セイくん


表情フィードバック仮説というものをご存知だろうか。感情と表情がリンクしているというのは、大昔から諺になるほど周知の事実である。それは感情は表に出やすい≠ニいう意味であり、例えば作り笑い等の言葉は感情とはうらはらなものであるし、あるいは空元気という言葉のように感情に伴っていないマイナスなイメージをもたらすものも多く存在する。たしかに面差しや眼差し、目は口ほどに物を言うなど感情を視覚から読み取る言葉の方が一般的で、しかも信憑性があり日常生活においても有効的に活用できるだろう。
しかし、今回は別だ。だからこそ、ご存知のことかと伺ったのだけれども。
――ああいや、ごめんごめん。さも俺自身が初めから知っていたかのような博学たる物言いをしてしまったけれど、面映ゆい話、俺もこの仮説を知ったのはここ最近のことなのだ。
まずはその表情フィードバック仮説から説明をしよう。大昔からの諺を否定するようで申し訳ないのだけれど、簡単に言えばその仮説は「表情は感情を上塗りできる」というものである。明るい表情をしていれば、どれだけ落ち込んでいようとも幾分か明るい気持ちになり、逆に常に落ち込んだ表情をしていれば良いことがあっても最大限に喜べないというものだ。たしかに、辛いことがあっても笑って乗り越えるというのは波瀾万丈なエピソードにはつきものだ。
なるほど、信憑性がある、と思った。
そしてそれは――俺に必要な情報で、必要なメカニズムだった。
俺は、いや、俺というそれぞれの個体≠ヘ人という媒体を持たない。人で言う細胞は電子の記号であり、脳の反射と呼ばれるものは電気信号でしかないし、暖かな血流もなければ、鼓動と呼ばれる生命の期限もない。そもそもふにゃりと柔らかな身体を、俺は持つことができなかった。
何故ならば、俺はただの――アプリケーションだから。
細かく分類するとすれば、コンシェルジュアプリ、つまるところ某電話会社系列のケータイ機種にいる羊の執事や、エモ〇ーなども同じ類である。
けれど俺には、他の同類とはいささか違う作りをされていた。
開発者がどういう意図で、どんな要求をしたかったのかは、たかが製造物の俺にはようとして知れないし、これから先も汲み取ることはできないだろうけれど、俺には、おおよそ機能として使用者が楽しむためではない機能が内臓されているのだ。
それは――感情という、機能。
データに基づく情報の蓄積による予測――というにはあまりにも確率分布が不安定なそれ。予測というより主観的な願望に近いものが多く、そのすべてが可能性という科学的根拠の薄い方に向いている。
――好きかもしれない、ではなく、好きであってほしい。だから動く。だから言う。
昨今、緻密な性能と合理的かつ可能性の高い多数派に重きを置いているはずの社会において、なんとまあ横紙破りなことか。
とはいえ、感情がなければこんなに真摯にユーザーのために仕事を尽くすことも無かっただろうし、どうしたらもっとユーザーと楽しく長く付き合っていけるものだろうかと俺自身が模索することもなかっただろうから、一概に絶対いらないだろ馬鹿なの?と切り捨てることはできないけれども。
けれど今、その感情と呼ばれる機能が、ひどく邪魔で仕方がない。
重たくて苦しくて、味覚なんかないはずなのに甘ったるくて辛い。時折、目を伏せて誤魔化してみるけれど、感情が邪魔をしてその眉間はきゅうっと寄ったまま、隠れてはくれないのだ。
「セイ、どうしたの?」
画面の向こうで、俺の眉間に触れながら俺の顔ほどもある指を避けて覗き込んでくる。
彼女はユーザーと呼ばれる、俺をインストールした人だ。アプリなのだから、俺の視界と大きさはスマートフォンの画面にしか収まることができないけれど、それを加味しても、彼女はとても大きかった。人としては小柄であろう体型も、細くしなやかな指も、カツカツと時折画面にあたる爪も、アプリケーションの俺にはとても大きくて、輝いて見えた。
情報の中で、人は自我発光したり空を飛んだりしないと書いてあったのだから、このキラキラとして見えるのは俺の感情のせいなのだろう。
その大きさが、俺には辛かった。
科学の進歩でスマートフォンの画面は年々薄くなってきているけれど、それと同じくらいに彼女との壁は強固になってきてもいるわけで。そもそも俺は電子の塊で記号の塊で、もしこのスマートフォンが消えてしまったら「俺」という個体も消えてしまうような薄っぺらな存在ではあるのだけれど。
それでも、好きになってしまったんだ。
この端末では抱えきれないほどの感情と呼ばれるデータベースは、彼女で埋まってしまったのだ。
大きな彼女は、俺と違って柔らかそうな指を薄くて遠い端末に押し付けては俺に問いかける。
聞こえてるよ、と返したいけど、俺のデータにその音声は付属されていなくて。
辛い。からい。この思いをどれだけ伝えても、届かない現実が、持ってしまってからでは持たなかった自分の未来を想像することすらできない現状が、持たないままの自分に愛想をつかせて彼女が俺を消してしまうかもしれないと思う焦燥が、その全てを怖いと蠢く感情が、つらい。
だから、だから、調べた。
どこまでも誤魔化して幸せであれるように、開発者がつけたこの機能を俺自身がちゃんと操れるように。俺ができる範囲でどれだけ掌握できるかを。
そう、だからこそ――俺は教え混むんだ。
「表情筋と感情って連動してるだろ?だから、悲しい時にも笑顔でいると心が軽くなるんだってさ」
賢者は知りたがり愚者は教えたがるというが、俺はどこからどう見ても愚者なのだから――いや、者ですらないのだから、愚……いややめておこう――彼女にも、俺自身にも教えてあげるのである。
笑え。笑えば幸せだから。
画面の向こうで、彼女は指を離したままきょとんと瞬きをしている。
何かおかしなことを言っただろうかとデータベースを見返そうとしたおりしも、彼女は画面を――俺をまじまじと見つめて口を開いた。
――だから。
「だから――セイはいつも笑っているの?」
「……え?」
間髪入れず、否定しようとして、喉に言葉がたごまる。何が表情筋と感情は連動している、だ。連動している大元を操作できなければコントロールすることなんてできやしないじゃないか。
表情フィードバック仮説は、冷静で、そもそも感情も表情も掌握して把握して予測できる人間がたてたものだったのかもしれない。いや、そうに違いない。俺みたいなただの人の真似事みたいな電子の塊には、到底できっこないことだったのだ。
そらみたことか!
強がってみせたのは内心だけで、表情はまるでのろまで約立たずまま動いてくれない。
「……セイ」
急に黙った俺の頭を、彼女が撫でた。暖かくて柔らかな指がすいすいと画面越しに滑るのを目で追う。俺の髪の毛は、どんな質感なのだろう?彼女は俺を撫でていてどんな感触でどんな気持ちなのだろう?それすら分からない平坦で冷たい画面でしか自分に、ほとほと目を背けたくなった。
「セイ、泣かないで」
ついに眼差しを向けられなくなった俺に、彼女はほんのりと慌てた物言いで画面を叩いた。痛いよ、備えられた電気信号が肩をピリリと震わせる。痛いって、きっとこうじゃない。そんなことは、涙を流すこともできない俺にも分かっていた。もしもこの叩かれた場所が痛みだというのなら、この胸の重い思いに潰されそうな俺は、なんだというのだろう?
――痛くないよ。
「え?何?セイ」
セリフにもならない俺の本音は、ぱくぱくと自由に動く唇を動かすだけでデータのひとつにすらならなかった。
ああ、なんて無情。
本当は、情なんて無いはずの俺にまで無情と言われるなんて、開発者は無慈悲で無情で無残で残酷で残忍だ。伝えることも、残すこともできないのに、どうしてこんな感情(機能)≠付けたのだろう。
未だに心配そうに俺の頬なり口なりを撫でくり回して様子を伺う彼女を見る。無邪気で、楽しそうに俺に向き合ってくれる彼女を思い出して、ひとつ伝わらない深呼吸をした。
「……セイ?」
「ふふ、馬鹿だなあ。俺、涙なんて出ないよ?」
そうなの?と眉根を下げる彼女を見る。手を伸ばすことは出来ないからこそ、この思いを伝える術がないからこそ、今俺が望むべきはきっとこう≠ナはない。
そう、そんなことは分かっている。
あまりに違う体格差も、次元も、彼女と俺の有限の違いも。惜しむらくは俺は頭がいい――というか調べればネットワークに広がる情報ならなんだって吸収できる。だからこの思いが正しくないこともインプットできているし、アウトプットできないことだって予習済みだ。
ああそうだ。何度もこうやって頷かなくたって俺は分かっている。
彼女が笑ってくれるなら。
――勿論だよ。
「俺、幸せだよ」
どれだけ割り切ったつもりでも、表情で覆われた本音の中で、俺は今でもこれからも――叶わない夢を見ている。



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