーロー育成機関だけあって、一度ついた火はよく燃える。もしも雄英の引き抜きによっての引退発言であったなら、雄英共々彼女は炎上していたはずだ。
まぁ彼女がここで呑気に花屋を営んでいる時点で、そんな不穏なことにはならなかったということは自明の理ではあるのだが。

「ヒーローとしてたくさんの人の命をこれまで救ってきたから、今度は人の心を救いたかったのよ。」

「お姉さんらしいよ。」

「そうかな。私はヒーローのほうが向いてるんじゃないかって引退するとき、皆に言われたけど。」

「そうなの?私はお姉さんはヒーローにならずにお花屋さんになるんだろうなって思ってたから、ヒーローになったことも驚いてたけどね。…あぁそうだ、ひとつ聞きたいことがあったんだけど。」

「ん?なぁに?」

「悪い意味の花言葉がある白い花って、わかる?俯いてるように見える花。」

「スノードロップね。」

食い気味に出された答えに私が瞬きをして、その言葉を反芻しているうちにお姉さんはまた喋りだしてしまう。さっきまでのおっとり具合とは正反対の口調はどこか、ヒーロー時代の冷徹さを匂わせる何かがあった。

「花言葉は希望だとか慰めだとか。…よくない意味だと、あなたの死を望む、とかね。」

ぎゅっと掴まれるみたいに胸が痛くなる。どんどん血の気が引いて行って、足元がぐらついたような気分さえしてきた。死を、望む。私であってあの人じゃなければいいのに。望むのであれば、私の死を望んでくれれば、

「三毛ちゃん。」

「っ…!!え、あ……」

私を覗き込む瞳の中の八割は心配で、残りの二割はなんなのだろうか。その瞳を見たときに、あぁと思ったのだ。この人は確かに、花屋なんてむいていない。だって今だってヒーローの目をしている。勇気と正義感と、それからそこなしの闇を抱えた瞳だ。

「…よかったら自分でもスノードロップについて調べてみて?花についても敵についても、私は客観的になんて語れないわ。絶対に主観的になるし、関係ないことについても語りだしちゃうと思うから。」

「うん…ありがと、教えてくれて。」

「別にいいの。じゃあまた今度ね。」

ゆるりと振られた手に何かしらを返す余裕すらもなかった。それでもふらつく足と不鮮明な頭でなんとか考える。お姉さんはきっともう、兄さんに電話をかけているだろう。二人は同級生であり幼馴染であり、それ以上でもある。それで兄さんはそれを迷うことなく父さんと母さんに伝えるだろう。兄さんは私のために、その行動に一切の迷いを抱きはしない。
でもそれじゃあ、困るのだ。
やっぱりこれは、私の口から言わなければいけない。それでしか私は、もう愛を返すことが出来そうにもない。

そう思ったから、電話をかけた。

「もしもし、兄さん?」

『あぁ。どうした?』

「そこに父さんいるよね。出来たら変わって欲しいんだけど。」

この時間はお昼休みだから父さんと兄さんは一緒にいるだろう。電話に入り込んできた音から推測するに、いまは屋上にいるはず。昼休みだって記憶が正しければ、あと二十分はあるはずだ。

『…もしもし、三毛か?』

「うん。お久しぶりです、父さん。単刀直入に言っちゃうけど、兄さんのところにお姉さんから連絡入ったよね?それ、いまはまだ母さんに伝えないで欲しいの。」

言葉にしなくても、なぜ私がそれを頼んだのかは分かったのだろう。いつになっても感情の読み取れない低い声が暫くの迷いの後に肯定の意を示す。父さんも兄さんも約束は守ってくれる人だから、母さんにつたえるようなことはしないだろう。それならば、私も次のステップに踏み出さなければならない。

「ありがとう。…雪猫先生、今から診察ってお願いできますか?どうしても先生に話しておきたいことがあるんです。」

『……三十分後、ロビーにいてください。迎えを寄越します。』

「…ありがとうございます。」

そこで電話は終わって、私は思わず立ち止まる。スマホを持った手が、アスファルトを踏みしめる足が、震えていた。今から父と兄にすべてを話すことに怯えているのか、それともさっきの話を聞いた時の恐怖が体に染み付いてしまったのか。そのどちらかはわからないし、わかりそうにもない。
ただ一ついえるのは、もう退くに退けないところまで来たのだということだけだ。


私は何も迷うことなく、二つ目の信号を右に曲がった。


back