04






私たちがあまりにも静かなものだからその空気が伝染して、今この空間ではだれかの些細な物音ひとつ許さないとでもいうような空気が漂っている。向かいのソファーで正座をする神楽ちゃんも、さっきお茶を運んできたお盆を抱えたまま立ち尽くすメガネくんも、社長席に座って開け放たれた窓の向こう側を見つめ続けているその人でさえもが、居心地が悪そうだった。そんな様子に、罪悪感にも似た何かがふつふつと湧き上がってくる。
早くお金を置いて去ったほうがいいのだろう。だってここはこの三人の居住スペースであって、私がぬけぬけと踏み入って荒らしていい場所ではないのだ。家主たちが居心地の悪い思いをする義理なんてこれっぽっちもない。それも私みたいな初対面の相手のせいで。
そう思ったら早かった。懐から茶封筒を引き抜いて声をあげるために息を吸う。吐き出した息が震えていたから、これはうまくやらないと声だって震えてしまうだろう。

「あの、」

「あーっと、」

沈黙。
まさかこの場で最も会話をしたくない相手と声を上げるタイミングが被るなんて誰が想定できる?何となくそちらに向けた視線がかみ合ってしまい、反射的にぱっと目をそらす。神楽ちゃんに手を引かれてこのソファーに座らされた時点で一度は収まった震えがまたぶり返してきた。茶封筒を握りしめた指先の震えが次第に大きくなり、落とさないためにもと力を籠めれば今度は皺がよってくしゃりと音が響く。

「…お客さん、依頼か?」

お客さん、だって。
絞り出されたその声に予想していたよりもずっと強く心臓が悲鳴をあげている。これでいいはずなのになぜか、言葉にできない感情がとめどなく溢れ出してきた。思わず顔をあげてその目を見てしまったから、なおさら後悔する。

「…いえ、依頼じゃないです。さっき一悶着あって、神楽ちゃんの番傘を壊してしまって。買って返そうと思ったんですけど保護者の方にも謝らせていただきたいなと…」

「…どうせ神楽に巻き込まれたんだろうから謝罪なんていらねぇよ。買って返す必要も別に、」

「夜兎の子なんだから、番傘を壊してそのままなんて危なすぎます。神楽ちゃんから聞いた話、金銭的にも余裕はないようですし。厚かましいかもしれませんが、このお金で神楽ちゃんに番傘を買ってあげてください。」

机の前まで歩いて行って、茶封筒を叩きつけるようにして手渡す。こんな間近までよってしまったのだから、私の手の震えはまるわかりだったのだろう。わずかに顔が顰められる。それでも彼が私に対して何も言えないのは、優しすぎるからなのだ。知らないふりをして、見ないふりをして、忘れたふりをして、そうやって今でも私に優しいままだから、その優しさが私のためにならないと気付けない。
そして私はいつだってその心地いいだけの優しさに、甘えてしまうのだ。自分でも痛いほどに、苦しいほどに、わかっている。

「そこまで言うなら受け取るけどよ…」

「受け取ってもらえてよかったです。じゃあ私、もう用事もすんだし帰りますね。二人も、わざわざ時間取らせちゃって悪かったわね。よかったら余ったお金で美味しいものでも食べて。」

一方的にまくし立てて、早々と退散するためにも頭を下げておく。あの封筒の中には相当な額の札束が入っているからきっと、というか絶対に余るだろう。それがこんなにも空気を悪くしてしまった私にできるせめてものお詫びだ。だから、だから早く帰らせてくれ。この人の生活感が溢れる場所にいることが、なぜか不安で仕方ない。理由なんてわからないけど、なぜか。

「それじゃあ私はこれで、」

「おい。」

「…なんですか?」

「こんな大金どこで…」

「あぁ、いってませんでしたっけ。私こう見えても、八幡の家のもので。それぐらいならなんてことは無いですから、どうぞ受け取ってやってください。」

その名前を聞いて二つの赤い瞳がゆっくりと見開かれる。仕事柄江戸の事情をよく知っているであろうこの人がその名を知らないはずがない。そう思って、頼むから黙ってくれと祈りながら口にしたのだ。

「やはた?何アルか、それ。」

「神楽ちゃんは知らないか。萩のほうの名家だよ。江戸に別荘があって、今は当主の男性が一人で切り盛りしてるって聞いてたけど…」

「よく知ってるのね。でも今は名家だなんて名乗ることも出来ないくらい落ちぶれちゃってるわ。ただいくつか土地を持ってて金銭的にも余裕があるだけ。いうなれば没落した元名家、って感じかしら。」

決して誇張した言葉などではなく、それが現状なのだ。現実的に考えて当主が死ねば跡取りはいなくなるし、この代で八幡家は名実ともに終わりを迎えることになる。そして私たちはそれが最善であり、抗うことはないと考えているのだが、それは白昼堂々話すことでもあるまい。そしてそれは、こんなにも幼い子たちに聞かせていいものでもない。
私の言葉への反応に困ったらしいメガネくんが中途半端な笑顔を作って、ちらりと部屋の奥の方へ目をやる。目線を寄越されたその人はじっと私を見ていた。感情の読めないそれが、何故だか虚しさを煽る。

「それじゃあ私、お暇させていただきますね。…神楽ちゃん、今日はごめんね。なるべく早く番傘、買ってもらうのよ。えぇっと、メガネんくんも、」

「志村です。志村新八。」

「志村……あぁ、新八くんね。新八くんも育ち盛りなんだからたくさん食べるのよ。」

恒道館の長男くん、か。ということはつまり、彼女のよく話す弟くんということになる。ちゃらんぽらんな雇い主というのも、私を見つめる彼ということだろう。口ではなんだかんだと言いながらも言葉の端に滲み出ていた信頼を思い出して、思わず胸が傷んだ。
馬鹿な人だ。本当に、馬鹿すぎる人。

「……それじゃ、お暇させていただきます。季節の変わり目ですので体調不良にも十分気をつけてくださいね。」

扉に手をかけて下駄に足を通せば、わっと外の喧騒が近付いてくる。この部屋の中が静かすぎたから、その蔓延るような五月蝿さでさえも懐かしく感じた。まぁその静かさの原因は八割型私であり、責任もまた私にある訳だが。
ここには二度と来ないで家も売り払おうと固く決意を決めながら、扉を引く。抵抗なく開いたそれの向こう側に身を出そうとした時、

「恭子っ!!」

駆け寄ってきた誰かに、ぎゅっと腕を引かれる。私よりもずっと小さな手が、それに見合わないぐらい力強く私の手を握っていた。思わぬ所で3度体感することになった夜兎の力強さに、顔を顰める。

「何、どうかしたの?」

声は、少しだけ冷たいものになった。どうして引き止めてしまうの、そこは空気を読んでよと心の奥底で思う。


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